Meteor
ここにきて、自分にとって都合がいいのはこの雨くらいだった。
適度に視界をぼやかし、適度に体温を奪う。これがなければ、もっと頻繁に頭を焼かれて死んでいたに違いない。無駄なことを思い出した。無駄な――もう戻る予定もない場所のことだ。
ずっと続いている熱っぽさのせいかもしれない。先の戦闘でのダメージが大きかったのだろう。戦闘で。自分がダメージを受けるなんて。
だから、ぐらぐらする頭を抱えて、小一時間こんなところに立っている。こんなところに立って。
大きくゆれた体を支えて踏みとどまると、青白い手のひらが離れていくところであった。その向こうから、心配げなシレーナの顔がのぞく。ネオンの明かりは遠く離れて、真っ暗な部屋の窓から、彼――の姿を、うすらと青く照らしている。
「いつ、もどったんです、か」
彼がいつ仕事から戻ったのか、あるいは自分がいつ部屋へ戻ったのか。シレーナはその両方に、「一時間ほど前です」と簡潔に返した。
「どうしちゃったんですか。その、ひどい熱で……いつからあんなところに倒れて」
そこまで言った少年がはっと口をつぐむ。倒れていたと聞いた途端、眉間にしわが寄ったのだと、自覚していた。
「いえ。すみません。倒れていたんですね」
「あの、はい」
遠慮がちな声だった。
「迷惑をかけましたね。重かったでしょう」
「ええ、いえ、それは」
目を泳がせてから、「その……少し軽くなってもらいましたし、自分でも歩いてくださったので」
後半だけ言えば言いにくくもなかったろうに。こう馬鹿正直なところを見ると時折、柄にもなく彼の行く末が心配になってくる。シレーナの後見人でも保護者でもないのだが。
「情報を削るのでしたっけ」
「ええ、人にはあんまり……使うべきではなかったんですが……慌てていて」
シレーナは時折、大きなものを運ぶとき対象の情報量を削って、軽量化する。周りを頼ればいいのだが、本人にも意地があるようで。
いわく、高度に情報化された社会において物質とは情報そのものであり、理屈ではその情報量を削って一部量子化することで、物理的に軽量化できるという。実演して見せられこともあるが、正直原理はよくわからない。物質は再構築も簡単だから、その方式を使える一方、生き物はわずかにずれが生じただけで全然別のものになりかねないものだという。彼のことだから、削る部分を選ぶのも戻す作業も十分に注意深く行ったことだろう。
「道理で」
「え?」
「いえ。助かりました」
ややあって、自分の額に触れてみる。熱はすっかり引いていた。
「そう居心地悪そうにしなくてもいい。あなたの知っているのと、変わらないでしょう?」
「え? ええ……もちろんです」
ほっとした様子で、シレーナは自分の胸元に手を当てて微笑む。
「その気になれば、別人に作り変えることもできるでしょうに」
「そんなこと」強い口調で身を乗り出し、ややあって、少年は目を泳がせ、後ろへさがった。
「あの、頼まれていたシステム、うまく動いていますか? あんまり、満足にテストできたわけでもありませんから」
「構いません。ありがとうございます」
彼がテストできないのも当たり前だ。ここで一般的に使われているネットワークには適用されないシステムだ。彼が直感的にこのシステムを完成させることができたのは、ひとえに相性というやつだった。彼独自のアクセス用言語と、対応すべき相手の言語。あるいはその形。
その仕事はまずまず上出来といえた。改めて眠りに落ちたあとも、頭の中に触れて引っ掻き回される不快な感触はなかった。
***
ファルコはどうにも言葉を選びかねているようだった。いささか遠回りな会話を経てまとめると、「社の機密情報に手をつけた者がいる」「可能性がある」ため、ここ数週間のアクセスを追ってみてほしいということだ。聞き終えたときには、さしものニルギリも多少困惑した様子であった。
「可能性がある、っていうのは?」
「そのままの意味だ。形跡はないが可能性がある」
メガコーポのデータベースへの不正なアクセス、それ自体はいくらでもあることだ。大抵は強固なセキュリティに防がれるものだし、突破したとして逃げおおせるハッカーはそうそういない。
「ログは残っていないんだ。まあ、ハッカーであればログを含めて痕跡など残さないだろうが。
気になるのは配置だ」
はっきりと場所が変わっているわけでも内容が変わっているわけでもなく。ただ――違和感がある。彼の言い分はこうであった。
「誰かがそれを手にとって、またそこに置き直した。そんな違和感だ」
「探偵みたいなことをおっしゃる」
軽口にやや不本意な表情を返されると、探偵は席を立った。
周囲に音が戻ってくる。熱帯を意識した木々や花をあしらった柱、あるいは木や蔦そのものを柱に這わせて壁にする。簡易的なブース型のカフェだ。普段遣いはしないが、こういった話をするのにはこの木や蔦が役に立つ。めったに止まない雨をコンセプトに取り込んだ結果らしいが、これをそのまま楽しんでいる客はあまり多くないように思える。
実際、彼らも話が終わればとっとと店を出る準備をしている。
「知り合いのハッカーを頼っても?」
「社員をお貸ししよう」
そこで、ふと「助手はいないようだな」
「そうなんですよね~。近頃調子悪いみたいで?」
「調子が悪い? そういうのとは無縁だと思っていたが」
ファルコの言葉に、ニルギリはひとつだけうなずいてみせた。特別に変わったことは一つだけ。ここ数日、彼は一度も死んでいなかった。
死んでいない――撃たれていない。
ふと目を上げるとファルコの姿はなく、外の雨は激しさを増している。しばらく考えると、探偵は椅子に座り直すことにした。この雨音の中であれば、カフェの内装を楽しめそうだった。
***
「近頃問題になっているじゃありませんか。平行世界、あるいは他文化圏からのアクセス。悪意があるのかないのか、情報が盗まれているのかいないのかすらあやしいと」
返答は我ながら淡々としたものだった。彼が話題にするのも時間の問題かと思っていたが、よりによってメガコーポからの調査依頼として持ってくるとは。
事実、社会問題にもなっている。ニュースの文字情報の総量が一バイト減っているとか、廃棄予定のガイノイドの総重量がちょうど二一グラム減っているとか。あるいはwebで逢い引きしていた恋人が、目の前で数字に変換されて姿を消したとか。事実か嘘かも怪しい、都市伝説じみた話題にはことかかない。いよいよ世界も終わる準備を始め、情報だけでも他の宇宙や文明に残ろうとしてるんじゃないか、そんなことを言い出すコメンテーターが出る始末。未登録のデイブレイカーまで使うほど、メガコーポでも困っているということだろうか。
だいたい、解析ができたとして、それがこちらからは手が出せない場所であったなら。ふと、そこで探偵は顔をあげた。
「きみ、珍しく噂話なんか知ってるんだね?」
「別件でジミーに聞いたんですよ」
分解していた左腕を持ち上げて接続しなおす。メンテナンスを終え、控えめな音をたてて再接続された腕は、さらに一拍遅れてようやく自分の意志で動かせるようになった。
「きみが自分で動くような用事が?」
そこまで踏み込まれると、露骨に嫌そうな顔で相手を見返した。たぶん嫌そうな顔だったろう。相手が愉快そうな顔をしていたから。
「本体がなくなりましたので」
「そう?」
軽く流そうとしたそいつは、それから「え?」と付け足した。
「え? 君の?」
「今はそれを探していますので」
「そう、じゃあやらない?」
「報酬額は魅力的ですが」
にべもなく手を振ってみせ、相手が納得したらしいと確認すると、さっさとそこを立ってライフルを背負い直す。用事は終わった。
「俺を撃たないのも、それが気になるせい?」
勢い。
振り返った自分の右腕はライフルの引き金に指をかけていた。
煮詰まった殺意は頭の中を散々沸騰させていたが、その男をにらみつけるばかりで数秒をおくと、左手をひっかけて右腕を引き下ろす。まるでレバーでも引くような機械的な動きだ。変な動き。そんな表情を見てとると、舌打ちして背中を向けた。大股に玄関まで向かうと、何を話しかけられても聞かないふりで叩きつけるように扉を閉じる。
湿気った冷たい空気が体表を撫でる。階段を降りたところでようやく、立ち止まって深く息をついた。下を向くと、ようやく目が痛くなるような光の波が戻ってくる。さっきまでろくに景色も見えなかった。土砂降りに瞬くアスファルトの反射光。思い出したように、肩から引っ張り上げたコートを頭にひっかける。また倒れてはたまらない。
目をおよがせ、やがて、自分が乱反射する波紋のひとつひとつを追いかけていることに気づく。
大股に歩き続ける。肩を怒らせ、実際怒りは顔に出ていたに違いない。いつもなら一人二人は身の程を知らないチンピラが絡んでくるのを許すところだが、どいつもこいつも不機嫌に押しのけ、あるいは脇へ投げて。今夜ばかりは、誰にも妨害を許さなかった。許さない。
家族を愛するのも、あの探偵を憎むのも、死線の上で高揚することも、すべて自分だけのものだ。
あえてそれに触れたのなら、誰であっても生かしてはおかない。
熱がじわじわと頬を上がっていく。雨を嫌って路地へ入ると、ふつりと先の明かりが途絶えた。路地の半分を埋める階段の向こうで影が動いた。
人がもう一人に肩を貸しているようなシルエット。奥のやつが大げさに頭を振って払うと、手前の男は食いちぎられた喉の裂け目をさらけ出して倒れた。血が跳ねて新調したばかりの靴を汚す。
「よお、助手じゃん」
咀嚼音の合間に聞き慣れた声がする。半月型に開いた口元が笑った。同時に、
蹴り上げた死体の胸が拳銃の一撃を受け止める。ライフルを向けると、今度は相手が死体を盾にもう一発引き金を引く。反転して階段の影に入ると、重いものを引きずりながらこちらへ近づいてくる足音。
「グラウコスに不正アクセス仕掛けたってほんと? 命知らずだね」
「正面きって喧嘩売ってくるやつに言われたくないですね」
下品な笑い声が間近に聞こえた。
飛び出しざまに蹴りを叩き込むと、一人分の手応え。真上から振り下ろされた踵をつかんで、大きく腕を振り払う。ぎゃんと短い悲鳴を的に、対面の壁に叩きつけられたホロコーストの頭を撃つ。
銃身を捕まれ、追撃は相手の頭スレスレを穿つ。血まみれの前髪の間から、ギラギラした三白眼が覗いていた。
***
まず気になる話題といえば、NNも言っていた噂の件だ。
ニルギリからの連絡に、ジミーは大喜びで答えた。いわく何かしらの映像あるいは文字列が脳裏にひらめく怪現象である。
「何かしらって? なに?」
「いろいろだよ〜。ボクも経験あるけど、なんか犬とか、記号とか、もらした瞬間監獄行きになりそうなのとか」
最後のはそれこそファルコの依頼に関わるものだろう。幼いながらも身を守れる程度の分別があって何よりだ。
とはいえまるで「自分が思いついたのか?」と錯覚するような、本当に短いひらめきだという。実際、会社員が不意に思いついて大発見だと大急ぎで作ったシステムがタコマ・フィズの特許申請中のものだったという事例がある。その会社員の行方はわからない。
「でもまあ、ただの情報漏洩ならとっくに社内でシバかれてるよなー。気をつけろよ探偵」
「そうする〜。ところで」
「なに?」
「うちの助手が来なかった?」
短く考えた後、うなずいて「変な依頼してきた」という。
「変な?」
「すごい徹底的に個人の情報消すヤベェプログラム持ってきたんだ。これ最後まで実行したら記憶までなくなるぞってやつ。今どきこんな完璧に人殺せるやつなかなかないよ」
おぼえがあった。
以前別の事件で手に入れたものだ。人の情報。生きていれば必ず残る各種の履歴。それに単純な個人情報。連絡先や固有のID。本人の記憶。なにもかもを抹消し、その人と同じ(コピーであることすらある)データを上書きする洗礼のプログラムだ。データ自体は彼女がオリジナルを持っているはず。不完全ではあるものの。
ジミーが言うには、NNはそれを改造してほしいと持ってきたんだという。
「具体的には?」
「このままだと即時実行型だから、情報の抹消と新規のデータインストールの部分をわけて、時差で実行できるようにしてほしいって」
もしかして探偵のこと消す気なのかな、と案じる様子に笑って、ニルギリは通信を終わらせた。たしかに前回と少しやり方を変えるのはあり得る話だが、彼女が失敗したのはニルギリを苦しめたかったからだ。大して痛くも苦しくもない方法をくりかえし使うとは思えなかった。
もし彼女が殺そうと考えるならそれは「なくなった」という自分の生身の体のほう。人の手に渡って好き勝手にされるのも要らない情報を抜かれるのも屈辱であろうから。現に、ニルギリは未だに彼女がどこに保管されているのか突き止められていなかった。
「……となると、やっぱり聞く相手はあなたかなーと」
「残当だな」
一通りの話を聞いて、ラファイエット女史はため息をついた。険しい顔はいつもの通り、今にも帰れと言わんばかりだ。
狭い室内に、回転椅子のきしむ音がやけに大きく響く。
「先日、うちに妙な来客があった」
「というと?」
「ド深夜に、フードを目深に被って、仲間が倒れたので診てほしいってさ。急患は診察料が嵩むぞと言ったら、しばらくぽかんとしてた」
見たところそいつには手持ちにも口座にも金はなく、担保として取っておくための個人情報すらないように思われた。
「平たくいえば、あれはロボットだったよ。それもやたら旧式、たぶん廃棄されてたのを適当に拾って使ってたんだろう。電脳だけは持ち主と共有できるから、遠隔操作型の義体みたいにして使ってたんだろう」
そんな不審なやつを助けてやる義理はない。闇医者とはいっても、まず収入の宛がなければやっていけない。NNだって研究対象として拾ったものだし、金払いがよくなければとっくにバラして売っていただろう。
とにかく、その客を追い返したあとで不審なアクセスログを発見した。自分の電脳にも、ここで医療用に使っているデッキにもだ。特にカルテの番号が一部めちゃくちゃになっていた。中の数字がいじられていたら廃業していたところだ、という。
「大丈夫だったんだ?」
「自宅でバックアップデータを参照した。夜通しな」
「そ、それはお疲れ様」
「例の噂の原因かは知らないが。ただ、通常のセキュリティーソフトはそれに対して少しも仕事をしてない。
なにか盗まれたわけではなさそうだが、ちょうど同じ時刻に小規模な通信障害があったらしい」
胸の前に組んでいた手をおろし、探偵は低く唸った。おおよそファルコの言っていた状況と変わらない。気がかりなのは情報を盗まれた形跡が無いということだ。
触って覗くからには、お目当ての情報があるはずだ。
そうでなければただ偶然触れただけ。偶然触れるなんてことがあるのならば。
不意に切羽詰まったノックの音が響く。玄関の向こうから先生、と泣きそうな声が追いすがる。
「開いてる」
ラファイエットの返事を聞くなり、大急ぎで飛び込んできたのはシレーナである。相当急いだのか、スカートの裾や髪の毛先はすっかり水を吸っていた。
「NNさんを知りませんか」
「さあ。仕事じゃないのか? 患者でないなら帰ってほしいとこだけど」
ラファイエットの視線が隣へ向けられると、シレーナはようやく先客の存在に気づいたようだった。
「やあ。いそいでる?」
「少しだけ」
強がりだった。
出された椅子に座るのも惜しい様子で、手は行き場もなく薄いスカートを握り締めたり離したりしていた。
「あのひとに、なにか……」
「いつも通りだよ〜。特別なことは、なにも?」
「これほど信用ならない言葉もないな。拭きなさい。寒くなっただろ」
ラファイエットが後ろから放ったタオルを受け取ると、ようやく彼は椅子に腰を下ろす。
「ジミーのとこ行ってみたら? 変な依頼してきたって言ってたし、他にもなにか知ってるかもよ?」
俺相手には話すなって言われてることとかあるかもね、とうそぶく探偵の声を聞いて、シレーナは髪を拭く手を止めた。
「変なセキュリティーソフトの作成ですか?」
「ん? セキュリティーの話は聞いてないけど? ちょっと前の事件で回収して、あの子が俺を殺すのに使おうとしたプログラムを改造したって言ってた」
怪訝そうな視線を受け流して笑うニルギリを横目に、今度はラファイエットが口を挟んだ。
「変なセキュリティーソフトっていうのは?」
一ヶ月ほど前の話だ。
夕方に起き抜けから疲労困憊という様子のNNは、夕食の支度を終えたばかりのシレーナに「迷惑でなければ」と切り出した。どんな話題にせよ、食事時は目的もなく会話をするのが常だったし、今回も気にせず続きを促したのだった。食事をする代わりにコーヒーを二人分いれてくると、NNは食事中の彼の向かいに腰を下ろした。
「今使っているセキュリティーがうまく仕事しないことがあるようなんです。対象になるアクセスの特徴は可能な限り伝えるので、これを弾くシステムを作っていただけませんか」
変なお願いだ。
彼がまず考えたのはそういうことだった。
シレーナは専業のハッカーやプログラマーじゃないし、その技術だって真正なものではない。声の波形で感覚的に情報に触れ、触れた形で感覚的にその内容を読み取り、音にバラして組み換えを行う。指で水面を撫でるよう。自分のやり方を、彼はそう表現することがある。
「それが必要なんですよ。あなた以外のハッカーに、これを理解してプログラム用の言語へ落とし込むことはできない」
でしょう、ではなく、断定系だった。
ネットワークを行き交う情報を波として読み取り、音に直して理解することが肝要だというのだ。そんなことはシレーナにしかできない、そもそもやらない。もっと手軽で手に馴染むやり方があるのだから。
「そいつは目を持たない、実態ではなく波形を追います。けれど、その前にその渦中に潜る。こんなふうに」
コーヒーのカップに、NNはスプーンを差し込んでひと混ぜすると、すぐにそれを持ち上げた。スプーンに残った水分もすぐに滴ってカップへ戻る。
「変な動きでしょう。だから、変なセキュリティーが必要なんです」
「それって?」
「ウイルスみたいなものですよ。
移動するだけなら大した害はない。でも指向する場所は何度だってぐるぐる回ろうとする。カップの底に砂糖が残ってると思いこんでる」
おもしろいでしょう、と彼女は笑った。
何もおもしろくない、とシレーナは思った。
何がなんでもそいつを彼女の頭から締め出してやる。そう決めた。
「触ったついでに水滴みたいに散って、もとのとこにもどるのか。あ、噂の怪現象たしかにそんなかんじがしっくりくるかも?」
「噂? ああ、そうかもしれません、たしかに」
一通り話を聞き終えたラファイエットは、視線だけ自分のデスクに投げると、腰を上げた。
網膜ディスプレイに映した書類としばらくにらめっこしたあと、ニルギリとシレーナへそれぞれファイルを送りつける。どちらともなく確認すれば、それはどうやら何かの通信、アクセス記録のようだった。
最初に気づいたのは、シレーナだ。
「これ、私が作ったセキュリティーソフトの対象になる波形です」
「今ここの機械から吸い出した。NNに干渉してひっかきまわしてたのはそいつだね。それじゃあ、こないだのド深夜に来た奴は明確に目当てがあってここに来たことになる」
彼女を探している者にも、ニルギリは一部おぼえがあった。あの時だ。たしかタコライスにはしたものの食べそこねてしまった――
「それで、NNを探してるっていうのは?」
「ないんです。どこにもいない」
どこにもいない。仕事で遠出というわけではないらしい。
「連絡がつかなくて。仕事中かと思ったんですけど、連絡先自体、なくなっていて。ほかも」
誰ともなく連絡先を確認する。普段向こうから拒否される程度には連絡を入れまくっているニルギリの電脳からも、定期的に連絡が入るはずのラファイエットの電脳からもNNの連絡先が消えていた。報酬のやりとりをするための口座も、義体の保守管理に繋いである連絡先も。ニルギリが勝手にくっつけていたGPSも消えているし、自宅はシレーナの名義になっている。
N.Nという人物の座標がどこにも存在しない。
「近頃、ずっとよそからの干渉で機嫌を悪くしていたり、一昨日なんか熱を出して倒れて……私がお願いを聞いてアクセスを遮断したから、あの人が直接消されちゃったんじゃないかって」
ラファイエットの顔から表情が消えたのを見てとったのはニルギリだった。
「なにか知ってる?」
「別に。そのうち結果は出る」
「じゃあ、俺たちは俺たちで地道に探すしかないか~。せめて、あの子の本体がどこにあったか教えてもらえない?」
ニルギリの言葉に、彼女はあっさりと地図を送りつけて答えた。シレーナのほうが先に、焦りを隠せない様子で立ち上がる。スカートの冷たさに一瞬身をすくめてから、玄関へ向かう探偵を追うつま先が止まる。不安げに振り返った先で、ラファイエットは追い払う形で手をふってみせた。
「なくなったんならかまわないだろう。見つかったってどうせそこはもう使わない」
「私にもぜひ教えてほしいものだな」
ファルコの声を聞いたのは診療所を出てすぐだ。周囲は線状に膜を張り、煙を上げるような雨。本人の姿はない。
「どうも〜。捜査の進捗必要でした?」
「必要ない。さっきの話だけで十分だ」
傘をさすと、雨音はいっそう強くなる。シレーナは土砂降りの中を走ってきたのだった。
「俺の仕事は解析と犯人探しであって、怪しい人を売ることじゃないでしょう?」
「そう言うだろうとは思った。ならそれはこちらのやり方で済ませる」
「良い報告を期待しててくださいよ!」
探偵としては、良い協力者を失望させて手放すような真似はしたくないところだ。
胸をなでおろしたシレーナにウインクして、ニルギリは調査に戻ることにした。
***
「どういうことだ?」
独り言であった。画面の中では、ホロコーストがNNを追って車道から廃墟群へ飛び込んでいくところだった。彼女にちょっかいをかけてホロコーストに加勢してやろうとしたが、つなぐための回線が存在しない。腹立たしいのは、それを相手側が察知していないはずがないということだ。いつものくだらないじゃれ合いならともかく、本気のホロコーストをノーフェイスがこんなに長く放置しているわけがない。
仕方なくホロコーストのほうへ干渉しにかかると「遅えんだよハゲ!」といわれのない罵倒が飛んでくる。
「そう言うな。今回は弱った助手をヤッてやると乗り気だっただろう」
「あと三秒遅かったら飽きてたとこだ」
完全義体が小規模ながらも時空干渉できるとはいえ、他人にそれをやらせるのはノーフェイスくらいのものだ。慣れた手でライフルの射程からピストルの射程にホロコーストを放り込めば、あとはあちらで最適な手が打てる程度の練度はある。
一瞬にして距離を詰められたNNがノーフェイスの干渉に気づいたときには、横腹に大穴が開いている。
「……っ!」
「おかげで楽に不意をつけたろう」
かろうじて体を撚る余地はあったのか。上下真っ二つを狙っていたホロコーストとしてはやや不満が残る顔つきで、相手の首をつかんだまま地面に叩きつけた。水びたしの地面は、彼女の体からこぼれたオイルと人工血液の混合体でベタついた色にかわる。
「一撃じゃ収まりつかねえけどな~。俺さっき何回殺されたと思う? 助手ちゃんは一回死ねばチャラなんてちょっと都合よすぎね?」
「ぁ……ぐ……ッ」
首を締める指に力を込めると、そこは簡単に軋みをあげる。よほど腹にすえかねているらしい馬鹿力。
「お前が何回死んだかは問題じゃない。助手は一度も死にかけてない。銃を――」
手放すな、と言うより少し早く、ホロコーストの上半身が吹き飛び、噴水よろしく血を吹き出して倒れた。
「わかりませんね。何回死ねば許してもらえるんですか?」
ほらみたことか、顔を覆いかけたノーフェイスの手は途中で止まる。廃ビルへ飛び込んだ彼女の傷は見たところずいぶん再生が鈍くなっていた。
「ホロコースト、起きたか?」
「あのクソ女、ブチ殺してやる」
「元気そうで何よりだ。追え。なぶり殺しにするあてができたかもしれないぞ」
***
こういった弊害は予期していなかった。
同時になるほど、起死回生とは文字通り情報の再ダウンロードで欠損を補完するものだったんだなと納得する。
血液と酸素の不足で頭がくらくらしている。ホロコーストがママの言うことを聞けるいい子ならうっかり殺されていたところだ。
声を殺してあえぐ合間にも、腹の穴から体液が漏れ出していく。中身がこぼれるのだけはコートできつく縛っておさえている。コートの上から傷を抑えていた手は腿で拭い、足音を注意深く聞きながら薄暗がりの中を進む。歩いたあとには血が流れていて、ノーフェイスの補佐もある。彼がやる気を出せばすぐにでも追いつかれる。
壁になかば体を預けるように歩く。
そろそろ情報の抹消が終わる頃だ。
このタイミングでホロコーストに鉢合わせたこと自体、運がいいのか悪いのか。腕とライフルに残弾はそれぞれ二発あるが、この体調ではさすがに殺しきれない。
「助手ちゃんらしくねーなァ、なに逃げてんの? もっと遊ぼうぜ」
一直線に歩いてきた廊下の後ろから笑い声が追いつく。吐きそう。
えづいたり膝をついている暇はない。すんでのところで掴みかかる手を避け、目についた部屋へ転がり込む。すぐに反転して殴った勢い、ホロコーストの襟首を掴んで床に引き倒した。
下から殴られるのとライフルで側頭部を撃ち抜くのがおおよそ同時。
馬乗りに相手の手を踏みつける間にもう再生しかかった口に銃口をねじ込んで撃つ。ライフルを手放している間に左腕を開いてその額につきつける。こちらの上半身が安定する頃には、もう彼は生き返っている。
「すげえ顔色、探偵にも負けてないな」
「ちょっと、だまって」
「ア、顔ナシがなんか言ってる。助手ちゃんに回線繋げないってよ」
「ええ、うざったい妨害がなくてせいせいしてるとこです」
「君の」
ホロコーストごしに話そうとする声に向かって引き金を引く。
彼は肩口まで粉々になって、また短い静寂が落ちる。その上にうずくまってから、まずい、と思った。
重力制御が壊れている。左腕の反動はもう一度腹をぶち抜かれるような激痛と前が見えなくなるような衝撃で頭を殴りつけてきた。息も切れ切れに体を起こすより、下から後頭部を捕まれるほうが早かった。視界が一瞬真っ赤に染まる。
「ぎっ――ぃ――!」
傷口に爪を立てて掻き毟られ、背中が跳ね上がった。
頭はしっかり抑えられたまま。
「君に掛かっている疑いについて話がしたい」
「ふ――、不正アクセス、とかいう」
「そう。何が目当てだったのか気になっていてね。君がそんな無謀をやらかすのは」
だめもとでホロコーストを引き剥がそうとしてみたが、こういうときに限ってぴくりとも動かない。くそ。馬鹿力め。
「勘違い、じゃないですか」
とはいえ、なるほど標的の動きからそんな誤解が出るのも無理はなかった。
「名指しだったけどぉ?」
「あ、っ、やめろ」
言いざまに腹に銃口をねじ込まれ、ホロコーストの腹を殴りつける。拷問のつもりなら話すのを遮るな。
「あ――なたがたと、知り合うまえに、知り合いが」
「知り合い?」
「同郷の、ですよ。探しに……で……」
「ホロコースト。話してる間は傷をいじるな」
「エー」
「助かりました。
ともかく、そのアクセス、方法が似てるんでしょう。だから、関与を疑われた」
「君が彼らと連絡をとっているとでも?」
その問いにはうなずくだけですませた。一面ではその推測も正しい。ただし、なにかやり取りをしていたわけではなく、相手から一方的に探されていただけだ。
「君の目的は?」
「殺すこと」
「仲間では?」
「恋人だった人ですが。私を好きに扱おうとする奴、私を好きに解釈する奴、私を一方的に救おうとする奴は誰であっても許しません」
徹底してるな、という声には呆れのようなものが滲んでいた。
「そのためにわざわざ自分の情報を消したのか? たしかに相手からの干渉は防げるだろうな」
「ついでにあなたのも」
「ホロコースト。殺していい」
犬の鳴きまね。それと銃声は、傷に突っ込まれたままの銃口から。
「なぶり殺しだ」
***
水槽というのか、真空槽というんだろうか。訪れたものの、それはもぬけの殻だった。使われていたのかも怪しく感じられる。
シレーナが暗澹とした面持ちで言うには、稼働が止まったのは二日前。ちょうどNNが熱を出した日だ。ニルギリの認識では、また地雷を踏んだはずだがライフルを握りしめるばかりで黙って帰る助手を見送った日。
「ここから帰ってきたん、でしょうか」
「事務所から寄って帰るには、ちょっと遠い気がするね?」
データログを漁っていたシレーナは、手を止めてその画面を見つめていた。二日前。
「いいものあった?」
「波紋みたいです。偏って変なふうに整列してるところがあります。他のものはこんなじゃない。表に見える数値や文字列までぐちゃぐちゃです」
そのまま勢いで外を目指す。このやたらともつれたデータログの出どころが近くで暴れている。ニルギリが隣で気分悪そうに口元を覆う。
「そういえばシレーナは、物体も量子分解したりするんだっけ?」
「ええ。その時の処理はもっと整理して……自分の転移も試したことあるんですけど」
眉をひそめる。
「すごいこと今聞いた?」
「こんなになることはなかったです」
急ぎ足で屋外へ向かうなり、金属をこする嫌な音にどちらともなく耳を塞いだ。見れば、半狂乱の様相で外壁に頭を打ち付けたり擦りつけたりしている人影がある。
直感し、シレーナの足は解析のために立ち止まる。それを置いて、ニルギリはともかく彼だか彼女を止めるために駆け出した。
シレーナが背後で悲鳴を上げたのと同時に、目の前の人影が崩れ落ちる。ともかく雨の中から軒先へ標的を引きずって戻ると、少年はガラス扉にすがりつくようにして震えている。「どうしたの」と声をかけるよりも早く、細い指がニルギリの腕を掴んだ。
「早く!」扉をけとばすように――ちょっといつもの楚々とした佇まいからは考えられない動きだ――屋内へ戻る。走り出す背後から、内向きに叩き壊された扉を間一髪避けて階段を駆け上る。
探偵は引きずってきたものがロボットの残骸だとわかると、襲撃者に向かってそれを投げ落とした。
「フィーンドだ!?」
「さ、さ、触っちゃいました、ロボットの通信先にぃ!」
泣き出しそうな声で言うシレーナの靴音が、背後に迫る破砕音に負けじと響いていた。
とかく進める方へ走り続け、下り階段の踊り場に小気味よく踵を叩きつけたシレーナが、反転してニルギリを抱きしめた。
「おっ、と?」
大きく開かれた顎に捕まるより一瞬早く、二人は土砂降りの路地に投げ出された。
水を吸って急に重さを増す。違う。
どうにか背中から着地したニルギリは、上に乗った少年が起きるのを待ってから自分も体を起こす。全く覚えのない場所だ。彼の肩に捕まるようにして、シレーナが深くため息をついた。
「再生するときが不安だから、やりたくないんですけど」
体内に本来の重みが、思考能力が戻ってくる。
「ね、気持ち悪い感じはなかったでしょう」
フィーンドの姿はなかった。
「どこに来ちゃったんでしょうね」
しゅんと肩を落とす。シレーナにはもう探すあてがなかった。今はどこともわからない廃屋の中で雨をしのいでいるが。
「大丈夫だよ~。帰り道なら通りに出ればわかるだろうし」
そんなことを心配しているわけではなさそうだ、とニルギリが気づいたのはすこし遅れてからのことだ。
「あの子は見つからなかったね?」
「いえ。私が勝手に期待してしまって……。さっきの、なんだったんでしょう」
「フィーンドのこと?」
「どうして、あのロボットは、フィーンドにアクセスを?」
シレーナは自分の肩を抱くようにして目をそらした。
あれを解析しようとした馬鹿者はいままでにも大勢いる。その中の誰一人無事に生き残っていないことを、誰だって知っている。いくら予防線を張っても、ドローンやボットを仲介しても。
探偵はこともなげに「知らなかったんじゃない?」そううそぶいた。
「操作してるのが、あの子を探してる宇宙人なら、この世界の常識は知らないでしょ?」
雨の音を引き裂くような轟音。
雷の音ではなかった。ニルギリには馴染みのある音だ。おなじく、シレーナが窓の外を見ていた。
「幸先いいね。行ってみる?」
「もちろん」
言い終わる頃には、濡れた髪を後ろでひとまとめにしている。
銃声のほうへ走ると、地面にべったりと広がった血の池が大雨に流されるところであった。
「大怪我だね~。らしくないけどあの子かな?」
「ビルのほうです」
ニルギリが血の跡を追って走っていくシレーナの前へ出る。さすがにここから先は考えなしに突っ込ませるわけにはいかなかった。
血は床面のみならず、壁にまで刷毛で引いたような痕を残している。背後からの視線に急かされて、彼もいよいよ急ぎ足になる。
もう一度、銃声。今度はNNのものではなかった。
***
長い断末魔を聞いた。
許さないとは言った。結局のところ、同じ死に方をすることだけは許した。何も生まなかった関係の見返りに。
投げ出していた腕を引き寄せて、半端に起こした上半身を蹴り上げられる。残弾は一発。反動には耐えられそうにない、どう殴り殺すかにかかっているか。さすがに死ぬかもしれない。なにせ胴体はからっぽだ。他の義体と変わらない鉄の塊。
「抵抗はァ?」
「してる、でしょう。おてやわらかにお願い、しますよ」
胸に乗った足を払えないくらいなんだから察してほしいものだが。あえて腕を残しているあたりがノーフェイスらしいいやらしさだ。
散々蹴られた胸郭が軋んだ。
呼吸器を潰されたら終わりだ。相手の足に沿わせるように左腕の銃を向ける。向こうからもお行儀のいい構えで肩口に狙いを定めていた。
「……ッ」
息を。
踏み潰されるのにせいぜい抵抗し、深く吸い込む。
「待った――!」
静止の声にぎょっと顔を上げ、ホロコーストが横へ突き飛ばされた。ずいぶんと無防備に転がっていくので、呆気にとられたのはこっちのほうだ。
探偵がほーっと息をついてこっちを見る。
「派手にやられたね〜?」
向こうでもなにか言われたらしい、ホロコーストが渋い顔で立ち上がるのが見える。
「オアズケだってよ」
「ツイてませんでしたね」
小声でもらしながら、腕を引かれて体を起こす。なによりも自分がツイてない。もう少しだったのに。
「そうそう殺して解決! ってしてほしくないんだけど」
「ああ、グラウコスに」
ようやく合点する。相手は返事の代わりか大げさに肩を落としてみせる。ホロコーストのシラケた顔と、入り口にはずぶ濡れのシレーナも見えた。
「だめだよ、俺を殺すまで死んだら? それとも死ぬの邪魔した?」
「はなせ!」
掴まれたままだった腕を振り払い、勢いでその場に立ち上がる。勢いで銃口を向けて――
引き金を。
引き金を。
引き金を。
引き金を――
呼吸ができなくなった。
体を握りつぶされるような圧迫感と痛み、意思だけが撃てと悲鳴を上げている。思い通りにならない。涙ばかりぼろぼろこぼれて止まらない。間に合わない。
ふと彼が眉をひそめ、
「君なんで治らな――」
言い終わる前に、天井が、裂けた。
フィーンドの大顎は探偵に食いつくところで。
すぐに前に出た。
探偵を庇い、フィーンドに左手をくれてやると、口の中で引き金を引いた。
***
意識のないうちに、大きめの隕石が荒野に落ちて騒ぎになったらしい。そのうち企業がこぞって調査にいくだろう。それが跡形もなく燃え尽きていることを祈る。死んだものに罪はないのだから。
フィーンドを殴り殺して気絶したあとの私は、驚くほどあっさりと再生したという話だ。体も、ロストしていた情報も。当たり前の話だ。書き換えが住んでしまえば元通りだし、書き換えた場所もたった一箇所。
「NNの心は壊れていた。探偵、あんたと出会ったときに」
ラファイエット女史は簡潔に言った。
再インストールした記憶も人格も正常に稼働している。少なくとも、主観的には。
「なんにも言わなくてよかったの?」
「何か言う必要が?」
――――「NNの心は折れなかった。あんたがどれだけ生き返ってみせても」
別に今更私が口出しするようなことではない。
「聞きたいことがあるんだけど、いい?」
帰り道は霧のような雨だった。周囲の明かりは雨の中に散らばってぼんやりしている。
「なにか?」
「前、君を探してた人たちの一人だと思うんだけど~。今回の噂の原因の人? フィーンドにアクセスかけちゃったみたいなんだよね」
足を止める。相手もそれに気づいて足を止めた。
「二週間くらい前だっけ? 君がシレーナの作ったセキュリティーを電脳に組み込んで~」
「噂が出始めた?」
そう! と元気のいい肯定が返ってくる。
「君がアクセスを拒んだことで、彼? は君を探して動き回る事になった。それで、触れそうなものは触ってみて、君につながる情報を探した。その結果があの怪現象だったんだよね~。結局犯人はフィーンドにアクセスして狂って死んだって報告したけど」
「そうですね」
「君は、君の本体を殺した?」
「ええ。ご存知ないでしょうが、私達の断末魔はよく響くんです」
だから、私を探す恋人をおびき寄せるには十分だった。こんなところまで探しに来る人だ。死にものぐるいで探すだろう。実際そうなった。
「死体は?」
「フィーンドに食わせて処理したんですよ」
「どうして?」
「ちょうど出てきたから。それに、私を追ってフィーンドにアクセスすれば、狂って死にます」
珍しく「ええ……」みたいな顔をしているのが面白い。実のところ、フィーンドが出なければ私がそこに通って殺せばいいだけのことだった。
「殺した理由のほうだけど?」
「さっき聞いたでしょう」
誰も私を殺さないからだ。
私にこの男が殺せないからだ。
この男が私と対等に戦えないからだ。
――――「だから脳が真っ先に壊れた。絶え間ないストレスに耐えかねて、引き金を引くことを拒んだ」
私が彼に勝てないということにすれば。
愛すべきひとのそばにいるという結果だけが残るからだ。彼を憎む自分は――
「もういらないからですよ」
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