APLIL invers


*三月末日、深夜

「でさァ、そのコが言うんだよな。『何回会ってもあたしのこと見てくれる気がしない』って」
 帰って早々、ホロコーストが勝手に喋りつづけるのはいつものことである。どうにも遅いと思っていたが、クラブに寄り道してきたらしい。ノーフェイスからしたら、仕事ができているのだから上出来である。機嫌のよかったホロコーストは、知り合った女の子の恋の悩みを聞くだけ聞いてきたらしかった。
 ノーフェイスもまたその日に限っては、守備よくメガコーポの研究成果を盗み出すことができて上機嫌であった。話を聞きながらも、手元でその思いつきを組み上げると「面白いことを考えた」
「エ、なに? 惚れ薬でも作った?」
「感情を反転させるプログラムだ。恋のおまじないというやつだな」
「呪いじゃなくて?」
 即席で組んだだけあって、大して強いものではない。セキュリティーを突っ切る力はあるが継戦能力は無く、せいぜい一日で片付けられてしまうだろう。時にはこういう馬鹿みたいな息ぬきも必要だ。
 デスクの端に肘をついて眺めていたホロコーストが、思い出したように顔を上げた。
「指向性は?」
「気にする必要が?」
 返答したのは、ノーフェイスの指がそれをwebに放流した後だ。

「“アマノジャク”を見つけ出し、回収してほしい。不可能であれば消去を」
 ファルコの依頼は、端的な切り出しで始まった。
「アマノジャクって、妖怪の天邪鬼?」
 ニルギリ探偵の返答に、彼は重々しくうなずいた。
「正確には、それを電脳上に再現した情報生命体だ。サイバー高天原の企業には、電脳に繋がった人間の認知を歪ませる自立型プログラムのパッケージシリーズとして存在している」
「へえ! フィーンドとは違うんですか?」
「我が社では“アマノジャク”を生きた人間の脳に移し、それが実体を持ってフィーンドになるのかを観察していた」
 いわく、被験者の自我を書き換えて食い潰すまでは想定の通り(そもそも、人間の電脳に直接書き込むものではないのだ)、あとはその被験者が見事妖怪になるかどうか――だったが。実験は完遂される前に中断された。研究用の施設にわいたゾンビどもに、他の実験の被験者ともども食い散らかされてしまったのである。
「それって、何かまずいんですか? 失礼ながら、お話を聞く限りグラウコス社の損失が大きいだけの話にしか」
「おおごとだ。被験者の脳には“アマノジャク”はいなかった。その場にある情報端末を使って外へ出たに違いない。プログラムが走り続けているとしたら、ストリートのみならず、スプロール全体があべこべな言動で混乱することになりかねない」
「なんか冗談みたいな状況だな〜」
「間が悪いのか良いんだか、明日はエイプリルフールじゃないか。嘘であってほしいものだな」


*四月一日、午前

「お断りします」
 ……。
 内容も聞かず通信を打ち切ると、自分を案じる様子のシレーナが目に入る。
 新曲を仕上げたので、労うついでに買い物やら食事やらに付き合ってやることになっていたのだった。予定をたて、外に出てみれば喧嘩に行き合うこと二回、真昼間から遊び歩いているサラリーマンの団体に絡まれること一回。いくらなんでも少しおかしい。
「だいじょうぶですか、あの……」
「ええ。急用です。それにしても今日は」
 横から吹っ飛ばされてきた男の後頭部を掴んで止める。あやうくシレーナにぶつかるところであった。こんな調子だ。シレーナの差し掛けてくれた傘の骨が、一本だめになってしまった。
 後頭部を掴まれた男はといえば、そのまま景気良く少し離れた場所の女性へむかって暴言を吐いている。
「いいわ、あんたなんかこっちから願い下げだったわよ!」
「おお、言いやがったなクソ****! 死んじまえ!」
「痴話喧嘩ですかね」
 肘打ちを喰らう前に離してやると、男はNNに目もくれず相手へ向かって走って行ってしまった。
「外にいると危ないようです」
 出しかけていた拳銃を慌ててしまいながら、シレーナはこくこくと頷きかえした。

 胸から下が、ずっとキリキリ痛んでいた。痛むという表現は不正確かもしれない。横向きに捻って絞られているような感覚がある。シレーナを家に送ると、すぐさまニルギリと合流するために事務所へ向かう。その間も。
「よお。今頃は探偵とデートしてる頃かと思ったんだけど?」
 背後から投げられた挨拶に心底気分の悪い顔を向ける。ホロコーストはいつも通りで、親しげに肩を組んで彼女の顔を覗き込んだ。「何が悲しくてあの男と?」
 鼻で笑ってみせるNNを見ると、彼は何やらけげんそうな顔でぱっと手を離した。
「あっそう。そりゃそうか。心つえーというか頑な? っていうか」
 平たく言えば「つまんねー」とでも言いたげに唇を尖らせて。
 一方で。
 NN本人は困惑していた。なぜそんな言葉がでた? いや。そんな疑問が浮かぶことがおかしい。普段の自分なら、これは普通に出てきた言葉のはずだ。
 “今の自分は普段と違うのか?“
 雨音に混じって、そんな問いが頭を走り抜けた。
「で、一人でなにしてんの」
「なにも」
「なにかしてたわけね」
 早足に振り切ろうとするのを、死に損ないのニヤニヤ顔が追いかけてくる。周囲を通りすぎる言い争いや謝罪、いずれも皆不得要領な顔をしていた。誰も自分の言葉に納得していないような。ホロコーストをあしらいつつ、足を早める。考える。自分に何が起こったのかを。
 あの男のことを考えた時に、あきらかに心拍数が上がっている。いつもの、かっと頭に血が上るような感覚ではなく、戦闘時の高揚に近い。恐ろしい想像を頭ごと振って払う。
「よしんば、あの探偵、を探しているとして、あなたに何か関係が?」
「大いにあるね。まずおもしろい」
「ならお好きにどうぞ」
 ホロコーストの残機は減らなかった。不思議なことに。
 大股に向かった事務所は、連絡してきたわりにもぬけの殻だった。残念に思っていることを自覚し、NNはいっそう気分を悪くした。
「で、探すの?」
「そうですね」
 なんだってこちらが探してやらなきゃならないんですか。
 そう言ったところで、彼女は絶えず自分の言動が出力の段階で書き換えを受けていることに気づいた。
 排熱孔に手をあてて舌打ちする。これが続いている間は、少なくとも必要以上に感情的になることは避けなければ。
「あなたはなにか知ってるみたいですね?」
「は? 知らねー」
 慎重に言葉と行動の……信じられない、全身義体を意識的にマニュアル入力で動かす必要が出る日が来るなんて。
 ともかく、NNはできる限り乱暴にホロコーストの首根っこを掴んで、地面にたたきつけた。周囲で小さく悲鳴が上がったが、周囲でも似たような乱闘はあちこちで起こっている。
「痛えな! 何しやがる!」
「ノーフェイス、知ってることは全部話せ。返事をしろ。さもなければあなたの、大切な相棒を死ぬまで殴り続けますよ」
「バグったのかよ助手ちゃん、そんなキモい脅しがきく奴じゃ」
 大切な相棒をことさら強調する言い方にぎょっとするホロコーストの耳に、さらに信じられない声が飛び込んでくる。
「話すことなどなにもないが」
「は? キモ」
「……」
 それがどういった沈黙かはさておくとして。この脅し方で返事をしたということは、彼も自分と同じ不都合を抱えているということだ。NNは咳払いすると、改めてホロコーストの抗議を無視して地面に押し付けた。
「この話し方はひどく疲れる。一度しか聞きません。入力と逆の言動を出力するウイルスかなにかを撒いたおぼえは?」
「ある」
「そうでしょう……は?」
「は? 感情がどうこうって言ってなかった?」
「はぁん?」
 いよいよNNの額に青すじが浮かんでいるのは、点滅するホロコーストの視界にもしっかり入っていた。呼吸が必要ないとはいえ、酸素が回らなければ然るべき機能が働かないことも間々あるのだ。具体的に言えば、彼女があと一キロほど力を加えればホロコーストは一回首を折られて死ぬ羽目になるだろう。何度か手首をタップしているが聞く耳というか、目が彼のほうを見ていないようである。
 一方でNNのほうでは、なけなしの冷静さを総動員して考える。感情が何かしらの誤動作を起こすウイルスには覚えがある。しかし言動が反転することについては覚えがない。要するに、二人の言をまとめればそうなる。前者のほうが個人的には罪が重いのだが。
「思い当たることは?」
「そんなものわざわざ探すと思うか?」
「そうでしょうね。このままではとても会話になりませんから。それで、解除用のプログラムは?」
「万全だ」
「なるほど。クソッタレですね」
「ところで、助手くんはどうやって」
 次に続く言葉を察して通信を打ち切る。とても教えてやる気にはなれなかった。
 完全義体のマニュアル操作なんて、放っておいても自分でそのうち考えつくだろう。それから、ようやくホロコーストから手を離した。
「あなたは平気なんですか?」
「もっと先に言うことあんだろ?」
「いきなり殴るのなんかお互い様でしょう……ああ、いつもバグってるからか」
「なァ今日ずっと俺に対して失礼じゃね? あ、向こうヤベエ人飛んでる」
 ホロコーストのいう通りというか、ストリートファイトもかくやの大乱闘があちらこちらで始まっている。この調子でギャングやら企業やらが争い始めたら内戦みたいになるんじゃなかろうか。NNはにわかに心配になり、ニルギリに連絡をし、ようとして、手近な壁に頭を打ち付けた。
「良い音したな。頭割れてね? わ、深っ」
「午前中の……連絡がなんだったのかを……確認する必要がでてきました」
 呻くような低い声が、誰にともなく言い訳のようにそう答えた。


*四月一日、午後

 困ったことになっているのは、ニルギリのほうでも同じであった。
 とりあえず連絡を入れようにも気が乗らない――こんなことは初めてかもしれない――その上、合流しようにもなんとなくNNの姿を見ると別方向へ足を向けてしまう。なるほどこれが例の“アマノジャク”というやつの作用だろうか。
 昨晩のうちに見た死体の様子では、至って普通の、といってはなんだが。
 ゾンビに食い荒らされた被害者である、という以上のことはさっぱりわからなかった。無数の歯型、引きちぎられた肉と、器用に残されたサイバーウェア。その一つ一つまでも確認してわかったのは、それが一般的なアリエスの住人と変わらないことだけだ。
 NNへの通信はなんと言葉を発する間も無く打ち切られた(たぶん史上最速だ)が、言葉も意図とは真逆で出てきてしまう。うかつに話すこともできないとは、聞き込みによる捜査を大切にしている探偵としてはなかなかの痛手である。そうでなくても、ストリートは思いの外荒れているようで、話をできそうな相手のほうが少ないくらいだ。まず落ち着いて自分の電脳をハックし、騙し騙し歩いてシレーナへ会いに行くことにした。
 少なくとも、行動の入力に対して逆の出力をする、という作用があるのなら、どこかに書き換えのタイミングがある。ちょうど、出力の直前に。まあまあ骨が折れるが、この一刹那にも満たない時間に、改めて書き換えを行う。これでひとまずは、自分が考えた通りに話したり動いたりできるというわけだ。ハッカーの技能があるわけでもない付け焼き刃だから、いつまで続けられるかはわかったものじゃないが。どういうわけか、ノーフェイスも連絡を返してくれないようだし。そうすると、なおさら頼れるのはハッキングと情報の書き換えに長けたシレーナである。急ぎ足で雨の中を歩くのも、なかなか骨が折れた。しきりにその足を助手の居所からそらそうとするのは、どうにも”アマノジャク”ばかりではないように感じられた。この――言葉にするとしたら、忌避感。少なくとも、彼がそういった感情で接するような相手ではないはずだが。
 彼を出迎えたシレーナも、やはり一瞬眉をひそめ、それから困惑した様子で室内へ迎えた。以前見たNNの部屋よりも、ずいぶん賑やかで明るい。
「突然ごめんね?」
「え、あ、はい。どうされたんですか?」
「どうもしないんだけど……あ」
 書き換えが間に合わず、不満げに眉をよせる。
 ゆっくりと状況の説明をすると、シレーナはすぐに彼の真似をしてみせた。
「こうですね。なるほど……疲れますね、これ」
「そう、そんなことないよ~」
 また失敗した~、と続けてテーブルを指先で弾く。くすくす笑いでうなずくシレーナにしても、その動作ひとつがなかなか重たいはずだ。
「ちょっと、疲れたから書き換えずに喋るね? わからなかったら止めて」
「ええ」
「ここに来る途中で確認した感じ、どうも、”アマノジャク”は対象の行動、発話に対しては作用しない。それから、恒常的に走ってるプログラムやサイバーウェアのはたらきにも干渉してる。いい?」
「大丈夫です。あ、これは大丈夫のほうの大丈夫ですよ」
 微笑ましい訂正を加えながら、それから? とシレーナは身を乗り出した。
「実は絶対やってほしくないことが……ふふっ、ごめん、やってほしくないことがあって」
「ええ、なにをしたらいいでしょう」
「今、……出力に伴って自力でしてる書き換え作業、自動化して電脳に走らせること、できない?」

 シレーナの仕事は、ほんの三十分ほどで終わってしまった。作曲に特化したサイバーデッキは、難なくその音階にからめて暗号化したコードをプログラムに落とし込んだ。
「すごいね~。こんなに短時間に作曲なんて」
「ちょうどいい新曲が、昨日書けたところだったので。それを流用しただけなんです」
 自分の電脳にもそれを流すことにしたらしい、いつも通りに話せるようになって、ようやくシレーナの肩から力がぬけた。
「助かったよ~! これができなかったらどうしようかと思った」
 シレーナはニルギリの笑顔を見つめ、迷いながらも「NNさん、『お断りします』と、言ってましたよね」
「ん? そうだね?」
「その、”アマノジャク”っていうのの影響があったのなら、逆を言う気がするんです、あのひと、あの」
「俺のこと嫌いだもんね?」
 相手が言葉を次ぐと、彼はがっくり肩を落とすような仕草でうなずく。言いよどむほどのことじゃないのかも、とはいえ、抵抗なく言えるほど軽いものではないはずだ。
 断るというのが何の反対だったか? シレーナを送ってすぐ合流するつもりだった? いつも直線的な彼女のことだから、余計になにを考えているかわからなくなる。連絡を入れただけでキレることは多々あれど、さすがにニルギリだって連絡を入れただけで殺されたことはない。
 一つだけ、考える手がかりになるものはある。とはいえ、ここで本人抜きで考えても仕方ないことだ。シレーナもそう察したのか、立ち去ろうとするニルギリをそれ以上引き留めようとはしない。自分も片付け、彼について出かける準備を始める。
「感謝して、ちゃんと新曲も聴かないとだね? 曲名はなんていうの?」
 シレーナは、はにかむような顔を書き殴りの楽譜で半分隠して「アベコベ、ですよ」ささやくような小声でつぶやいた。


*四月一日、夕方

 出会い頭に、NNの頬が引きつった。ニルギリの後ろにいたシレーナに視線を逃し、「どうしてここに?」静かにそう聞くにとどめる。
「あ、私にできることがあればと」
「そうですか」
「俺がお願いしたんだよ~。怒らないであげて。というか怪我? どうしたの?」
 割れた額に触ろうとした手を打ち払い、彼女は忌々しげに顔をゆがめて一歩あとへ下がった。これはアテが外れたかも、とさしもの探偵もいささか不安になる態度であった。
「ぶつけただけです」
「自分で打ってた」
「黙れよ死体」
「今日の助手ちゃんおかしいんだよ」
 盛大な舌打ちとともに掴み上げていた襟を離し、NNはニルギリを睨みつけた。
「それで?」
 手短な説明を聞く間に、彼女の表情は怪訝そうなものに変わっていく。言動が意図したものと反転するのはいい。つまりその妖怪とかいうのが悪さしているわけだ。
 ではこの――「それってよ」思考を打ち切って、ホロコーストが口をはさむ。

「助手ちゃん今、探偵のコト大好きな上にアマノジャクってこと?」

 爆弾でも落ちたようだった。
 目を見開いて言葉を失うシレーナ、なにか言っているらしいホロコースト、NNはそのどれも見聞きする余裕がなくなっていた。体をうまく動かせない。
 体を――「――は、」排熱孔を開ききれない。地面に膝が落ちると、起こそうと寄ってきたニルギリを追い払って無理やり立ち上がる。どうにか吐き出した熱気は降りかかる雨も蒸発させるほどの高温であった。ぐらぐら煮えたぎる目が彼をとらえて、またぐらついた。「この、こいつ、を」
「好――きに――なれるわけが――」言わされている、ようだった。手足を縛り付けられて無理やりに――どちらを?、、、、、 どの言葉、を?
「――から、ノーフェイスのやつが感情反転させるいたずらプログラム流したら笑えるんじゃね? て」
「へえ? それで」
 得心がいった様子で、探偵がうなずく。やんわりとおぼえていた(正確には今なお続いている)忌避感は、それによるものだったのか。
「だいじょうぶ?」
 腹の底を混ぜっ返して、恐怖が泡のように浮かんで弾けた。NNは左腕でニルギリの頭を吹き飛ばすと、浴びた血糊の刺すような温度にぎくりと動きを止める。脳天からつま先へ、さっと冷水が流れていった。血の気の引いた顔で、相手の頭が再生するのを見つめ、最後まで見ていられずその場を駆け出した。
「あ」ぎくしゃくとした動きでニルギリが追うより早く、シレーナが走り出す。こんなこともあろうかと、動きやすい格好をしていたのが功を奏したというのだろうか。彼としては、ないほうが良かったことだろうが。
「シレーナに任せよっか?」
「惚れられてんだから追ってやるべきだろそこは」
「そうやっていじめないの」
 二人の走り去ったあとを見つめ、ふと何か思いついた様子で手を打ち合わせた。
「そういうことなら、シレーナにその、ノーフェイスの作ったやつとくっつけてもらおう!」
 そうすれば、少なくとも二十四時間で勝手に消えてくれるはずだ。それも遊びとはいえ、あのノーフェイスの仕事である。おそらくは跡形もなくさっぱりなくなってくれるに違いない。
 そうと決まった、直後に背中を叩くような衝撃が走る。彼が振り返ると、危うく二発目を撃とうとしていたエージェントをホロコーストが返り討ちにしたところであった。
「”アマノジャク”の回収はもう良い。ここまでの依頼料は振り込んでおく」
 ホロコーストが目配せすると、ニルギリはゆっくりとかぶりをふってみせる。
「ファルコの姿がないようだけど?」
「あー、探偵。やっぱ追っかけてやったほうが良いんじゃねえ?」
 背中で押されると、周囲にぽつぽつ出てきたエージェントたちの影を見回して、うなずいた。やはり、依頼人本人の姿は見つからない。
「妖怪って心読むのかなあ」
「電気信号読んでんじゃねえかな。ヤツらもしっかり生きてんのな」
「なるほどね~」
 揃って路地へ駆け出すのと同時に、雨の反射を割くレーザーが二人を追って降り注いだ。

 シレーナが追いついたとき、NNは肌の表面を真っ赤にしてうずくまっていた。不法投棄のコンテナが積み上がった路地の中程で、どうやら力尽きているらしかった。
「大丈夫ですか、あ、熱っ」
 触れた指を一瞬引く。排熱部はフライパンもかくやの高温で、おそらくは肌の内側もひどい火傷のはずだ。
「嫌いだなんて、こ……心にも、ぉえ゛っ」
 どちらに対する抵抗で、吐きあげるほどのストレスを感じてしまうのだろう。
 シレーナはいつも毅然として前を歩くこの人の中に、いつもこうして崩れ落ちそうなこの人がいることを知っていて――そして、今はこの姿に嫌悪感すらおぼえている。普段の裏返し、あべこべな感情を、彼には飲み込むすべがある。
 意を決して手を伸ばし、覆いかぶさるようにしてその頭をやんわりと抱き寄せる。雨にも流せない熱が腕や胸の内側に荒れ狂い、肌を焼いていた。
「大丈夫ですよ。ニルギリさんに、今いいことを教えてもらったんです」
 右腕で肩を押しのけようとするのにもかまわず。
「私が、ふたつのプログラムをくっつけてしまえばいいんだそうです。私じゃなくてもできるかもしれないけど」
 言いかけたシレーナへの銃弾をホロコーストが受ける。その背中に、赤くただれた手が触れる。
「私がやりたいんです」
 NNのつけた弾痕を、庇われたままでシレーナの指がなぞる。間一髪蹴り飛ばされたNNは、体を起こすのにいささか苦労しているふうであった。遅れて駆け込んできたニルギリを追って、レーザーの光がコンクリートを抉った。
「隠れて隠れて~」
「ガキに手出すシュミあったっけ?」
「体がきかない、だけです」
「おい、しっかりしてくれよな。聞こえるかノーフェイス。大好きな助手ちゃんがバグって辛そうにしてんだ。エージェント狩り出す手伝いくらいしろよ」
「索敵だけ補助しよう」
「上出来だ」
 即座に起動する《電脳無辺》にコントロールを任せ、ホロコーストが敵に先制する。視界に入った者をすべて、NNの弾雨が撃ち落とす。シレーナの声がコンテナと壁の間に反響し、雨の中に拡がっていく。怒号と笑い声の混乱の中に、融ける。
 NNは反射的にシレーナへ銃口を向けた。考えが追いつくより早く、彼をかばったニルギリの左半身を撃ち抜いて、息が止まる。一瞬歌声が途切れ、ニルギリを殺したショックとノーフェイスの干渉で体のコントロールを失い、舌打ちする。
「離してください、この……何のつもりですか、ノーフェイス」
「続けて」
 残った右腕でシレーナの手をつかんで立たせると、「君が殺すのは」探偵は再生するにまかせた左手をNNへ差し伸べ、腕をつかんで顔を覗き込んだ。「俺でしょう?」
 ノーフェイスの手が離れると同時に、彼の手を振り払う。背後からのレーザーを腕で受けると、その方向へ――逃げるように――一直線に走って、エージェントの首を蹴り折った。横を抜けようとした者の後頭部をライフルで撃ち、レーダー状に寄越された敵の位置を素早く確認する。
 脳を焼くような激情が背骨を駆け上がる。絶えず。煮えた頭を人魚の歌がかきまわしている。死にものぐるいの妖怪のコントロールを、押さえつける体力が残っていないことを自覚していた。あそこに近づいたら、自分も体が効かなくなってしまう。
「こんな」吐き気。
「こんな感情もの、が、私のもの、なわけない」
 息も絶え絶えに、疲れ切った頭で舌を回す。
 歌を遮るように銃声。殴りかかってきたエージェントをホロコーストが蹴り上げ、シレーナを抱き寄せた腕でナイフの刃を受ける。
 食い殺される者の悲鳴に、また声が埋もれる。もうすぐ気を散らすための敵も片付いてしまう。
 あの男がなんだって? 愛し守るべき人のことがこんなに、違う、恩人を殺したいほど憎むなんて――お前はこの男にどんな恩を受けたというんだ?「口をはさむなこの顔なし野郎!」
 悲鳴のような声とともに、右腕をコンテナに叩きつける。静まりかえった路地には今や足音も銃声もなく、シレーナの声ばかりが響いていた。骨も折れよと叩きつけられた腕は、裂けた生体部品の内側から煙を吐き出し。
「間に合った?」
「魔法が解けるまではちょっとあるナ」
 軽口の応酬を聞くともなく聞いていた彼女の腕を、冷たい手が撫でる。内側からの火傷も、叩きつけた部分の外傷もきれいに再生されて元の形へ戻っていく。
「それで、俺は君のなんだったかな? 恩人? 保護者?
 好きな人――」
 銃声に無理やり中断された声と同時に、歌が終わる。
「黙れ殺してやる!!」
「正解!」
 路地に、細切れの死体が一つ増えた。


*四月一日、深夜

「なぁノーフェイス、昨日の仕事ってグラウコスだっけ?」
 思い出したように顔を上げたホロコーストに、ノーフェイスは答えをよこさない。
「仕事って?」
「ファルコで思い出したんだけどよ~、陽動ついでにゾンビの友達つれて飯食いにいったんだわ」
「ああ~……」
 探偵は、ようやく合点がいったというふうに苦笑いする。ファルコから聞かされた現場の様子を思い出していた。
「犯人、君だったか~」
 それならノーフェイスは自業自得かな、と続けると、それがホロコーストのツボにはいったようだった。彼は遅い夕飯のための買い物に付き合って、事務所へ帰りつくまでずっと笑っていた。

 飲んだくれて寝ていたNNが目をさますと、寝室は間接照明でまだうっすらと明るかった。人の気配がシレーナだとわかると、腕で顔を覆ったまま寝返りをうつ。
「喉、乾いてませんか?」
 ボトルの水を顔の近くに置かれると、小さくうなずいてほんの少し体を起こした。
 はずみをつけて、シレーナがベッドの端に腰を下ろす。
「そのまま寝ちゃいますか?」
「……ええ、今日は、もう、少し」
「銃口向けられて歌うのは初めてでした。どきどきしますね」などと言う苦笑いから逃げるように、NNはシーツに顔をうずめる。
「忘れてください。埋め合わせはなんでも」
「午前中してもらったので十分ですよ」
 ほんの少し間をあけて、彼は立ち上がった。扉の前で立ち止まり、ベッドのほうへ目を向ける。
「私、あなたを好きでなければよかった」
 彼女が顔をあげるのと同時に、照明が落とされた。シレーナの声だけが取り残されるように「……ウソですよ」