雨のキャロル


 ちかってくださいますか。
 わたしのささげるすべてをうけいれ、わたしにすべてくださると。
「君がそうしたいなら」
 決死の告白は、そうして確かに受け取られた。
 受け入れ、受け入れられることは大抵の場合、だれにとっても喜ばしいことだと、彼はよく知っていたのだった。

 イルカが消えた。
 水族館とか一部の海域から移動したとかいうわけではなく、突然、一瞬にして、全世界の海という海から忽然と姿を消したのだった。
 今日は朝からその話題で持ちきりで、学者はこぞって議論をかわし、一般人はニュースに釘付けになり、半日程度で飽きてしまった。現代人はとかく目の前のことに忙しいのである。NNも御多分にもれず(とはいえ彼女の多忙は退屈しないために詰め込んだだけのものだ)、全ての仕事を片付けて自宅へ戻る頃にはすっかり忘れていた。街路はジングル・ベルでうるさいくらいだった。
 扉を押し開ける手には、浮足だったBGMに促されて買ったものを握りっぱなしで。
 おかえりなさい、とややはしゃいだ口調に顔を上げる。迎えに出てきたシレーナの前にぞんざいに土産を差し出す。きょとんと目を丸くしながらも、プレゼント用の包みを受け取って自分を見上げる居候に、「うるさかったので」と街中に賑わう広告を指差してみせる。
「ああ……」と合点がいったような顔が苦笑い、それからむずがゆそうに口元を緩め、その笑顔はとうとう喜色を隠せなくなった。
「ありがとうございます」
 手のひらにおさまる大きさの紙袋を、後生大事に抱えて微笑む。中でさらりと、細いチェーンの流れる音。
 シレーナが目を伏せる様子を見ないふりで、NNは横を通り過ぎた。変わらない室内の様子に、我知らずほっとして肩を落とす。家主にとって豪勢なディナーは苦痛でしかなく、かといって用意していれば決して無碍にはしないことをよく知っていた。
 いつも寝に帰ってくるばかりの彼女が、こういう日はいつもより早めに帰ってくることで彼に多少の気遣いを示すように。この少年もまた特別なことをしないことで、彼女を気遣うことにしたのだった。
「朝から話題の魚、まだ消えて戻らないんだそうですね」
 どうでもいい話をしながら、食卓につく。シレーナが食事をする間、NNもとりあえずは同じ席につくことにしていた。
「魚の形ですけど、イルカって哺乳類なんですよ」
 ゼリー飲料の蓋を開けたNNは、それを聞いて不得要領な顔を上げる。彼は、紙袋をちょうど開けるところであった。青く塗られた爪にひっかかるように、細いチェーンが引き上げられる。エメラルドブルーの模造石をあしらったイルカのチャームが、一足遅れて姿をあらわした。店頭で目についたので購入してきたものだった。
「だから話題というか、問題になったんですよね。その、一部の学派や団体からは、人間と同等の知能と文化を持ってるんじゃないかって説も出されてたくらいですし」
「その人類と同じように文化をもつ生命が、この星ごと見限ったかもしれないと」
「そんなかんじです。あ」
「気にしないでください。気にしていませんから」
 手をふる動作の延長で、テーブルの上に肘をつく。あの探偵がいれば「行儀が悪いよ〜」そう、ちょうどこんな調子で茶々を入れてくる。NNは無造作に通信を打ち切った。
「あの」
 シレーナが上目遣いに彼女の顔を覗き込んだ。心底申し訳ない気持ちを滲ませた視線がなにを言いたいのか、今のNNには手に取るようにわかった。

 ニルギリは朗らかに笑って二人を迎えた。お招きにあずかり光栄ですという助手の声は、わざとらしい棒読みであった。探偵の後ろでは、すでに出来上がっているホロコーストが子猫よろしくジミーの首ねっこを掴んで振り回しているところだった。
 彼の判断は素早かった。NNが通信を打ち切ったそばから、ディナーのお誘いをシレーナのほうへ投げたのである。彼が断れないことは言わずもがな、シレーナから改めて誘われればNNも邪険にできない。彼女のあからさまな不機嫌顔は、そういう事情であった。テーブル一面の料理の群れを見て、彼女はすでに満腹だった。せめてもの救いは、呼ばれたのが自分たちだけではないことだ。少なくともホロコーストはこれ見よがしにがっついてくれることだろうし。
 酒だけ飲んで、シレーナが疲れたらとっととひきあげてしまおう。NNがそう決めたところに、脇腹をしたたか殴られグラスを取り落としそうになる。見れば、ジミーが半泣きでタックルしてきたのだった。
「やだあ! ぼーりょくはんたい! ボクもうかえる」
「帰ったらいいじゃありませんか」
「んだァこのガキ、俺様のチキンが食えねえってのかよ」
「焼いたの俺ね〜?」
 反対側からまとわりついてくるホロコーストを押し返し、逆の手でジミーを引っぺがしてソファへ投げ捨てる。ことり、と戸口で音がしたのを拾ったのは、NNだけのようだった。シレーナになだめられる二人を置いてニルギリの背中を肘で小突き、玄関を示す。遠慮がちなノックは、ダイニングの騒音に埋もれながらも今度は家主に届いた。
「はいは〜い」
 彼が小走りに走っていくのを横目に、シレーナの肩を抱いたホロコーストの手がじわじわと腰へ下りるのを見咎める。まったく心の休まる暇がない。
「助手ちゃん聞いた? 消えたイルカ見つかったってよ、今」
「は?」
 ホロコーストの言葉に、顔を見合わせたNNの眉間に皺が深くなる。
 きついミントに安いアルコールの混ざったにおいは、今の気分を逆撫でするのに十分すぎるくらいだ。
「海の底」
「寝言は寝て言え」
「ホントだって! 体の横にジェットパックつけてすげー速さでみんな下にむかって泳いでんだってよ」
「わあ! 寒かったね? あったかいのいるでしょう? 入って入って」
 玄関からの声が、会話をさえぎる。不快感に歪めかけた顔を手で覆い、NNは大きく息を吐いた。
「あの、もしかして、お取込み中だったんじゃ……」
 溺れるような不明瞭な声が、その場にいる全員に届いた。
「いいんだよ〜、人多い方が楽しいし?」
 手持ち無沙汰になったNNがイルカの行方を調べはじめたところで、その視界に手がわりこんでくる。ARに窓など出さず目のほうに出せばよかった、と後悔した。イルカたちが消える前の海の音ばかりが、彼女の耳に届いている。
「またなんも食べてない」
 困り笑顔の探偵を無視して、その隣に視線をやれば、戸惑い気味に身をすくめる女の姿がある。
 NNは、彼女を視界に入れるなり顔をしかめた。反射的なもので、なにに不快感をおぼえたのかはわからない。女は全身義体で、いやに長い頭部を顔まで覆う分厚い布を被るという、奇異な外見をしている。NNにとってはどいつもこいつもまともじゃないのだから、その外見自体が原因ではない。
 むしろ。姿だけならば親近感さえ湧くはずだ。彼女もNNと同じように、体の一部(おそらくは脳を含めた頭部のどこかしら)をこの環境に合わせた義体で守っているのだろう。そうまでしてこんな場所に居たい理由は——
「宇宙人なんだよ〜。それもお姫様!」
「寝言は……」語尾はため息に消えた。無駄だ。すでに姫君の頭の布を剥がす気満々のホロコーストに牽制の銃口を向けながら、彼女は頭痛のときにするような苦々しい顔になる。
「なんでしょう」
「おじゃま、でした、か」
 ぴいぴいと笛の鳴るような音を背景に。水面で泡の弾けるような、奇妙な声で話す。彼女の言にNNはかぶりを振って銃を下ろした。ホロコーストは、唇を尖らせてテーブルの上で骨つきのチキンを弄んでいた。
「別に。人は多い方がいいですね」
 飲み食いをしない自分が埋もれてしまう分には。
 姫君は重たげな頭をゆらし、それから頷くようなそぶりをしてみせた。
「お姫様がSPもつけずにダウンタウンうろついてんのヤバくね?」
「いらないのです」
「はーん。お忍びでそこの探偵に依頼だけしにきたとか? 残念ー、今クリスマスのパーティーなの。非番だろ探偵」
「内容によるかな〜」
「げえっ、仕事が趣味のやつ!」
 ゾンビどものやりとりを横目に、ジミーがNNの脇腹をつつく。端から順にデザートばかり平らげてきた少女はやや甘ったるいにおいを纏わせ、サイケなピンク色の髪をいじりながら彼女を見上げる。
「アレ、なんかヤじゃない?」
「気のせいでしょう」
 同じ不快感を持っていることをさとられるのが嫌で、彼女はぶっきらぼうにそう返すにとどめた。ジミーはなにか言いたげな視線をむけ続けていたが、相手に返す気がないのを知るとふいと顔ごとそっぽをむいた。
 ともあれ、クリスマスのパーティーは新たな客を迎えてなおも続いた。
 異星人の姫君は食事こそできなかったものの、ゲームをさせれば覚えも早く、そんなところがホロコーストとジミーを大層喜ばせた。トランプにシューティングに麻雀に果てはツイスター、どこから出したんだというラインナップに辟易しながらも付き合わされる間に、NNはなにか足りないような気分になったものだが。
 いずれにしても、遊びたがりの二人が疲れて寝落ちすると、NNは姫君がそばに寄ってくるのを視界にとらえた。突然静かになった床の上を、滑るように歩いてくる。
 すとんと隣に座る、顔の横で頭を覆う布が僅かに浮いて、また沈んだ。
「あなたは、どうしてそんな、姿をしているんですか?」
「そんな姿、ですか」
 姫君は頭をかしげて、続ける。水をかき混ぜるような音で。
「ぜんぶこのばしょ、に、最適化しているわ。過度に……それで、は泳げない、し、あいての姿もわから、ないでしょう。ことばもちが、うわ」
「そうですね」
 ぴいぴいと耳障りなこの声も、もとの体でなら正しく意味を聞き取れたのかもしれない。
「なにをおっしゃりたいのかはわかりませんが」
「あなたは、かれのことを、深くぞうおしているの、にどうして、そうまでして、ここにいたい、のですか」
 ばん、と甲高い音が響いた。
 NNは赤熱し、染み出した冷却液でぬるついた排熱パーツを側頭部からむしり取って床に投げ捨てた。
 そうまでしてここに居たい理由は——
「覗き込まないでいただけますか」
「ぶすいでした」
 姫君は静かにソファから立ち上がると、キッチンへ向かってニルギリと二、三言葉を交わして事務所から出ていった。
 彼女の頭部はそこから消えていたが、その頃には誰も気にしなかった。

「好きだってさ〜。結婚してほしいって言われちゃった」
 ワイングラスが、横から視界にすべりこんできた。助手がいつも通りの不機嫌を顔いっぱいに滲ませて見返すと、ニルギリは満足げに自分のグラスに口をつけた。
 確かに、NNには彼女がどの宇宙の姫君なのかも判別がつかなかった。彼女がNNの故郷と元の姿にあたりをつけられたのなら、少なくともこんなに離れた場所の者ではないはずだ。
「ちょっと前に」
 と、続く。助手が説明を必要としているふうに見えたのか、顎を伝って落ちる冷却液を指で拭ってやりながら。
「企業の宇宙開発について、特定の情報を抜き取る仕事があったんだよ。あの子とは、そこで会ったんだ。アリエスのwebスペースに迷い込んで、ロックされた区画から出られなくなってたんだよね」
 いわく、情報体になって人伝てにここまで来たものの、氷の壁に挟まれて前へも後ろへも行けないところであったという。
 姫君といっても、人口爆発のため放逐され、民の一部を受け入れてくれる場所と、それを担保してくれる配偶者を探していたのだと。護衛をつけていないのは、そもそも一人でそうやって旅しているからなのだった。
「それで……」
「助けた俺のこと好きになっちゃったから、きちゃったって〜」
 いわく、彼女はこう言った。

 『誓ってくださいますか。
  わたしのすべてを受け入れ、わたしにすべてをくださると』

 受け入れたのに違いない、とNNは思った。なにせ、相手が(その場では)一番喜ぶ選択肢を選ぶのが、この男の特技である。
 脳の一部が焼き切れたようで具合が悪い。こめかみを抑えると、冷却液はなおも流れ続けていた。
「だいじょうぶ?」
「ご心配なく。自分でメンテナンスできる程度の不具合です」
 心配して伸ばされた手を払って立つ。彼が自分用に持ってきた皿をぼんやりと眺め、NNは大股に玄関へ向かった。「帰っちゃうの? 気をつけてね〜」
 手をふる探偵に返事もせず、外へ出るといくらか頭が冷えたようだった。
 姫君の頭部には、彼女の実体そのものが入っていたはずだ、と思い至って足を止めたのは、少し歩いてからのことだ。楽しげなBGMと鈴の音、ラ・シレーナの歌う声がストリートのスクリーンから流れるのにしばらく聞き入っていた。刺すような温度の雨に全身を叩かれながら。
 ぴいぴいと鳴いていた声がぴたりと止んだ。

 ケースいっぱいに満ちていた姫君は、いまやすべて想い人の腹の中におさまっていた。祝福は降り続けてわたしの民を新たな故郷へ迎えるだろう。ああ、ここがわたしの新しい居場所、ここがわたしの故郷——嬉しさのあまり、失われる直前の意識ごと、体全体で躍り上がった。

 死が全身を貫いた。

 NNは吹き返した息を整えるいとまもなく、歯の根も合わないほど震えていた。仰向けに見上げた夜空は変わらず雨雲で渦をまき、冷たい水の粒を落とす。無数の死が。雨粒の数と同じだけの生命が死ぬ。この宇宙の人口が瞬く間に増えていく。頭の中に数億の死が実感をともなって降ってくる。反射的あるいは本能的に屋根を探し、その下に転がるように飛び込んだ。
 硬直して、満足に動かない体をどうにかそこへ押し込み、それから手のひらを這い上がる言い知れない恐怖に息を呑む。手袋の下には水溜まりがある。無数の死、情報体に分解され自分の体を追われた意識の群れがそこから這い上がってくる。いずれなくなる逃げ場でも、強い誰かの意識にしがみつけば多少は永ら「あっああ」ああ、追い出されてしまう。頭をかかえてうずくまり、絶叫する。水に空気が追い出されていくように、意識が殺到する他人ともつれて溺れていく。
 彼の持つすべてを彼女(たち)のものに、彼女の全てが彼のものに。
 生命のない——この星の生命はすでに追い出されてしまった——街並みだけがクリスマスカラーではしゃいでいる様がなんとも滑稽だった。

  ***

 いずれにせよ、彼らは人類が速度でもって時間を遡行するより、迷路を作って彼女が彼のもとに辿り着けないようにするほうが容易いと思ったわけだ。
 人類にとって唯一の幸いは、イルカたちが外へ逃げるよりこの宇宙が侵略されるほうが早いと判断したことだった。かくして、遡行したイルカに急かされた顔のない男は、滅ぶ宇宙の舞台から、歌姫を舞台袖へ連れ込んだのだった。
「私が興味を引かれてイルカにならなければ、こううまくは運ばなかっただろうな」となぜか誇らしげに、シレーナ本人の足でNNのマンションまで帰ってきたのである。
 ふう、と息をついて、シレーナは雨の向こうにぎらつく街並みを見下ろした。いっそ一仕事終えたついでに、俗っぽいご褒美を期待したってばちは当たらないんじゃないかな。自分の思考とは違うノイズを振り払って、少年は頬を膨らませた。
「そんなこと期待してませんよ」
「そうかね。私はこれでも君の恋を応援してるつもりだが」
 黙りこくっている彼に、ノーフェイスは何を思ったか喉の奥で笑った。
「同情か?」
「想いがかなわないことは」
 歌姫は、目を伏せてつぶやく。花婿を探す姫君と異星の王子様の出会いと再会をつなぐ物語は、ラ・シレーナの歌の中に分解され、窓をたたく雨は、何の意思も宿さないただの気象現象に戻った。雲の形をした宇宙船も、水に似た姿の異星人ももはや存在しなかった。
「つらいこと、ですよ」
 この世界では、きっと誰の想いも叶わないまま消えていく。
 その場をしのいで永らえながら、滅んだ世界を苦し紛れに観測し。夜明けと共に消える夢なのに。
「せめて良い夢ならいいじゃないか」
「いい話風に人の体で動こうとしないでください! 私はそういうことしませんってば!」
「残念だ」
「誰がですか!」

  ***

 がくんと落ちた後頭部の重みで、NNは目をさました。外は薄明るく、テーブルに食べ散らかし飲み散らかされた跡はまだひとつも片付いていない。鈍い痛みにうめいて頭を抱え、水を飲むためにキッチンへと足を向けた。床に転がって死んでいるホロコーストを跨いで、ブランケットを抱きしめて転がっているジミーの側から割れた酒瓶と皿を拾い上げる。
 不覚だった。ホロコーストに煽られてムカついたからといって、二日酔いするほど呑んでしまうなんて。
 ぞんざいに置かれた靴下に気づいたのは、常備してあるペットボトルを手にソファへ戻ったときだ。ホロコーストとジミーの近くにも無理やりプレゼントをねじ込んだ靴下が転がっているところを見ると、あの探偵の仕業に違いなかった。
 彼女がそれをひっくり返してみると、小さな紙袋が落ちる。手のひらに収まるくらいの大きさ。破らないようにシールを剥がし、中身を出してみると、エメラルドブルーの模造石をあしらったイルカのペンダントである。呆れ返って袋に戻す。帰ったらシレーナにでもくれてやろう。急に入った仕事で疲れていることだろうから。
 紙袋に指が引っかかり、付箋が貼ってあることに気づいたが、NNはそれをろくに見ずゴミ箱に投げ捨てた。

 it was just a dream.
 主人公が見ることさえなかったせいで、それは夢ですらなくなるのだった。