聖ウァレンティヌスの喜悦


 助手の機嫌が悪いのはいつものことだ。
 見下ろす海は春先なのにいっそう寒々しく、重たい雲を通した日光の下で黒々と揺れている。緩く弧を描く水平線が、空と海を真っ二つに分けていた。
 海風を浴びて、その目はいつもにもまして険しい。彼女は海が嫌いだ。塩と水を含んでべたついた風は、柔らかい髪にも肌の表面にも絡んでまとわりついてくるようで気分が悪い。
「そんなこと言って、なにもかも嫌いだって言うんだから。
 もっと楽しいこと考えようよ~」
 傍らでうそぶくそいつの頭を今すぐにぶち抜いてやりたいのを抑え、NNはさび付いた鉄柵から手を離した。
「あなたがいなければ幾分マシな気分でしたが」
「いいじゃん、珍しく俺と君別の仕事だし?」
「だったら絡んでくるんじゃない」
 親しげな手を打ち払ってきびすを返し、大股にトラックへ向かう背中を見送ると、ニルギリもそちらへ歩き出した。バトルシップの内部中層に位置するその区画は依頼人であるカイツ・ホランダーが治めている。暗い船内を照らすのは通路に点々とちらつく薄い照明、それと明かり取りから差し込むささやかな光の柱くらいだ。吹き抜けの上から下まで、がやがやと準備に走る男たちの声が騒がしく反響している。
 高い運転席では、トラックのシステムと同調を終えたNNがハンドルによりかかって、ニルギリの動きを目で追う。ちらと笑いかけた彼が、フロントからすっと姿を消すのを。荷台のほうへ向かったのだ。この――ばかでかいトラック。
 隠す気もないごつい武装と厚い装甲に覆われた車両が、今回の仕事の道連れだ。

   *   *

 ばかでかい戦艦と、それにとりついてバラック式にくみ上げられたいびつな住居群。これらをひとまとめにして「バトルシップ」と呼称される。古い戦艦の二重底を改造して作られた港町のような部分が彼らの生活の基幹で、そこだけが唯一艦内部を分割して自治をする複数の組織の影響を受けない。
 海底から、あるいはこの戦艦の内部からも、未だロストテクノロジーの発掘と解析が進められているのだという。海底二万マイルもあながち夢じゃないなどとはしゃぐニルギリの言葉をにべなく「狭苦しい」の一言でうち捨てたのはつい先日のことだ。
 NNは通路にひしめく住人たちをにらみつける。目の合う輩は相変わらず、「うげっ」とでも言いたげな顔をしていた。もっと通路が広ければこうとろとろ車を走らせる必要はないのだ。ハンドルを叩く指を眺めて、カイツが助手席から悪びれない笑顔を向けた。
「悪いね、表だった妨害があるまでは我慢しておくれよ」
 ひび割れた女の声に、NNはちらと視線をやる。
 灰と白と茶色の混じった短い髪を後ろに流し、やせた頬にはまるでそういう模様みたいに細かな皺を走らせる。カイツ・ホランダーは六十がらみの老女であった。NNへの依頼は、バトルシップ機関部に使われた技術を応用した改良型歩行戦車の護送だ。より柔軟により深く機械と電脳をリンクさせる技術をヘリオス社に売り込み、見事取引が成立したということだった。こうして、トラックに電脳を接続するのと同じようにして。この技術も、もとはバトルシップからのものらしい。この重たい荷台に入っているのは、ようするにその商品だ。図や設計やデータにすれば流出するのだから実物に全部入れているという。当然オフラインだから、このメルカバを無理矢理奪わないことにはよそから情報を盗む術もない。NNはといえば、カイツの話を聞いて呆れつつも、無理矢理奪いにくる手合いのことを想像してついこの仕事を引き受けたのだった。
 ひしめく車両と人の間をくぐり、ようやく倉庫から抜け出して港の部分へ出ると、とたんに増える光量におぼえず目をすがめた。早朝の港は閑散としていた。今日は市の立つ日ではないということだ。かわりに、倉庫ではひっきりなしに武装したトラックが出入りしている。あちらこちらと技術による交易が盛んなのだと聞いてはいるが。
 跳ね橋がおりるのを待つNNの腕を、横から細い指がつつく。
「なんです?」
「朝だよ。飯くってないだろ」
 カイツが隣からパックゼリーと四角い紙箱を押しつける。NNは少し考え、それからパックゼリーだけを受け取った。
「小食ですので」
「そのナリで?」
 カイツは切り返しにちょっと目を丸くして笑う他に、何か言うことはなかった。助手席のほうを見ないようにしていたNNが口を開いたのは、彼女が自分のぶんの箱をつぶす音を聞いてからだった。
「すべて部下に任せることもできたのではありませんか」
「そう思うかい。こういう取引はボスが顔を出す方が柔軟に対応できるだろ?」
 腕組みして座席に背を預ける。長い橋を渡りきった車体が大きく揺れた。カイツがびくともせず座っているのを確認すると、NNもそれ以上ヤボを言うことはなかった。
「だまされるなよ、ボスはストリートに若いツバメを囲ってるんだ」
「そいつに逢いに行く気なんだぜ」
 併走するガンシップから若手が笑い混じりの野次を投げてきた。一台には娘同然に育ってきたという腹心、ノーラ。もう一台にはクライド、ロスの二人がそれぞれ何かの時のため武器や弾薬を積んで着いてくることになっていた。三人ともカイツかその夫と関わりがあり、ホランダーの姓を持つ。ノーラはメルカバ乗り、ロスはフルボーグでそれぞれに有事の際は戦力にもなる、ということだった。
 カイツは彼らの軽口を鬱陶しそうに手で払うと、運転席側へ身をのりだした。
「でさ、どういう感じなの、こういう車と神経つなげるってのは」
「大して変わりませんよ」
 横からの視線に好奇の色が混じるのを感じながら、こともなげにうそぶいた。嘘でも強がりでもなく――彼女にしてみたら、義体を動かすのも大型の車両を動かすのも変わらなかった。乗り物の勝手が変わるだけ。もっとも、もとからこの身体の者たちにしたら、神経系から何からすべてすげ替えるような空恐ろしい気持ちになるのかもしれない。
 NNが自分の身体を見限って、全身義体に意識を移したときのように。
 なんとなく、まぶたの裏にはあの「うげっ」という顔が浮かんでいた。
「アリエスの奴らもそれくらい肝が据わってれば、このシステムも売れたろうにな」
「道理で」
 うるさいバトルシップの本体を遠くにバラックを走り抜ける。
 まばらな家々も徐々に間隔を広げていき、荒野へと走り出るとようやくNNは人心地ついた様子で肩をおとした。
「アリエスでは見ないわけです」
「バトルシップの中でだってあんまり動かしたがる奴はいないからね。メルカバと何が違うんだか」
 強いて言えば。いつもと違うのは、背後にも目があることだ。後背の景色を、前方と同時に認識する。一列に続いていた二台のガンシップが徐々に間隔を広げ併走するさまを。慣れない者ならこれで事故を起こしかねない。言ったとてうまく伝えられる言葉を思いつかないので、何も言わず受け流すにとどめていた。
 乾いた地面の感触を、まるで自分の足裏に直接受けているような不快感も、複数の方角を同時に認識するのも特別不便と思わないのは、それこそ慣れというやつだ。
 白い空で雲が時折割れて、光の筋がちらちらと流れるのを眺めながら。
 無事にはいかないことを彼女は知っている。そもそも、カイツが後継を選ばないのにしびれを切らせている連中が主に妨害してくるだろうという話だ。期待して高揚しかかる気分と、期待外れをぶつけられたときのための取りなしとを今から始めているNNに視線をやり、カイツは「無口だね」とやや驚いた様子で言うのだった。

 カイツ・ホランダーは強かな女だ。
 バトルシップに生まれ育ち、マフィアの親玉をやっていた男の妻になったが子どもができる前に先立たれた。夫の組織を治めているのは「惰性だ」、とこともなく言い切るところに、NNはひそかに好感を抱いた。惰性のわりにこの家業が肌に合っているように見えるところにも。いい加減後継を決めろと若い奴らに詰め寄られるので、それをのらくら交わすのが危害になりつつあるなんてことを、聞いてもいないのにやたらと元気よく話すのだった。
 NNが黙っているのも気にはならない様子で。女性は大概話し好きだから君みたいなのは好かれるんだよ、とはあの探偵の言である。
 その探偵はといえば、バトルシップ産のちょっと珍しい紅茶の缶だけを土産にして昨日のうちにアリエスへ帰っている。荒事だけの仕事は彼の趣味ではないということらしかった。
「そもそもあたしは港の生まれでさ。旦那はお上品でカッコイイのが好みだったらしいが、どうもそこのとこだけは上手く乗ってやれなくてね」
 いつもぴっしとスーツを着ている男だったよ。そう続けて笑う。NNはそうですか、とやはり短い相槌をよこすにとどめた。
 彼女にしてみればいつもスーツの男なんて、碌な手合いではない。
 ひゅうと冷たい風が吹き込んだ。
 カイツが、無造作に朝食の入っていた紙箱を放る。
 空中でばらけた包装と、巻き込まれてどこぞへ飛んでいく魚の骨を見ぬ振りで、NNはアクセルを踏み込んだ。
 カイツは気持ちの良い女だが、同時にやっぱり化け物であった。

 同じ頃、ニルギリはちょうど事務所を訪れたシレーナを伴ってストリートへ買い出しへ出るところであった。午後からはノーフェイスと合流して一仕事しなければならないから、エンディと約束した夕飯の準備はなんとしても朝の間に終わらせておかなければならない。シレーナに手伝いを頼んだのもそういうわけだ。
「ごめんね。シレーナのほうでもなにか準備があった?」
「いいえ。NNさんも遅くまで帰らないって」
「ふうん」
 遅くには帰る気があるのはいい傾向かもしれないな、と人知れず探偵はうなずいた。おおかたシレーナの寂しそうな顔にほだされたのだろう。
 ストリートはちらほらとピンクや赤の装飾が増えていて、目に見えるほどではないが飲食店のデザートメニューにチョコがトッピングされる季節。とはいえ、あの助手がそんなものを気にする手合いでないことくらいシレーナも心得ていた。
「用意すれば食べてくれるよ~」
「そうでしょう、けど」
 そこまで我を通す気になれない、と肩を落としてみせる。奥手が過ぎるのよね、とはその親友の言だ。
 ストリートの雑踏を抜け、低い屋根の続く道へ入ると傘をたたむ。知らない道だと気づいて見回すシレーナの手を引いて、ニルギリは迷いなくその狭い路地を進む。少し行くと、油っぽい煙が食堂の扉から漏れていた。隣の店の軒先に、いかにも技師然とした若者が口をへの字に曲げてそちらをにらんでいる。どことなく格好がついていないように見えるのは、服装に似合わず線が細く、伸ばしっぱなしの髪を後ろでまとめた美青年だからか。
 周囲では屋根を叩く雨の音が反響し、朝だというのにやけに賑やかだ。
 ややあって、ニルギリを見つけるとその顔が懐っこい笑顔を浮かべた。
「探偵さん。久しぶり」
「おはよう~。まだ扉直らないの?」
「新しいのが届かないんだよ。おかげでずーっと隣の煙が入ってくるんだ」
 肩を落として、ふと、ニルギリの隣にたたずむシレーナに目をやる。
「もしかしてデートとかだった?」
「違うよ~。例の図面見つけててくれるはずだから受け取っといてって」
「ああ、アレ!」
 青年は聞くなり嬉々として、紙袋にいっぱいの光学ディスクを取り上げてニルギリに手渡した。
「これ、全部読み込んどくのか。手間かかりそう」
「うちに読める媒体なくって。お手間かけます」
「だいじょうぶ、読める伝手はあるし~、俺もいくらかはこういうの向けにリーダー持ってるし」
 身を乗り出してしばらくシレーナが聞くところによると、どうも彼が親から譲り受けた古い図面のデータであるという。近頃ニルギリの紹介でここを使うようになったNNが、雑談に出たその図面に興味を示して貸してもらえるよう交渉したものだ。
「無茶な仕事させられたりしてない?」
「まさか! 金払いもいいしかっこいいし、次いつ来てくれるかな~って思ってるくらいですよ」
 明るく言ってのける青年を、シレーナはなんとなくうらやましく思うのだった。

 ジョージ・ノーマンはこの上もなく不機嫌であった。小悪党の上司をこれほど恨んだことはない。本来今日は非番だというのに、奴が妙な功名心にとらわれてグラウコスの下っ端がやるような仕事に手を出したのだ。はたして自分にもどれだけ分け前がくるか怪しい。
 唯一の望みは――
 彼は、それだけのために、今日襲う車両を動かす運び屋について調べていた。
 唯一の望みは、上手いことそれを自分が奪い取って単独でグラウコスに売りつけることだ。あるいは跡取りを持たないカイツを殺して組織を乗っ取ろうとするものもいるらしい――どちらにしろ。金さえ手に入ればとっととこんなところ出て行ってやる。
 カイツ・ホランダーはラフィン・コヨーテではなく別のデイブレイカーに護送を頼んだようだった。ドライバーではなく兵士として。ジョージには、味方側の裏切りのほうを警戒しているように思われた。
 トラックのほうを捕まえ損ねることはないだろうが、捕まえたとして返り討ちに遭わない保証もない。どうすれば生き残る目が高くなるかに考えをシフトさせ、彼はNNの予備義体に目をつけた。白兵用の義体がどこかに隠れているはずだ。
 不幸にして、ジョージにはこうして短時間で情報を集める程度の技術があった。彼がそれを利用することを考えるのは、ごく自然な流れといえた。

   *   *

 トラックの行き先はハインライン川にかかる橋を越えるところまでだ。そこからカテドラルまではヘリオスの車両が引き取って行ってくれる算段。そういうわけで、思い切りの良いカイツはアリエス西端から入り、プルガトリオ・エリアを抜けてヘルズモールを経由するルートを提案した。依頼人に異存がないというなら、NNのほうでも反対する理由はなかった。
 何もない荒野を飛ばすことすでに三時間ほど。両側の車両にいる若手と談笑に興じていたカイツがミラーを見て目を細めた。NNがとうに気づいていることは察して、足下から銃を取り上げる。極端に切り詰められた散弾銃だ。
「装甲車相手に役に立つんですか?」
「嫌がらせだよ。うるさいだろ? 本命はトラックの武装なんだからあたしはこれでいいのさ」
「愉快ですね」
 NNは器用に他の銃器を引っ張り出す老女の手元を一瞥し、それから自分も視界に出した操作盤とトラックの紐付けを行う。後ろから飛び出してきた車両とは、すでに両側の車が交戦中だ。ノーラとクライド、ロスの車両はそれぞれ戦車の砲塔を荷台に積んでいる。カイツよりはすこしマシな武器だった。

「どう?」
「聞くまでもないだろう」
 ノーフェイスは返答の代わりに空になったカップを渡す。ニルギリも聞いてみたかっただけで、大して心配してはいなかったのが実際のところだ。思考の誘導など朝飯前、いや今は昼食の最中だ。
 台所でシレーナとお菓子作りに興じるついでに作業と仕事の段取りを確認する。案外とそういった気遣いは細やかである。お菓子作りの片手間感のせいでそう見えないのが玉に瑕だ。
「私のほうに構うことはない。見張られていたらいたずらのひとつもできないからな」
「いたずらしないようにちょくちょく見てるんだけど?」
 そんなことだろうな、と肩をすくめ、ノーフェイスはふと顔をあげた。
「いや、物好きな奴がいるな」
 笑いを含んだ声にニルギリがとがめるような視線を向ける。
「助手君相手のいたずらでなければいいんだろう? まあ間接的に被害はあるかもしれないが」

「お袋」
 クライドの声が電脳越しにカイツへ呼びかける。
「義体へのハッキングがある。ドライバーは対応できそうか?」
 NNの目が笑む。意を汲んだカイツが放っておけと答えると、それ以上何か言ってくることはなかった。あるいは、会話をする余裕がなくなったか。
 追いすがる装甲車の周囲で甲高い音を立てて火花が散る。カイツのショットガンによるもので、運転手は苛ついたふうに分厚い車体を揺する。
 NNの指示と同時に、ガンシップが速度を上げる。追ってきた装甲車の足下が爆ぜ、あわや横転するところで急停車した。えぐれた岩場に前輪を空回りさせ、エンジンが吼えるのを聞きながら、NNは荷台の両側に積まれた連装ミサイルランチャーを格納する。雑にアクセルを踏み込んだ彼女の隣で、カイツは大げさに揺れる座席に背中を押しつけてショットガンを手放した。足下でライフルを跳ね上げて手に持ち直す。
「まっすぐ前に向けてください」
 短い指示と同時に急ブレーキ。
 グレネードランチャーを取り付けたライフルをカイツが前へ構え、引き金を引く。轟音と爆風、焦げた空気のにおいが遅れて続く。トラックが全速力でバックするのと、大型のトラックが目の前すれすれに突っ込んでくるのはほぼ同時だった。彼女らの乗ったものと同じ、軍隊で使うようなガントラック。今は荷台に大穴を空け横様に倒れたそれを目の前にして、NNは再びアクセルを踏み込んだ。目の前の車両を鼻先ではね飛ばして直進する。さすがに隣から小さく悲鳴が上がった。
 後ろではまだ追ってくる小型の武装車をノーラとクライドがあしらっているところだった。もうすぐ街へ入る。カイツはひとまず外を見るのをやめ、一向収まらない砂煙に耐えきれず咳き込みながら窓を閉めた。
「迂回できただろうに」
「その間に後続が距離を詰めてきます。これの装甲は幾分あちらより分厚いですし、事実鼻先がへこんだ程度ですんでいるようだ。いい改造です」
「なんていうか」
 ライフルを抱えたまま、老女はNNを見やる。当の彼女はまっすぐに前を見据え、一度だけ瞬きした。コンソールは収納され、今はまたトラックの運転と周囲の確認のみに意識を向ける。街の残骸へ滑り込むと、視野は急速に狭まる。道の至るところに瓦礫と建物とが立ちふさがっていた。
「楽しそうでなによりだよ」
「ええ」
 NNの大きな目が笑みを浮かべると、それはわかりやすいものだった。
 プルガトリオ・エリアへ入ると、開けた工場跡へ向けて出し抜けに急ハンドルでトラックをドリフトさせて停まる。荷台で轟音が響いたのを聞くと、NNはトラックとの神経接続を切って運転席から飛び降りた。
「走らせてください。いつでも追いつけますから」
「さっきから思ってたがね! 老人は大事に扱ったらどうなんだい!」
「あなたは並の老人より頑丈そうでしたので。実際ちょっと目を回した程度で済んでいる」
 荷台の側面を切り開いて、デュアルチェーンソーの刃が叫んだ。空を切るそいつの肩を蹴って後ろへ転がし、NNは「いい改造ですね」と笑った。
 見た目こそ生身の人間ではあるが、カイツは内部の感覚器をほとんど機械に代用させ強化している。短く溜息した彼女がすぐさま神経接続を引き継いでトラックを出すのを見送ると、風を裂いて襲うチェーンソーの刃をライフルの一撃でそらし、その脚を撃ち抜いた。

「おかしい」
 クライドは小さくぼやいた。
「何がおかしいんだ?」
 はしゃいだ様子の兄弟を横目に溜息をついて、「なあ、あんな警官ごときになんであのドライバーの予備義体の情報なんて流れるんだよ」
 たしかにやりやすくはなった。やりやすくすることに意義があるんじゃないか。ロスは兄弟の危惧を理解していない様子でハンドルを握りなおした。
「そんなら、お前が調べといてくれよ。俺は俺の仕事をしなきゃな」
 舌打ちするクライドの隣で、脳天気な兄弟は車を停めてぐったりと目をとじた。
 ロスが意識をそちらへ移したのを確認すると、彼は短く息をついて、先に殺した警官の電脳から、そこに潜んで成り行きを見ていたらしい「何者か」の足跡を追うことにした。

 甲高くブレーキの音が響く。カイツはいくばくもせぬうちに足止めを食らったらしい。銃声と怒号を遠くに聞くかたわら生き残っていた装甲車が追いついてくるのを見回し。
 舌打ちして下がる自分の予備義体を、NNは醒めた気分で一瞥した。こちらはあまりいただけない。
「せっかく貸してやったんです。もっと上手く立ち回ってくれないと」
 その身体ごと殺す予定に代わりはないけれど。

 シレーナはびくりと一瞬首をすくめて西のほうへ視線をめぐらす。ストリートでは抗争だ喧嘩だのは日常茶飯事だが、未だその日常に慣れないのはもとが上流の出だからだろう。いずれにしても、どうやら近くの音ではないとさとると早足にその場を歩き出す。立ち止まっていていいことはない。
 早足に――シレーナが向かっているのはハインライン下流に位置するバラック群、朝に立ち寄ったあの技師の店である。ヘリオス社の御曹司を呼んで夕食はちょっとしたパーティーになる予定だが、ついでに彼も呼びたいとニルギリに頼まれたのだった。手っ取り早くwebか電脳で連絡が取れればよかったが、折悪しく彼はウェットだという。台所作業から手が離せないニルギリと、仕事に熱中しているノーフェイスのほかには、そこから動けるのはシレーナだけであった。
「君だったら、たぶん仲良くなれるんじゃないかな~。友達になれたらいいね」
 送り出すとき、ニルギリはそんなことを言っていたが。
 バラックの屋根の下へたどり着く。朝より風が強く、食堂の煙はいっそう拡がって、すれ違う人は皆一様に顔をしかめて脚を早める。なるほど金払いのいい常連をいっそうありがたがるわけだ。立地が悪すぎる。
「ごめん、ください」
 入り口から中をのぞき込むと、すぐに奥から返事が帰ってくる。よく通る低音だ。
「あ、今朝の」
「どうも」
「なにか用? 仕事なら喜んで請け負いますけど?」
「あ、いいえ。ニルギリさんが夕食に誘いたいって」
「ええ~。さっき言わなかったの?」
 忘れてたそうです、と答えると忙しそうだったからね、と笑い返し、手持ちぶさたにしているシレーナに椅子を勧める。薄暗い室内はどうにも鉄臭くて、彼には落ち着かない場所だった。
「いいのかね、こんな男所帯に美女を放り込んで」
 冗談口に言いながら、インスタントコーヒーを入れた紙コップを手渡す。受け取ったシレーナが冷えた指先を暖める間、青年は黙りこくって窓の外を眺めていた。
 あいにくと風はこちら向きのようで、まともに雨をたたきつけられる窓からは外の様子をうかがえない。
「そういえば、今日助手さんいなかったね」
「ええ。今日は別な仕事で」
「そっか~。で、派手にぶっ壊す予定がねえ。あ、心配? おれ悪いこと言ったかな」
「いえ。いつものことみたいですし。心配なのは……そうですけど」
「派手に怪我しても案外死なないですよああいう人は。元気だから」
「元気」
「あ~。ちょっと、まあ母さんに似てて気になっててさあの人。母さんには置いてかれたんですけど」
「元気のいい、お母さんだったんですね」
 ちょっと想像がつくような、つかないような。シレーナが神妙な顔をしているのに気づくと彼は手を振って笑った。
「死んだんじゃないよ。ここにぽいっと置いてかれたわけ。
 まあ、その前も狭いとこに閉じ込められてるみたいな生活だったし。仕込まれた技術があったんでこうして生計も立てられてるし、あっちもなんか事情はあったんだろうな」
 シレーナは、黙りこくって彼を見上げていた。
 強かな女だった母のことと、NNのところへ転がり込んだ経緯について、なんとはなし思い出したのだった。
「そういえば、夕食は」
「あ、無理、パス。ごめんね。明日のデートの準備があるから」
 にべもない返答であった。

   *   *

 まずはライフルで武装車両の運転席を片付けて、走りこんできた白兵予備義体の腕を受け流す。脚が上がるのを見て逆の脚をかけて転がし、腹を踏みつける。
 息を詰まらせる、自分の顔に並んだ空洞を正面から眺めるのだけは、あまり気分の良いものではなかった。
 後ろからガンシップが突っ込んでくる。NNがボンネットを踏んで銃を向ける、肩口が爆ぜ、急ブレーキとともに地面に転がり落ちた。
 あらかじめ窓越しに向けていたショットガンを下ろすついでに、クライドがNNと予備義体の間にガンシップを停めた。
「ロス、なに手間かけてる」
 呼ばれると、そいつは反吐を吐いてその場に起き上がる。
「へえ。いいんですか、前に出てきて」
「構わない、俺はあんたには勝てないが」
 殴りかかる拳を受ける、掌から肩に激痛が走り、顔をしかめたNNの身体ごと予備義体の拳が振り払う。視界が反転する。受け身を取って跳ね起きようとした脇腹を、追いすがる踵が砕いた。地面ごと穿つような馬鹿力は、使用者本人のオーダーだ。
「そのためにロスがそいつを使うんだ」
 さすがに今回ばかりは、あの探偵の助言を聞いて少しは性能を落としておくべきだったかもしれない。
 脳天まで揺さぶられるような衝撃が抜けると、躙る脚首をつかんだNNの左腕が殻を開く。
 改造ショットガンの一撃をすんでで躱し、ロスはその手を払って距離を取る。
 トリガーを引く、NNとロスの間の時空がぐにゃりとゆがんだ。
「兄弟!」
 銃弾の雨が降る。あわやで離脱したクライドが叫んだ時、すでにその姿はそこに無い。クライドが離脱させたらしい、とNNがさとるのと、ガンシップが急アクセルで走り出すのは同時だ。
 一瞬、ダメージの抜けない身体がぐらついた。今の離脱をなさしめたのは守護天使だ。覚えのあるエフェクト。考えるより先に、NNはクライドに目もくれず走り出した。
 護衛を出し抜いた奴らが次にすることは、母殺しだ。
 ロスの背に追いつくと、NNはそこにしがみつくように体当たりし、どちらからともなく地面に転がる。ヘルズモールを抜けて、橋を目前にした場所だ。ほうぼうにパイルバンカーで縫い留められ、あるいは爆ぜた武装車の残骸。その先でノーラのメルカバが、横転したトラックを起こそうとしているところであった。
 腹を蹴り上げられるより先に、NNの左腕がその胴を撃ち抜いた。爆ぜた金属のフレームと、えぐれたアスファルトにぶちまけられる生体パーツの色味が悪夢じみた色彩に足下を染める。
 背後で、コントロールを失ったガンシップが壁に打ち当たって止まった。
 蟲の息、と表現したものか、NNがその空虚な眼窩に左腕の銃口を向け、とどめを刺す瞬間、相手の口端が弓なりにつり上がった。
「避けてみせろよ」
 と自分の声が言う。
「――!」
 波打つように足場が崩れ、ついで全身を抉り切り刻む鋸刃の感触に悲鳴をかみ殺す。察して離脱する動きはやや遅れをとってしまったようで、傷は多くないが一つ一つがいやに深い。切り刻まれて半端に隆起したコンクリートの上に、あわや膝をつきかけた。脇腹をそぎ落とされて折れ曲がった骨格を露出する胴の上に、半ばまで断ち切られた左腕がぶら下がる。
 因果歪曲による重撃は、銃によるものよりこちらのほうがえげつないな、と嫌な実感。
 首の浅い傷をまず修復する。脚の表面を覆っていた生体パーツがそぎ落とされて外側へぶら下がっているのもそのままに駆け出すが、メルカバが殴り飛ばされ、横転したトラックからカイツを引きずり出されるのに今一歩で間に合わない。
 首をへし折られるかと見えたカイツの腕が上がる。
 NNのライフルがロスの手首を撃ち抜くのと時を同じくして、カイツのショットガンがその肩を吹き飛ばした。とっさに、NNは反動で背中をドアに打ち付けて崩れ落ちる彼女を右腕に抱えて引き上げる。振り下ろされるチェーンソーを直視し、止めるでもなく左腕を向けた。
 振り下ろされるまま刃が左肩を砕き、骨を削る激痛が脳を揺らす。とはいえ、
「奥の手は取っておくものです」
 トリガーは引かれていた。
 そいつがどう動こうと、最後の一撃は必ずそいつの脳天をぶち抜く。
 ボンネットを滑り落ちていく白兵用予備義体がもはや動かないことを確認すると、NNはようやく息をついて、駆け寄ってきたメルカバの腕にカイツを移した。大きく息をついて、NNもまたトラックに背中を預ける。左腕は肩から削げ落ち、肩の接続部がずたずたの生体パーツに埋もれて露出していた。
「大丈夫なの?」
「すぐ、修復、しますが」
 かすれた声が返答し、舌打ちする。
「処理が多くて頭が痛いな」
「割りに楽しそうね」
「性分ですので」
 ノーラはようやくメルカバのコクピットを開き、蒼白ながらもカイツが息をしているのを確かめてほっと肩を落とすのだった。

   *   *

 ウォズニックがエンディを迎えに来たのは時計が二二時を回ったころだ。
「パパなりの葛藤が見える時間だよね」とはエンディ本人の言。彼としては泊まりたかったようだが、ニルギリにしてみても今夜ばかりは帰って貰わなければならない事情があった。
「本当は親子で遊びに来てほしかったくらいだよ~。いいお茶が手に入ったから、これはお土産。パパによろしくね」
「いいの? ありがとう!」
 ウォズニックに目配せして、エンディの手に紅茶の缶を乗せる。見かけによらずずしりと重たいそれを、少年は疑問も持たず両手で受け取った。中身は限界まで圧縮したメルカバの基幹部と、技師の青年から借り受けて整理した補足的な図面やもともとの用途についてのデータファイルだ。
「お茶ね……」「今日はずいぶん人が多いな」
「まあね~」
 ウォズニックは、器用に半分で苦笑い、半分で呆れた顔を作ってみせると肩を落とした。大人の会話の間で、エンディは大きくあくびしている。
「お前のほうもだ」「ご苦労さまでした」
 奥をのぞいて、けだるそうに食卓に肘をついていたNNを見ると、彼女はそちらに視線だけよこして手を振った。満足したのであとはどうでもよかった。
 ウォズニックとエンディが帰った後で、仮眠室から出てきたシレーナが遅れて席についた。カイツの傷の手当を済ませたところであった。
「ありがとう、ご迷惑おかけしました」
「いえ。NNさんはだいじょうぶですか」
「ごらんの通り」
 手を広げてみせる彼女の身体には、すっかり傷一つない。
「はしゃいだみたいだね~」
「ノーフェイスに手を出させたでしょう。無理矢理デイブレイカーの能力を使わせて敵の脳を焼き切るなんて」
 唇をとがらす助手をなだめようとした手はにべもなくたたき落とされる。その介入が無ければつまらない戦闘になったとわかっているから、なおのこと釈然としないのであった。
「でも、メルカバはトラックごとだめになってしまったんですよね。護送の仕事はよかったんですか」
「いいんですよ。本命は今ヘリオス社に渡ったので」
「ああ、なんだ……。……?」
 ソファでごろ寝していたノーラが、シレーナの困惑を見てとるやゆったりと身体を起こした。こちらはメルカバごと殴り飛ばされたときに打った身体のあちこちにあざをこしらえている。カイツが無事であるとわかったらすっかり気を抜いてしまって、今の今まで眠っていたのだった。今日のところは、身内の埃を叩いて出すのにデコイを命がけで運ぶ酔狂にすっかり体力と気力を持っていかれた。
「メルカバのほうは修理しなきゃ。そっちは明日でいいや、運んでくれるでしょ」と、その指が窓ごしにハインライン下流を指し示す。
「もう一つの依頼もばっちりですよ~」
 と茶々を入れたのはニルギリの声だ。ダイニングのカウンターテーブルに作りたてのチョコフォンデュを置いて、どこから仕入れたのか紙箱を組み立てているところだった。
 呆れた様子のNNに、ノーラは笑みを返した。
「言ったじゃーないの。ボスは若いツバメに用があるんだって」