CHEERS
いつも通りの恋の終わりだった。
どうやら恋人を食い殺した直後らしいホロコーストをなだめながら、NNはその見るに堪えない有様を眺め、室内に引き入れた。
「話は聞いてやるから服と顔をどうにかしてください」
彼は涙を拭うでもなく悄然とそこに立っていたが、ややあって、うなずくついでに涙をこぼす。そのままシャワールームに蹴り込み、扉の向こうでぐずる声と一緒に血を流す水音が聞こえ始めると、彼女はそこに立ったまま壁に背中をあずけた。
点々とフローリングの上を汚す血だらけの足跡を見るともなく見る。こんなときは家にものがなくてよかったと思うのだった。
「助手ちゃん、いる?」
「いますよ。愚痴を続けるつもりならどうぞ」
今回の彼女については、NNも少しだけ知っていた。一月ほど前に突発的なゾンデミックのとき助けた女性である。快活そうな金髪の女性で、気づいたらホロコーストとそういう仲になっていた。ゾンビが女をゾンビから助けて惚れられるなんて冗談も休み休み言えってかんじであるが、そんな話をすれば羨ましいのかとかなんか囃されるのが関の山。
そういうわけで、何度か一緒に遊びにいくのに連れ回された程度の知り合いだった。とはいえ、よくよく考えてみれば一ヶ月も付き合っていられたのが珍しいし、情も深くなるわけだ。
今日はちょうど彼女の買い物に付き合わされて、楽しく過ごしたと思いきや「明後日がママの誕生日なの!」と満面の笑みに堪えきれずのど笛を食いちぎったのだ、という。
「許せなかったんですか」
「……優しいと思ったけど。やっぱ優しくない」
「優しくされて嬉しいですか」
「ふざけろよぶっ殺すぞ」
「そりゃよかった」
泣きじゃくる声を背中越しに聴きながら、NNはやるせない気分でとつとつと彼の話すのを聞いていた。嗚咽だか話し声だかわからないもののほうが多かったが。
「どうして、後悔するんです?」
ふと転がりでた疑問にちょっとだけ泣き声がやんで、ややあって、
「好きだからだよ」
と答えた。
上機嫌にストリートを歩く彼と出くわしたのはそれからわずか数日後だ。
NNがその姿を見ると、ホロコーストのほうでもそれに気がついて大げさに手を振ってみせる。やや乱れ気味のブロンドを撫でるように自分のほうへ引き寄せて、一緒に――若干の反発が傍目には見えるが――歩いてくるのだった。
「どうも。元気そうですね」
「そう~? わかる? ところでちょっとデート向けのレストランとか知らない?」
「そういうのは探偵にでも聞いたらどうです。それにしても今回は心変わりが早いですね」
「心変わり? してねーよ、ほら」
言いながら、彼の手はいましもどこぞへふらふら歩いて行きそうだった女の腕をつかんで引く。NNが顔をしかめるのも気にせず(あるいは気づいていないのか)、腰に手を回して抱き寄せる。化粧である程度隠してあるものの、彼女の肌は青白く、目は濁って真っ白だ。
なにより、NNは彼女の顔に見覚えがあった。
「ルーシィ」
「そう、ルーシィだ」
「先日食い殺したと……死んでますね」
「そうなんだよ! がっかりして帰ったら起きて部屋の掃除してくれてたんだ」
それは自分の血を舐め取ってたとか、散らばった肉片を食ってたとかそういう話だろうか。ともかく、彼女は運良く(?)ネクロソーマの保持するウイルスに感染し、ゾンビになってしまったらしいということだった。
会話の合間も、ルーシィは身体をゆすってはホロコーストに噛みついたり、呻きながらNNをにらんだりしていたが、彼はそのいずれも気にとめていないふうである。血のにじんだ袖をふりながら「で、話戻んだけどよ」
「知りませんよ。探偵に聞けと言いましたが」
「そうだっけ?」
ふう、と大げさに息を吐いて肩を落とす。普段ならここでピストルが出てきそうなものだが、上機嫌な彼はむしろ彼女が釈然としない顔つきでいるのが面白いらしかった。
「じゃあいいや。悪かったな探偵とのデート邪魔して」
「あ?」
身を翻して軽やかに歩き去る友人と入れ違いに、背中に嫌な気配を感じる。
「どうしたの~、こんなとこでぼーっとして?」
歩き出すより幾分早く声をかけられると、NNは心底嫌そうな顔のままでそいつのほうを振り返った。
「……別に」
「ゾンビって、自分のこととか今の状況とか判るもんなんですか」
物騒なフォークロアの出所を突き止め、掃除の終わった現場にそのまま腰をおろして煙草を取り出す。NNは探偵の視線に気がつくと盛大に舌打ちして箱ごと投げ渡すことにした。どうせ残っているのは二三本だ。
仕事が自分の気に入る内容であるときは、この助手はいくらか機嫌がいい。代わりに、ニルギリはやや気落ちしていることが多いのだが。
鉄骨をあらわにそびえるコンクリ壁――今は見るも無惨な残骸だが――の背景を、煙がまばらに覆っていく。
「さあねー。どうしてそんなこと気になるの?」
「……いいえ」
思いつきだとばかりに言葉を濁したが、彼女が理由もなく質問などしないことは彼もよく知っている。
NNは案の定、自分の視界にだけ展開したニルギリの伝手を眺めていた。今回の仕事に使ったぶん、以前の仕事に使ったぶんをリストアップして自分用にまとめ直したものだった。彼の知り合いになら、ゾンビの扱いに詳しいものもいそうなものだが。
ロクロー・レイモンドの名前をスルーしてしばらくそれらを吟味した末、
「なんで人間の死体を手に入れる伝手をこんなに持ってるんです?」
「――知りたい?」
「いいえ」
即答だった。
***
ルーシィが一人で通行人に近寄るのを見たのは、そこからさらに数日後の深夜だった。回り道で帰るつもりだったNNはぎょっとしてそこに割り入ると、やや乱暴に彼女をそこから引き離した。ゆらゆらしている頭に狙いをさだめて、ライフルの引き金に指をかける。
襲われるところだった初老の女が、悲鳴も上げられないような有様で逃げていくのを見送る。ほっと溜息をついて、銃を下ろす。自分の手が震えていたらしいことに気がついて、NNはじわりと嫌な気分になった。ゾンビを駆除するのに罪悪感を覚えるなんて、ばかげている。
「ルーシィ」
声をかけてみても、当然反応はない。突き飛ばされたまま、水たまりの中に座り込んで波の立つ水面を見下ろしていた。何時間この小雨の中を歩いていたのか、髪も服もすっかり水を吸っているようだが、顔をあげさせてみると人を食った形跡はない。
綺麗にルージュを引かれたままの口元がきりきりとゆがんでは、曰く言いがたい音ばかりはきだしていた。
「ホロコ――彼氏はどうしたんです?」
「あ……ぅう」
返ってくるのは、喉の奥ですり潰したような呻き声ばかりだ。かと思えば、歯をむき出しに飛びかかってくるのを抑えつける。
連絡を受け取って、迎えにきたホロコーストへ彼女を押しつける。心配げにしていた彼をしかり飛ばすと、少しくらいは申し訳なさそうな顔で頭をかいた。
「悪かったよ。さすがにもう会えなくなるかと思った」
ぐるぐるうなりながらなおも食いつこうとするルーシィの頭を抑えつつ、ホロコーストは肩を落としてみせた。
「よく撃たずにいられたよな助手ちゃんも」
「人を襲っていませんでしたから」
「やっさしー」
もやもやしているのはNN一人のようだった。
ルーシィは大事にされているようで、いつ会っても肌が青く見えない程度の化粧をしている。頭の皮膚ごと剥がれたところを除けば、髪も手入れされているふうであった。
ニルギリも気づいているのか、ひとまず連れてこられたルーシィとホロコーストのためにタオルは一枚ずつ用意した。
ホロコーストにいわく、よく迷子になる、のだという。迷子もなにもゾンビなんてそんなもんじゃなかろうか、という彼女の考えも知らぬ顔で。ニルギリなどは「迷子のたびに依頼してくれれば探すよ」などと優しい顔でろくでもない提案をしている。
「馬鹿なこと言わないでください。発信器くらいあるでしょう」
「あるよ? 使う?」
「お、準備いいじゃねえか探偵~!」
「まあ、盗聴機とか発信器は古き良き七つ道具のひとつだよね!」
おだてられて悪い気のしない探偵とホロコーストが盛り上がっている間に、NNは重たげにソファから腰を上げる。
「ルーシィの服を洗うついでにシャワールームに放り込んでおきますが、かまいませんか」
「いいよ~」
「人の女だぞ、大事に扱えよ」
「あなたほど手ひどいことはしませんよ」
口の減らない女だな! と声を荒げるホロコーストをなだめるニルギリの声をバックに、フリーザーから出しっ放しのブロック肉をかじっているルーシィの腕を引く。なかば引きずるようにシャワールームへ連れて行き、濡れて身体にぴったりと張り付いた服を剥がして脱がすのにも抵抗らしい抵抗はなかった。
腐臭はホロコーストと同じにおいで消されているようだった。近いほどむせるようなミントのにおい。思わず鼻頭に皺をよせて、NNは一瞬息を止めた。しばらくはなにごとか話し声が聞こえていたが、彼女がルーシィを浴槽に放り込んでシャワーの準備を済ませると、扉の前にどかりと腰を下ろす音がする。
「どうしました」
「入っていい?」
「別にかまいませんが」
「恥じらいとかねえの?」
「なんですかそれは」
一瞬の沈黙のあとで、ホロコーストは結局そこに落ち着くことにしたらしかった。
「探偵はお買い物だとよ。混んでんな~、道。しばらく戻ってこないんじゃねえ?」
「そうですか。しっかりお留守番していてくださいね」
浴槽の中でもだもだしているルーシィは、シャワーから冷水を引っかけられると一瞬すくんだように動きを止めて首を振った。左腕を噛ませておいて、NNは淡々と作業をつづけた。
「珍しいですね」
「あ?」
口をついて出た。独り言のつもりだったが、ホロコーストは耳ざとくそれを拾ったらしかった。
「相手が死んだらそれまでなのかと」
「死んじまったら、それまでだろ」
なにを当たり前のことを言い出すんだ。そんなニュアンスを受け取ってむっとする彼女の顔など見えるわけもなく。
そういえば、この間ルーシィを食い殺してきた彼をシャワールームに放り込んだときと逆の位置だ。
「どんなイイ女も、好きな女も、トモダチも、俺をさしおいて生きてやがる。どいつもこいつも俺の隣でヘラヘラ生きて楽しそうにしてやがるんだ」
「それが許せなくて殺すのでしょう」
「そうだよ。ぶっ殺してやるんだ。生きようとしてるあいつらはカワイイぜ。俺のこと愛してるって言った口でののしってくるんだ。バケモノとか、人殺しとか。なあ、俺のことそんなふうに思ってたのかよ?
フツーはな。死んじまったら全部終わんだよ」
NNは義手にかじりついてもがもが言うルーシィの背中を洗い終えると手を止めて、顔に跳ねた体液をぬぐった。
「……渋滞してますね」
「今日雨ヒデェもんな」
そうしてシャワールームにルーシィを押し込んだままで、二人がゲームに興じているところへチャイムの音がなる。
ちょうど逆転勝ちを控えていた(本人談)手札をテーブルに投げだし、ホロコーストは唇をとがらせて玄関へ視線を投げた。
「空気読まねえ客だな」
「あの探偵にしてこの客ありってことでしょう」
「助手は?」
「死にたくなかったらシャワールームで彼女のお守りでもしててください」
さわぎかけたホロコーストの懐に手を突っ込んで引き金を引く。心臓を撃ち抜かれてぐったりともたれかかる身体をシャワールームに放り込み、外したサイレンサーをソファへ投げる。
玄関から招き入れた婦人は、横幅にくらべてずいぶんと背丈が小さく見えた。
「あの。こちらは……人捜しもしていただけるのかしら?」
「さあ。内容によりますが」
丸い顔に埋まった小さな目が、不安げにNNを見上げていた。寒そうに縮こまった彼女は、中で話を聞くと、おずおずと切り出した。
「娘が……帰ってこないの」
一瞬、NNはシャワールームへ視線を走らせた。どうやらまだホロコーストは起きていない。起きてもしばらくはルーシィが面倒をみてくれることだろう。
「ええと、半月くらい前かしら。ちょうど、あたしの誕生日前でね、プレゼント楽しみにしててって言ってたのね。あ、この話は関係ないかしら。
とにかく、そのくらいから帰ってこないのよ」
「失踪するような素振りや、犯罪に巻き込まれそうな様子はありませんでしたか?」
「ええ。特に。お仕事で二日三日空けることはしょっちゅうでしたけど、かならず家に帰ってきてくれましたもの」
「同居でしたか」
ええ、とうなずく。それじゃあほんとに顔写真から脚で稼ぐ人捜しになってしまうわけだ。聞くだけ聞いて探偵に押しつけるか、とうなずいたNNに、婦人は娘の写真を差し出す。わざわざプリントアウトしてあるのは、ニルギリの懐古趣味を耳に挟んだかららしい。
「……そうですね。善処しますが」
それを手にとって、NNは目を細めた。
「半月も経っているのであれば、本当に行方を突き止める程度しかお力になれないかもしれませんね」
婦人は、「それでかまわないわ」と頭まで下げて、事務所を後にした。
NNは、彼女が玄関扉の向こうへ消えると、憤懣やるかたない思いで自分の上着のポケットに写真をすべてねじ込んだ。依頼ごと握りつぶすことに決めた。
久しく目にしていないルーシィの笑顔が、分厚いコートの内側に消えた。
ルーシィはたびたび迷子になった。そのたびにニルギリなりNNなりが捕まえに行く。たいていはホロコーストが仕事の間にふらりと家から出ているのだった。アパートといっても、彼はすぐ鍵をかけわすれるのである。
ルーシィが近づくのがたいてい初老の小柄な女ばかりだと、ニルギリは気がついていた。助手になにか知らないか訊ねると、さあ、とはぐらかす。彼女もまたなにか考えているようだ。その内容を彼に教えてくれたためしがないが、そういうときに限ってたいていは同じ推測をしている。
「彼女、ルーシィだっけ? お母さんの二人暮らしだったって?」
「調べたんですか」
「うん。お母さん、娘さんが帰ってこないと不安じゃないのかな」
「さあ。親子にもいろいろあるでしょう」
「あ、親子といえば君の、」
「彼女ですか」
遮るような強い声であった。NNは彼に一瞥もくれず「さあ、心配はしたかもしれませんね」
そう続けた。
「けれど、この姿を見ても”無事だった”とは思わないでしょう」
自分で言っておきながら、ふと傷ついたような顔をする。おそらく見られたくない顔であろうから、探偵は言及せずそこから目をそらすことにした。
無事ではなくても、行方もどうしているかもわからないんじゃきっと辛いだろう。いつものことだが彼の考えは、彼女とはまったく逆を向いていた。
ルーシィ探しの進捗を訊ねてきた通信に、ニルギリは声を出さず簡単に返信を送った。
「お会いしたいとおっしゃるのでしたら、協力いたしますよ」
***
髪を切りましょうか、と提案したのは、珍しく同じ仕事を片付けた日の終わりがたである。
「髪?」
きょとんと目を見開いたホロコーストを見て、NNは肩を落とした。
「ええ。ルーシィの髪です。手入れはしてるようですが、あのままだと髪の重さに頭皮が負けます」
「おぇっ、グロいな」
「そういうことですが」
「任せるわ」
反応を見るに、本当に気が回っていなかったらしい。いざ髪を切るにあたっては、落ち着きのないルーシィとホロコーストを二人とも抑えておかねばならないのに気がついて辟易した。
「ルーシィがお行儀良くできるように手を握っておいてください。両手で」
「手首細いし片手でよくね? はーん? さては助手ちゃん、途中で俺に撃たれんのが怖いんだな?」
「ええ」
「慎重すぎなとこ嫌いじゃないぜ」
「そういうのはルーシィにどうぞ」
正面から見つめて元気よく愛を語り始めるホロコーストを放って、その豊かなブロンドにハサミを通す。重たい音を立てて落ちる髪の束を見下ろし、荒切りを続け、慣れない手つきで肩の上あたりを目安にそろえていく。ショートのやりかたも一応は調べたが、とても面倒でやる気になれなかったのだった。
一つだけ。
NNは、彼女の髪を切り始めて後悔していた。
ルーシィの、肩口から胸元にかけて大きくえぐれた傷が見えた。おそらく致命傷だったろう、今までは髪で隠れていた跡が目立つようになったのだった。
顔がよく見える、と大喜びし、その傷を見るやいとおしげに唇をよせてその場にやんわり押し倒すホロコーストを眺め、NNは床に勢いよくハサミを突き立てた。
「お邪魔になりそうですね」
「混ざってく?」
「遠慮しておきます」
大股に出て行く彼女は、ありがとな、と軽い調子で背中に投げられた声を扉でやんわりと遮った。
握りしめた手の中で、ルーシィの髪が風になぶられてゆれた。
ルーシィの遺髪を受け取った婦人は、どうしていいかわからない、という顔つきでNNを見上げた。
「はじめにご了承いただいた通りです」
事務的に、彼女はゆっくりと話した。用意した通りに言葉を吐き出すだけ。これでこの仕事は終わるのだから。
彼女に、娘が亡くなっていたことを伝え、その遺体がとても見せるに忍びないものであったと知らせる。ルーシィの母は遺髪を受け取ったあと、何も言葉を返せずにただ肩を落とし、小さな背中をもっと縮こめて、NNの前から立ち去った。
彼女の背中を見送って、ようやく、NNはあの憤懣やるかたない思いの正体に行き当たる。憤懣やるかたない――罪悪感。
どこにもぶつけようがない。誰が一番悪いのかなんて自明である。それなのに、それでも。
***
「おォい。ルーシィ。まーた助手ちゃんに大目玉くらっちまうぞ」
いつものごとく。ホロコーストは発信器の反応をたどってルーシィを捕まえる。うずくまっていた彼女が顔を上げるのを見て「やべっ」と思わなくもなかったが、幸いNNもニルギリもここには来ていない。
ホロコーストは食事について「自分たちの見てないとこでやれ」と受け取っていたし、なんならデートコースには食いかけの死体なんて山ほどあるのだが。
「腹いっぱいになった? 帰ろーぜ」
肩をつかんで揺さぶってみれば、たいていはすぐに立ち上がって彼に手を引かれるようになるが、今日に限っては様子が違う。ルーシィはその死体にとりついたまま何事かずっと呻きつづけていた。
「……で、気に入ってるのはいーんだけどよ。そろそろ部屋が臭くってさ。探偵、なんかいい方法知らない?」
通信を受けて、NNはすぐに事務所を飛び出していた。
ARでそこに突っ立っていたホロコーストは、玄関のほうへ向いて首をかしげる。
「なんだあいつ」
「あ~。たぶんね、君のところに」
「ホロコースト!」
「来たわ」
「行ったね」
***
「ルーシィ、今どこにいるの?」
ママ。ちょっと私、今おかしいみたいなの。
なんか怖い夢見たのは覚えてるんだけど、そっからなんでか目がよく見えないのね。カレ、優しくしてくれるけどたぶんママの誕生日のこと忘れてるわ。私祝ってあげなきゃって言ったのに。
待っててね、帰り道探してるから、今……
「ルーシィ? ルーシィ、どこにいるの? あなた生きてるの?」
声のするほうに歩いて行ったら帰れるかな?
ママ。待っててね、あたしのこと呼んでて。
――ああ! みつけた!
***
「……っ、……っ……」
怒声のあとで、NNは壁に手をついてその場に立ち尽くした。珍しく、息が切れてぜえぜえ言っている。探偵と話しているのか自分に向かって何か言ってるのか、ホロコーストの声も聞こえないほど、排熱孔がフル稼働していた。
さすがに無茶な移動をした自覚はある。
一方で、目はせわしくその室内を見渡し、落胆とともにその姿を視界にとらえた。
小柄な初老の婦人であった。死に際の恐怖にゆがんで顔つきはがらりと変わってしまったが、それは数回見たあの婦人と同じ顔だ。
「ほろ、」
「しっかりしろよ、水かなんかいる?」
「いりません」
ぐらぐらする頭を抱えるようにして、がらがらの喉に唾液を流し込み、深く大きく息を吐いた。ともすれば別のものまで逆流してきそうだった。
「く……っそ」
「あん? なに?」
「この、馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!!」
最後は悲鳴のようだった。
いきなりつかみかかられて正面から罵声を浴びたホロコーストはといえば、その腕を振り払うようにして離れた。
「うるせぇよ、わざわざ喧嘩売りにきたのか?」
勢い振り下ろした拳をNNが掌で受けると、逆の手が拳銃を引き抜く。ライフルで横面を殴られてよろけた彼の額を二発撃って、NNは追撃しようとした腕を押さえ込む。ルーシィが母親の死体を扱いかねてもじもじと手を動かしているのを見ると、銃を握った腕が上げられずに硬直した。
「だいじょうぶ?」
一拍遅れて、ニルギリがNNの後ろから顔を出した。横を通り抜けて、死んでいるホロコーストの脈に触れ、それから母娘のほうへ近づいていく。
「お母さん、この子に連絡しちゃったんだね」
「……は?」
ニルギリは、彼女の電脳にのこった通信の履歴を引き出すと、NNにも見える位置に並べていく。五日前――ニルギリからの通信を受けたあと。それと、三日前、NNから遺髪を受け取ったあとの時間に。ルーシィへ向けた通信が続いている。
「俺を通してくれたらよかったのに」
「何、言ってるんです?」
「一回会ったら、悲しくても納得できるんじゃないかなって」
「何を言ってるんです?」
「だから――そういうの君の悪いとこだと思うけど?」
言い終わる前に、彼の頭ははじけ飛んだ。再生しかかる首元を踏みつぶし、NNの靴裏は頸椎をへし折る。
左腕の銃口をルーシィに向け、それから背後で起き上がる気配に気づいて肩越しに振り返る。
「で?」
「生きた人を食わせたのなら、それはクリーチャーとして処理すべきです。あなたの恋人ではなく」
***
以下の流れは語るに及ばない。
いつもと違うことといえば、掴みかかってきたホロコーストをあえて撃たず、いくらか銃弾を貰いながら素手で殴り殺したことくらいだった。激しく損傷を被った義体はニルギリが回収してラファイエットの診療所に運んだのだった。
「不幸なすれ違いだったね」
という言葉が逆鱗に触れたものの、ベッドで暴れれば後が怖い。NNは顔をゆがめて排熱孔を酷使するにまかせ、右腕で顔を覆った。
狭いテーブルに肘をついて、ニルギリはふと、彼女を見下ろす。
「どうして、あの死体がルーシィのお母さんだって言わなかったの?」
NNは、拳を握りしめたまましばらく黙っていた。
憤懣のやるかたもなく、罪悪感の落としどころももはや亡い。誰が悪いかと言われたら、ルーシィを殺したホロコーストに決まっている。
それでも。
「自分の恋人が親を食い殺したなんて知ったら、彼は傷つくでしょう」
あんなに幸せそうに笑っていたのに。
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