シャンペン・ポルカ
仮眠室から出てまず感じたのが「ばつがわるい」ということだった。NNは彼(というのか彼女というのか)の細い腕がなにやら買い込んできたらしい袋をダイニングテーブルに置きながらニルギリと談笑しているところにちょうど鉢合わせる形になったのだった。
「あ、おはよう~」
「おはようございます」
二人は彼女の苦々しい内心を知っているんだか、いや知らないだろう面々に笑顔で朝の挨拶を向ける。
シレーナが「ちょうど、いいお茶を貰ったんです」と缶を持ってカウンターの向こうへ行くのを眺めやるNNの表情はいっそう曇る。探偵とちがって自分が食事を厭うのをなんとなく察しているらしい、とわかったからであった。
「シレーナはどうしてこちらに?」
「君が帰らないから寂しいんでしょ」
「……」
じっとりとねめつける視線を受け流して「冗談だよ~」と笑う。
「ちょっとお使いを頼みたくて。君も一緒に行ってくれるでしょ?」
シレーナの淹れた紅茶をちまちま飲むNNの口元がへの字にまがった。
「上流の用事なら彼ひとりで十分でしょう」
「でも、一週間帰らなかったんでしょう?」
軽そうなコートを羽織って出かける準備をするシレーナの背中を眺めて、助手はいっそう苦々しい表情をする。ニルギリはそれをのぞきこんで「行っておいでよ~」と目を細めた。
「大したおつかいじゃないからさ」
***
……と、送り出されたのが小一時間前だ。
NNは単分子ワイヤーにちくちく締め上げられた腕を背もたれにひっかけたまま、苛々とロビーを見渡した。仮にも後頭部に銃口がつきつけられているので移動するのは視線ばかりだが。善良な市民の皆様は同じように長いすに座ったまま動かないよう脅されていたり地面に転がされていたり様々だ。質量の有無やフィルタの種類を問わず、すべてのARが取り払われた視野はびっくりするほどシンプルで、何重にもフィルターをかけてようやく平静を保っている彼女にしてみたら不愉快きわまりないものであった。
因果歪曲による空間の断絶を感じたが、それによるものだろうか。はっきりとそれ、とはいえないがそういう使い方もあるはずだ。義体とそれに付随する能力の使い方に長けたフルボーグであれば。もっとも、それをできるようなフルボーグがこの強盗の中に混ざっているようには見えない。
隣でシレーナがしゅんと肩を落とす。
どうやら再三の努力もむなしく、ニルギリへ連絡することはできなかったらしい。通信も断絶されているとみるのが妥当だ。高い位置でくくっていた髪が、うなだれる彼の両肩を流れおちる。
それにしたってシレーナもシレーナだ、とNNは思う。
なにをこんな、世界の終わりみたいな顔をしているんだろう。
「あ、あの」
「動かない方がいいですよ」
顔を上げた彼の言葉を、NNはにべもなく遮った。
拘束自体は自分から腕をなます切りに抜け出してOVDで再生してしまえるのだから大した問題じゃないが、大勢を守りながら大立ち回りは正直彼女の専門外だ。やりたいようにやらせて逃げるところを殴り倒したほうがいい。
なにか焦りを隠せない様子の彼にちらと視線をくれて、それから静まりかえった室内に耳をすます。
にわかに奥のほうが騒がしくなり、ドタバタと強盗たちが駆けだしてきたのが少し後のことだ。なにやらぎゃあぎゃあ騒ぐことには「なかった」「すでに」「空」だという。自分たちでも通信はできなくなっていたらしい。徹底しているというかただの馬鹿だったのかもしれない。ややあって騒ぎ始める行員たちを押しのけて、とにかく逃げるはこびになったらしい男たちがばたばたとその場を裏口へ向かって走り出したので、NNは拘束を解くなりそいつらを追った。
空間の制約をうけないのが完全義体のいいところだ。機動力と人は言うが相手との物理的な距離を折りたたむ能力、つまるところ――
一人が向けた銃に目をつけ、床を蹴る。次の瞬間には銃身をつかんで相手の顎を強か殴って胴を蹴りやる。裏口の扉に手をかけたものを見るや再び駆け、その腕を蹴り折って体ごと廊下の内側へ投げやる。つまらない、としかめっ面にでかでかと書いてあったにちがいない。
狭い一本道の通路で、彼女が獲物を捕らえられない道理がなく。
通信とARの機能が回復したとみるや行員か客が連絡をいれたらしく、警官が駆け込んでくるのに時間はいらなかった。
「なにをそう落ち込んでいるんです?」
「落ち込んでなんか……」
銀行を出てから二度目のやりとりであった。ずっと下を向いて、ともすれば泣き出しそうな顔をされているとNNにもどうしようもない。頬を赤く染めてやわらかな外套に身を包んだシレーナは、そうしているとだれもが目をとめる美しい少女であった。
居心地悪く立ち止まった頭上に、鈴の音を強調する軽やかなBGMが白々しくながれていく。
「盗まれたものはどこにいってしまったんでしょう」
「さあ。まだ気にしてるんですか?」
ニルギリに連絡をいれると、彼は特別取られた荷物には触れず、「ふたりが無事でよかったよ! 気をつけて帰っておいで」などとのたまうのだった。
なにか大事なものをそこの大金庫で預かってもらっていたという話だが、それは盗まれた――というより、消えてしまった、という。押し入ってきた強盗は十名だが、その全員をNNはたたきのめして沈めたし、彼らは厳重に身体検査をされたが大金庫にあったはずのものをひとつも所持していなかった。すなわちそこに保管されていた様々の貴重品、および物理貨幣である。その中に、ニルギリの預けていたものもあったのだという。
シレーナはそれを受け取れなかったことを気に病んでいるのだろう。ここまでひどく落ち込むほどとはNNも予想していなかったが。ふいに、その頬に薄く赤い一本線が引かれているのに気づいて、彼女はそれに触れた。ぎくりとシレーナが肩をゆらす。
「な、」
「単分子ワイヤーですか。拘束を解いたとき弾いたんでしょうね、すみません」
「え、あ」
怪我、と自分で頬をおさえて目をおよがせ、彼は大きくかぶりを振ってみせた。耳まで真っ赤に染めて大丈夫です、と消え入りそうな声でようやく言うと、大急ぎで歩き出した。
その進行方向を見とがめて、NNはシレーナの肩をつかむと自分のほうへ引き寄せる。
「寄り道していきましょうか」
「あ、助手ちゃんにシレーナじゃん、探偵見限ってデート?」
彼女がげんなりと顔を上げると、買ったばかりであろうケーキの箱をさげたホロコーストが二人に気づいて大股にこちらへやってくるところであった。目を白黒させるシレーナからNNが手を離すと、入れ違いにホロコーストが小突くようにその頭をひと撫でして笑う。シレーナが前を見ずにあの男にぶつからなかっただけよしとしよう。
「ん、マジで邪魔しちまった? 悪りーな。で、どうだった?」
「あ、まだ……」
なくなっちゃったって、と消え入りそうな声で言うのをぽかんとして聞き、ちょっと視線をさまよわせた後、彼はこともなくシレーナの背中を叩いた。
「そりゃー残念だったな。ま、まだ今日一日あんだし元気出せよ」
NNが大きく溜息してその談笑の様子を眺めていると、寄り道のあと彼をともなって探偵のところでパーティーをするということになったらしかった。
***
市長室にはそうして再び静寂が戻った。捕らえられた強盗は標的をただ大金庫の中身とだけ伝えられていたらしい。いずれにせよ、どこかからありかがばれていたのなら保管場所については改めて考える必要があろう。
強盗たちが通信および電脳に関わるシステムを一時的に無効化するのに乗じて金庫の中をひっくり返し、中身を避難させたが、いちいちそんなまねをするのはこのAIの本意ではない。
市長はその涼やかな視線を机上に向けて、そこに並べた見覚えのない箱についてまた思案を巡らせた。
窓の外には日没をひかえて、街をかざるイルミネーションが主張を始めていた。
***
二人がホロコーストを連れて事務所へ戻ったのは、さらにそこから二三軒の寄り道を終えてすっかり日が傾いたころだ。うるさいくらい飾り立てた室内の様子を見て、シレーナはようやくいつもの元気をとりもどしたようであった。
「面白い事件があったってね」
どこで小耳に挟んだんだか、と見ればニルギリの頭上で丸いドローンがえへんとばかりに胸を張っている。
「ジミーも来たらいいのに~」
「ボクは今じょーほーしゅーしゅーでいそがしいの!」
「そりゃご苦労なことで」
イルミネーションに飾られた街はいよいよ軽やかなBGMで騒がしくなる。そんな喧噪もおおよそ今夜がピークだ。クリスマスというのだったか、NN以外の者にはおおよそ慕わしく映るらしいこの景色だが、彼女にしてみたら安っぽくてあまり好ましいと思えない。昨年さんざんにからかわれたこともそれを助長していた。
そうか、パーティーの準備がしたくてわざわざお使いなんて言って外へ出していたのか、と、遅れて気づくのだった。
「おつかい頼んでたメガバンクに強盗が入ったって? 君が一緒でよかったよ~」
「雑魚ばかりだったからあなたでもよかった」
助手が不機嫌に吐き捨てるのを聞いて、探偵は呆れた様子で肩を落とすのだった。
「強盗? へ~、あそこで?」
割り込んだホロコーストの手がつかみ取る前に、ニルギリが素早くナイフで切り取った七面鳥の足が渡される。文句を言わずそれにかじりついて飲み込んでから、ホロコーストはシレーナを見つめる。相手がうなずくのを見て椅子にかけなおした。
「なんだって銀行なんかに?」
「さあ、大金庫の中身を全部、って言ってました」
言いながらシレーナも首をかしげる。
「わたしたちが預けてるものの他には、物理貨幣ばかりですよね」
「そうだね~。まあ、今回の俺みたく物を預けてる人もいなくはないと思うけど?」
「まれですよ」
「そうだね……あ、もうニュースになってるよ」
電子決済が主なこのご時世に、わざわざ物理貨幣なんか強盗してどうするんだか。おおよそ全員が考えたであろう疑問を、ニュースのキャスターのほうでも口にしているのがおかしかった。
「貨幣自体にそんなに価値があるんですか?」
「どうかな~。あるといえばある、ないといえばないかな」
ニュースをそこに映したままでサラダとスープを全員の前に配り、不愉快げな視線を向ける助手に気づいたニルギリは笑って椅子へ促した。
「物理貨幣にしても電子通貨にしても、それ自体に価値があるという認識にこそ価値があるものでしょう。価値があるという認識を担保するのが、電子通貨の単位数や物理貨幣の質量になるわけだ」
もしかして、経済とかもここと故郷じゃ全然違う? と遠慮がちに訊かれて、NNはかぶりをふった。第一そういう話はしていない。
サラダを無視してタマネギのポタージュスープを飲み干したホロコーストが思い出したふうに口を挟んだ。
「ノーフェイスの奴が、AI市長のスゴイブラックボックスが保管されてるみてーなこと言ってたしソレじゃね?」
「ああ、大金庫の中のもの全部ってつまり、何を狙ったかわからない=現金を狙ったって思わせ……えっ」
「その割に、何も取っていかなかったみたいだけど」
ニルギリの言に、NNは「なかったと言ってましたよ」こともなげにサラダをつついていた手を止めてテーブルに肘をついた。あたふたと左右を見るシレーナだが、別になにも重大なことを聞いたわけではないと思い至ってしゅんと肩を落とす。
「なかったって?」
「ええ。大金庫は空だったと」
興が乗ったらしいニルギリは自分も席について、食事をするかたわらそれについて調べることにした。
「あ、ほんとだ。おもしろいね~これ。君、ほかにはなにも聞いてない?」
「別に。ARと通信が遮断された方法についてはどうなってます?」
「それについては数日かけてけっこう堅実に工作して、せーので十分くらい全部落ちるようにしてたみたいだね~。工作した人たちも捕まったってさ」
「そうですか。忌々しいな」
「てか助手ちゃんの不機嫌顔それのせいかよウケるわ」
「いい度胸ですね表に出ろ」
「後でやってね、後で。シレーナが怖がるでしょ」
二人をなだめるように笑って、ニルギリは室内を見回した。先まで会話を聞いていたドローンが沈黙しているのを見て目を細め、一瞬七面鳥を切り分ける手を止めた。
「本命はそのブラックボックスかもしれないけど。案外それ自体ARにしか映らないデコイだったとか?」
「ARのレイヤーを取り払ったら、その上に置いてあるものも一緒に消えてしまう……でも、大金庫すべてが空だったんでしょう」
シレーナの言葉に、探偵はこともなくうなずいた。
「行員の人たちも、大分パニックになったみたいだね。特に上層部ですごくいろいろあったみたい」
現在進行形で調べ物しながらよくぞここまでぺらぺら喋れるものだ。NNは呆れた顔でようやく前菜を空にしたところであった。
「蒸し返すようでなんだけど、物理貨幣も案外上層では流通してるみたいなんだよね~。希少価値、っていうのかな?
つまりそれが『ある』っていう情報自体に価値があって、翻って物理貨幣に通貨としての価値があるっていうことだね」
「ナゾナゾみてーなこと言うよな。頭痛くなってこねえ? つーかそれ、逆にいっそ物理貨幣なんて存在しません! ってほうが説得力あるよな」
「そういう前提で考えたらおもしろいかもね~。どっちにしろあの銀行、物理貨幣は保管してないから」
働いてた人がそのこと知ってたかは知らないけどね、とニルギリの言に「ええ! じゃ銀行強盗自体茶番じゃん!」と声を上げたのはジミーの寄越したドローンであった。
「放っとこ!」
「ジミーはあとで事務所に来なさい」
「やだあ! 探偵ボクのこと怒る気だろ! ボクじゃないもん!」ちょっと情報は流したけど、と小声で続けたりするからお前は小悪党なんだ、というツッコミをあえて胸の内にしまって、NNはニルギリの並べた関係者の証言一覧を眺める。おそらくは彼なりに、消えたという預け物の行方が気になっているのだろう、と察しをつけていた。
「そういえば、気になったことがあります」
「なに?」
「強盗は下準備と工作をしっかりと行い、以て通信および拡張現実の機能を落としたと」
「間違いなくそう書いてるね~。違ったの?」
NNは言葉に迷い、それから「空間自体に断絶があったように感じました。一瞬ですがどこかがゆがんだ」
「ふうん。強盗の中にフルボーグとかデイブレイカー、いたっけ?」
「いれば楽しかったでしょうね」
シレーナとホロコーストが顔を見合わすのを見て、彼女は肩を落とす。
「フルボーグは特性上、その空間自体にいくらか干渉することができます。光の屈折率とか、距離とか。……ああ」
それで、と思いついた様子で手元を見ると、ようやく自分用に取り分けられたものに気づいてちょっと気分悪そうに顔をしかめる。
「因果歪曲はその物理干渉を瞬間的に強くするものです。疲れるので自分では戦闘にしか使いませんが」
「疲れるものを戦闘に使うの生粋の馬鹿かよ」
「実演してやろうか馬鹿」
シレーナを挟んでいなければいよいよ殴り合いが始まりそうな空気の中を、気の抜けたチャイムの音が通り過ぎる。
はーい、とこれもまた緩んだ空気にとどめを刺すゆるゆるした返答とともにニルギリが席をはずすと、身を乗り出していた二人はシレーナの両側でがっくりと背もたれによりかかった。真ん中でほっと胸をなで下ろしているシレーナを、カウンターに駆け込んだニルギリが手招きしていた。
NNの目がそれを追った先で、ニルギリとなにやら二三言葉をかわし、シレーナはほころぶような笑みを浮かべた。
何かの包みを大事そうに抱えて仮眠室のほうへ小走りに向かうシレーナを見送り、改めて出てくるニルギリの手には、細長い木箱がある。
「ちょうど答え合わせができるね~」
などと笑顔で高級そうな包みを剥がし、シャンパンの瓶を置いた。上機嫌にグラスを取りに行こうとする背中に助手が「どなたからだったんです?」と声をかけると、彼はいかにも愉快げに
「市長さんから!」
などとふざけた返答を投げ返したのだった。
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