Sympathy for the Table


 久々に家族と囲む食卓の雰囲気は明るかった。私が兄を殺せたことを、両親はたいそう喜んだのだった。何年もかけて追いつき、何年も敵対してやっと越えた憧れのことを、自分もまた妙な虚脱感と悲しみと、喜びとともに思い返す。
「これからどうする?」
「変わりませんよ」
 テーブルに肘をついた父の手が、フォークで皿を寄せた。
「まだ悲しんだりしていてもいいと思うがね」
「兄さんのことを悲しんでいたら」
 いましもずきずきと胸を刺す痛みから目をそらしながら、私はその時のことを思い返す。思い返そうとする。
「立ち直れなくなりそうで」
 なぜだか。
 その瞬間だけが思い出せない。
「おまえらしいな」
 見知らぬ姿のままで父が微笑した。見慣れぬ気味の悪い容貌。
 フォークの先が皿の上のものに触れる。思い返したように、それを見下ろす。ぴくりと真っ白な肉が震え、皿からはみ出した尾が弱々しく跳ねるのを見て、

   ***

 体を跳ね起こした。
 NNは取るものも取らず仮眠室を飛び出し、シャワールームへ駆け込むと胃の中に残っていたものをすべて吐き出す。なお収まらない吐き気にえづいて、冷たい汗をぬぐう。
 出すものがなくなっても、胸の内の不快感がおさまらない。
「……ッ」
 食いしばった歯ががちがち鳴らなくなると、ようやく全身から力をぬいて壁に肩をもたせかけた。
「大丈夫?」
 心配げな声が外から聞こえると、ようやくわれに返って深呼吸を二三度繰り返す。
「だいじょうぶです」
 悪夢をみた理由はわかりきっている。

 近頃ニルギリが彼女を外食へ誘うようになったのは、単にその仕事のためだ。ストリートに蔓延しつつある厄介な病気の出所を突き止めてくれというのである。
 もともとニルギリだけが受けた仕事だが、せっかく毎日のように殺しに通ってくるのだから失敗したならついでに食事に付き合え、そういう理屈で嫌がる助手を片端からレストランやら喫茶店に連れ回している。探偵としてみれば、この食事嫌いが少しでも健康的な食事をする機会になれば、別に建前は何でもいいのだった。
 とはいえ、近頃毎朝のようにああして吐き上げているのもまた目に余る。
 壁に背中をもたせかけたまま、ニルギリは腕組みで溜息した。
「難しいよね~」
「気の毒な話だが」
 ノーフェイスは報酬の振り込みを確認してから古い情報を詰め合わせた圧縮データを投げ渡す。ニルギリのほうをちらと眺め「あの拒食傾向は探偵では治せんだろうな」
「む、なにその自信?」
「自信じゃなく事実だ。だいたい何が好きかも知らないんだろう?」
 好物か、と真剣な顔でつぶやく彼に一つ手を振って、ノーフェイスは姿を消した。あ、とニルギリが顔を上げたときには、彼の立っていた気配さえすでになくなっている。
 NNが着替えて出てくると、解凍したファイルをすべてしまい込んで壁から背中を離した。
「行こうか~。先週と同じとこだけどいい?」
「別に」
 一瞬彼に向けた視線を、NNはすぐにそらした。何事もない様子で大股にその隣を抜けて歩き出す。急ぎ足の彼女を追って歩く彼の顔がほころんでいるのに、前を見るのに忙しい彼女は気づかない。
 好物といえば、それらしいものにあたりをつけているのだった。

 先週と変わらず客の少ない店内で、窓際の席を選んでニルギリが手招きする。テーブルの数自体そう多くない。”アンブロシア”は知る人ぞ知るというような類いの会員制レストランで、昔からそう客は多くないのだという。そのわりに常連の入れ替わりが激しいんだって、とささやくような男の言葉を聞かぬ振りで、NNは雨のハインライン川を眺めていた。絶えずさざめく水面に、今日は多少澄んだ空気の上から高架橋が一文字にその影を投げかける。
 スモッグでしらじらとした夜空と対照的に、川辺はいつも黒々とした水の上にどこからか光を浮かべている。
 立地は悪くなかった。ストリートにあるわりにそこそこ見栄えがいいと思えるのには、この窓からの景観も一役買っているのだろう。
 もっとも、他のテーブルを見ればなんだか妙な緊張感があって、外を見るどころでもなさそうだ。ニルギリの評価としては多少味付けが濃いことをのぞけば、身構えるほどの味でもなければ、中毒性のあるような料理でもないはずだが。
「ここは料理から接客からぜんぶオーナーひとりでしてるんだってね~」
「そうですか」
「興味なかった?」
「あなたがまだ動いてるからここにいるのであって」
 溜息交じりのいらえは剣呑なものだった。
「あなたの仕事に興味はありません」
「そう?」
 肩を落とす。ニルギリもその切り返し自体は想定していたものらしく、それ以上何か言う素振りはなかった。
 向かい合った席で、自分の倍ほどの時間を費やしてコース料理を平らげる姿を満足げに眺めている。珍しく顔色は穏やかなまま――これがいつもであれば、平らげるころには真っ白な顔で細かく脂汗さえ浮かべているところだ。
「ここの料理は好き?」
「別に……なんですか」
「ううん。君が食後に疲れてないの珍しいな~って?」
 外部から言葉にされて初めて、はたとその顔が上がる。NNは少し考えて、「そうですね」と短い返事を残して席を立った。

 食べる間が苦痛でなくても、その後は話が別だ。胃が重いと悪夢を見る。
 食後の散歩がてらにメンテナンスのため向かったラファイエットの診療所で、先客の用が済むのを待つ。視覚を落として長いすの上に腕組みしていたNNの肩を誰かつついたらしい。瞬きの後でジミーの顔が見えると、不機嫌に口元がゆがんだ。
「うわっ、怖ぁ。なんだよ起こしてやったのに~」
「余計なお世話です」
 唇をとがらせて腕の中のものを抱きしめるようなポーズで離れた彼女を横目に、腰を上げる。安いスプリングが今にも折れそうな音をたてた。
「ジミー? また余計なことに首を突っ込んでいませんね」
「助手の前じゃ怖くてできませーん。やってても言わねーし。資料もらいに来ただけだしー」
 腕の中のケースはホルマリン漬けの臓器であるらしく。人間の脳だろうか、その割に……。
「見る?」
「結構です」
 NNが手で払う仕草をすると、むーっといかにもガキくさい不満の声をあげ、頬を膨らませてみせる。NNにしてみれば、そのぼこぼこ穴の空いた気味の悪いものを掲げて見せる気なら、貰ったケースごと台無しにしてやるつもりであった。
「最近ちょっと騒ぎになってんだ、食人病? っていうの?」
「へえ。ゾンビですか」
「ばーか、食べられるんじゃなくて食べてなるほう! あ、フルボーグだって他人事じゃないよ、脳がスポンジになっちゃうんだから」
「見せなくていいです。見せるな」
 差しだそうとした腕ごと蓋を抑えつけながら聞いたところによると、近頃食人による発症率の高い病気がストリートでちょくちょく見られるのだという。異常プリオンがどうこうして脳をスポンジ状にして死に至らしめる、とその場で検索した情報だけでげんなりして手を離す。
「それで……」
 ジミーが関わっているということは。
 その調査のために外食を?
 思い至った可能性に煮えくりかえりそうになった頭に、奥から水差しをぶん投げたのはラファイエットであった。右手でキャッチしたものの、反動でほんの少し中身がこぼれてしまう。頭をぶんぶん振って水を払い、水差しを置いたNNの手元を眺めて、ラファイエットは反射の項目になにか書き足したようだった。
「あんたは組成から違うからね。感染したってアプローチは違うだろうさ」
「患者がそれで安心すると思います?」
「いいや。安心しなくていいからここで暴れんなってことだ」
 とことこ出て行くジミーの背中をじっとりにらんだ後で、言いさした言葉を飲み込んで座り直す。うなだれたNNの頭に乗せた手が、やや強引に上を向かせて見下ろした。
「どうせ死んだらお前の体は私のものだ。せいぜいおもしろい死に方をしてみせろ」

   ***

 その出所にはあたりをつけている。とはいえ、そのまま彼を市長に突き出したところでいいことはない。少なくとも――「あんまり幸せな終わりかたにはならないでしょう?」
 ジミーに仕入れを頼んだものはほとんど手に入らなかった。施術したあとの体をそれはそれとしてほしがる患者なんて割といるわけだし、医者もその患者に関しては気味悪くて、持って帰ってくれるなら万々歳という気持ちだったという。彼女の持ち帰ってきたカルテのデータと、機械化のため抜き出された映像記録のコピーを眺める目が細められる。
 病気を治すことが目的ではなかった。それ以外の事情は、もっと背景や、レストランの調理場を見てみないことにはわからないが。
 ジミーはお使いの報酬に出されたソーダフロートとプリンアラモードをつつきながら首をかしげている。彼女もまた、円満に解決するという彼の理想をあまり理解はしていない。それがどうしても謎解きに必要だというなら方法を考えるのもやぶさかではないのだろうけど。男は、きょとんとした顔に気づいて苦笑いする。
「手放しに解決を喜びたいんだよ」
「解決したら手放しに喜べるってことじゃないの?」
「うーん、そうだな~」
 言いあぐねて腕組みのまま言葉を濁す。その葛藤を知ってか知らずか、そういえば、と言葉を次いだのはジミーのほうであった。
「あの助手、一人でもときどきアンブロシアに行ってるよね。やっぱそういうの、カンってやつ? 元警察とか言ってたし」
「ん。それはね~、たぶん違うと思うな」
 荒々しい足音に会話は中断される。来た来た、と笑顔のニルギリは「早く食べたほうがいいよ~」とジミーのフードをつかんで目隠しのようにずり下げる。
「え、ちょっとぉ」
 ぱっと頭が軽くなる、ジミーが顔を上げると、探偵は助手に首を捕まれてつま先立ちしていた。
 NNは少女に気がつくなり盛大に舌打ちをしてその手に力を込める。
「早く食べてしまったほうがいいですよ」
「あれ、今日は優しいね?」
 答えず、彼女はニルギリを引きずるように仮眠室へ投げ込み、扉を閉めると後ろ手に施錠しつつその背骨を踏み折った。外へ音をもらさないことをなけなしの理性で意識しながら、馬乗りにその両手で頭を掴み、相手の目を抉る。
「……ッ」
 声を飲み込んで身じろぐ彼の頭の奥まで両手の親指が沈み込み、掌は血でずるりとその横面を滑る。頭蓋骨を割る鈍い音と衝撃を掌に受けてなおその手を離すことはしない。
「方法が、変わった……ね」
「不可抗力です。銃はうるさい」
 深く沈んだ親指が脳を抉る、ニルギリは泥をこねるような音にぞくぞくと細い体を震わせて、
「ふ」
 笑い声ともつかないかすかな声が上がる。NNは湿った音に顔をしかめながら、左手を顔から退かした。その胸の上に置き直し、右の指はさらに深く眼窩を抉る。
 片腕で口を覆う男の目元が笑った。
「おこって、る」
「いつものことですよ」
「仕事、の、こと」
 胸骨が軋む音に、ニルギリは息を詰まらせる。再生した右目が、冷静な声と裏腹に怒りにゆがんだ彼女の顔を映す。
「話が早いですね」
 ささやきあうような声の合間に胸の骨を砕き、その内側を押しつぶそうと拳を押し当てる。肺の奥から、空気と一緒に暗い血がはき出された。
「今度は何に付き合わされたのか、当事者としてお聞きする権利があると思いまして」
 もっとも、これで苦しんで死んでくれるのならそれでも一向かまわないが。相手の口元が半円につり上がるのを見て、助手の手は彼の胸ごと心臓を押しつぶした。

 市長からエージェントを通した依頼は、古くはプリオン病と呼ばれたそれの出所を調査することだ。ストリートだけならまだしも、近頃は中流のほうでも罹患者が見つかったという。経口感染が主だということなので実際に食べて見つけるほうが早いということだった。だから、ネクロソーマであるニルギリへの依頼なのだった。
 きょうびそんなに熱心に共食いなぞする人間はいない。少なくとも合成食料のほうがもっと美味いというのが定説だ。ネクロソーマやゾンビがそんな病気に罹るわけもなく。
「だとしたら罹患者の――そう、主に脳とかを、食材に混ぜ込んで食べさせてる手合いがいるんじゃないかって?」
 NNはそれを聞くなり眉間に深く皺をよせた。ジミーの抱えていたホルマリン漬けを思い返して、食事の前だというのにすでに吐きたくなっていた。
 もちろん自分一人でアリエスのすべてのレストランを食べ歩きして確かめるなんて無謀である。ニルギリはアリエスに存在する料理人および食肉の卸業者、それに類する職種をピックアップしてリスト化し、丁寧にその経歴を調べる傍ら罹患者の訪れたことのあるレストランやカフェ、購入した食材についても並列してリストの整理をすることにした。
「結果、一番罹患者と関わりの多かったのがこのアンブロシアだった」
 NNの不満げな声にうなずいて、前菜を口に運ぶ。雨はいつもより強く降っていて、今夜は川の上に霧ができていた。
「オーナーの話をしようか?」
 ARの視界に、ノーフェイスから仕入れたデータを並べる。十数年も前の古いニュースだ。
 凄惨な一家虐殺事件である。当時十八だったオーナーを残して、その家族がすべてゾンビに食い荒らされた。発見されたとき、オーナーはショットガンを抱えてゾンビの残骸と、頭のつぶれた家族の死体の前で震えていたという。
「若干の錯乱が見られた、って書いてあるね。ゾンビを殺してしまっても、家族がゾンビになって起き上がるのが怖かったから頭を撃ったって」
 そのご時世にはよくあることでもあった。死人戦争からこちら、突然ゾンビがわくなんてことはよくあることだ。
「だから――」
「その家族の死体が死後半日経過したものであっても、誰も疑問を持たなかったとでも?」
「話が早いね」
 これ見よがしの舌打ちに笑って返し、検死の報告を出して助手のほうへ押しやる。
 そのときの監察医が不真面目な奴だったのか、実際そういった事例が多々あったために見逃されたのかは定かではない。
 現場から見つかった死体の頭の部分は、どこにも見つからなかった。
 こう表記しては誤解をまねく、正確にいえば、頭の部分にあたる質量が、その家の中のどこにも――ゾンビの腹の中からも、見つからなかったのである。
「それを」
 スープをかきまぜる手が止まる。NNはちらと手元を眺めて、何事もなかったように食事を再開した。
「本人の聞いているかもしれない場所で言うんですか」
「本人が聞いてるかもしれない場所だから、言うんだよ」
 上唇を舐める。ニルギリの笑みから目をそらして、彼女の手はパンを千切る。運ばれてきた皿が置かれるのを眺め。
 図星であれば。
 彼の皿には、その悪意がたっぷりと盛られているのだろうな。他人事のように、スポンジのような感触を奥歯ですりつぶした。

   ***

 兄を食べる夢を見る。
 そこに特別感じるおぞましさの半分はこの体に備わった味覚に起因している。この体で食べるものは――この星の生き物としてこの体で食べるこの星のたべものは。
 比較的堅く感じられる、引き締まった肉を噛む。飲み込みやすい大きさにそれを分断することは平たい臼歯によって容易になされる。主眼は厚みのある食材を切断することではなくすり潰すことにある。薄く塩の混ざった水分がつぶれた部分から染み出す。それごと肉を飲み下す。
「おまえならもっとうまくできる、そうだろう」
 見知らぬ顔をした兄の聞き慣れない声が言う。
「こんなにしっかりと教えたんだから」
 この星の生き物としてこの体で食べる、この星の様式に従って調理されたたべもの――たべものとして整えられたもの――は、舌の上からその味をある種の快楽としてごく自然に受け入れられてしまう。
 鱗で舌を切る。鋭い痛みに手が止まった。
 ようやく私はフォークを握る手から力を抜いてそれを投げ捨てることができる。
 甲高い音は、床にたたきつけた金属の音だったか自分の悲鳴だったのか、とにもかくにも、

 そうやって朝はくる。
 がくがくする腕でマットを押しのけるようにしてやっと体を起こし、立ち上がるのも間に合わずその場に吐き上げる。晩のうちに吐いていればこんなことにはならなかったろうに、と近頃は毎朝のように思っている。せめてもの救いは吐いたものはほとんど原型をとどめていないことだった。
 体温ばかりがやたらと高く、指先に触れる吐瀉物の温度にまた、胸を突き上げるような吐き気がこみ上げる。汚れた手をマットでぬぐって新しいものをWebで注文すると、息を整えてようやくベッドから脚をおろした。服を着るのも後回しに、NNはシャワールームのほうへ脚を向けた。
 悪夢の頻度は上がっているようにさえ感じられる。
 水の打ち付ける音を遠くに聞きながら、ぐったりと壁のタイルに額を寄せる。口の中がべたべたして、気分は最悪だった。

 何度目になるだろう、NNはアンブロシアへ一人で脚を運んだ。朝のレストランは淡く霧に囲まれて、まだ客は一人も居ない。
「良ければだけど」
 ニルギリの言葉を反芻する。
「オーナーと話をして、そのあたり探ってみてくれない?」
 言われなくても、そのつもりではあった。
 コースではなく一品料理を頼んで、彼女は茫洋とその店内を眺めた。いつも小綺麗にされた、席数の少ないホール。夜に来るぶんには気がつかなかったが、狭いわりに広く見せるため配置に凝っている。
 やや塩味の濃いトマトスープとチキンフリットを、いつものコース料理の倍ほどの時間をかけて食べる。食事をすること自体が好きなわけではない。さんざんに奥歯ですり潰した鶏肉を、じわりと舌に染みるような酸味に乗せて流し込むように飲む。舌に引っかかったトマトの皮を一拍遅れて飲み込んで、少し休んでからまた皿に手を伸ばす。
 一時間ばかりかけて僅かな量を片付けた後。しばらくは席に座ったままひどくなった雨を眺めていることにした。どちらにせよこの天気では外に出たらずぶ濡れになってしまう。
「向かいの席、よろしいですか」
「どうぞ。朝は暇そうですね」
「いつもは開けてませんからね」
 頬杖をついたまま、ちらとそちらに目を向ける。
 人の良さそうな顔をした青年が、コーヒーのカップを二人分そこに並べたところであった。
「近頃よくお見えになりますね」
「ええ」
 ざっと、一瞬雨の音が強くなる。窓を思い思いに叩いて滑り落ちていく。曇った川の流れを目で追う。
「どうして、通ってくださるんですか」
「食事しに来る客に、いちいちそんなことを考えて接するんですか?」
 ああ、となにやら言いよどみ、彼はしどろもどろと視線をさまよわせる。
「あなたが食事をする姿は」言いにくそうに。
「つらそうだったので」
 NNははたとそちらへ目を向けた。自分の手元を見つめる彼女に、料理人は淡々と続けた。
「店をしまうつもりなんです」
 だから、今日は朝早くから開けている。NNが通りかかったのを見てほんの少しの期待を込めて、表に看板を出したのだ、と。
「疲れてしまって」
 誰にともなく、ぽつりとそうこぼした。
「いかにも食べることは嫌いですが」
 NNはカップの縁をなぞっていた左手でそれを持ち上げる。
「強いて言えば、ここで食べるものの味には苦痛をおぼえることが少なかった」
 薄いコーヒーは飲み慣れない彼女の舌を焼いて、わずかに顔をしかめさせた。相手に気づかれぬようまた静かにソーサーに戻しながら、自分の発言に納得した様子でうなずいた。
 いずれ整理して伝える必要のある言葉だと思っていた。
「あなたの料理は好きだ」
 出たのは、月並みな言葉だった。
 初めて、そう思ったのだ。
 当人にとってそれがどんなに重たい意味を持っていようと、相手には決して伝わりはすまい。NNが会計を済ませたとき、オーナーはまだその席に座ったまま自分の手を見つめていた。

   ***

 アンブロシアの料理人が、煮えた鍋に頭を突っ込んで死んでいたらしい、と彼女が聞いたのはその翌日のことだ。駆けつけたときすでにニルギリはそこにいて、調理場のフリーザーを指さした。
 半開きの戸の向こうには手足を折りたたまれた男の体と、半分だけ残った穴だらけの脳がきちんと並べて治められている。霜のかかった体のほうも、半分ほどは欠損してすでになにかに使われたということがわかる。
 何に使われたのかも、わかってしまう。
 振り返る。まだそのままになっている鍋には、すでに冷めたトマトスープが濁って渦をまいている。
「これは」
「警察の見立てでは、進行してたプリオン病の症状で調理中に体の自由が利かなくなったって」
「そんなはずない」
「そうだね」
 サルベージした料理人の映像記録をNNのほうへ渡し、ニルギリはフリーザーの戸を閉めた。
「この人の完全義体化を請け負ったっていう医者を特定したんだ。二ヶ月くらい前だってさ」
 いわく、その男が脳をすでに患っていたことは知っていたが、治療法もはっきりしている病気ではない。そういうわけで患者の希望通り、生身の体もそっくり返して持ち帰るに任せたという。
「この間話した一家惨殺事件、おぼえてる?」
「脳が……」
 気にかかってオーナーのことを自分でも調べたのは、ほんの昨日のことだ。
 レストランは親の代から経営していたもので、尊敬する兄が親の期待に耐えかねて自殺してからは、彼のものになると決まっていた。現に今は彼がオーナーをしているわけだ。医者を目指していた経歴が、兄の死からかくんと折れて料理人へのルートに入る様はあからさまなものだった。
 両親は悲しみに我を忘れ、愛する息子の死体をそっくり自分の腹にいれてしまった。特に脳は弟に食べさせた。兄の代わりになる彼が一番引き継ぐべき場所である、ということだった。
 映像記録は古い順に再生されていく。
 ゾンビに頭を割られ、露出した脳の黒い斑点が大写しになる。
「ご両親の脳を切り出してレストランのフリーザーに移動するくらいの時間はあったと思うな」
 半日もあれば。
「なんのため……に」
 自分のやりたかったことを否定されつづけた子どもが親を憎んで殺すのに、ゾンビは都合のいい理由になったろう。悲惨だったのは、こうして彼が料理人として成功していることであった。
 やりたいことではなく、やりたくもない料理を絶賛され続けたことだった。
「苦しんで死ね」
 乾いた声が読み上げる。
 兄の遺書を眺める場面が長く長く続いていた。遺書の文面だけが長く長くその場に映し出される。
 毒を盛ったってすぐにばれてしまう。そんなことではなくもっと長く深刻に苦しめてできるだけ多くの人を殺したい。たとえば治療の困難な病気で。
「そうでなくってもほんの少し過剰な塩気とか、あと、君が気づいてたかわからないけど。ほんの少し毒性があって、たとえばアレルギーやアナフィラキシーショックで一発で死んでしまうような、そういう食材も結構使われてたんだよね~」
「まるで悪意や殺意の塊だったような言いぐさですね」
「うん」
 帰ってきたのは、平べったい肯定の言葉だった。
「そして、臆病な人だったね。だから、君ならもしかしたら、この人が欲しかったものをあげられるんじゃないかなって思ったんだ」
「……悪意や殺意の塊だとでも?」
「同じ感情があったら、共感できるでしょう?」
 この探偵にはそんなことはできない。
 殺意なんか持ち合わせたことがないから。
「きっとうまくいったと思うよ」

 ――あなたの料理は好きだ。

 と、やけに鮮明に言葉が響いた。
「音声として残ってるの、ここだけなんだ。よほどうれしかったんだなって」
 目の前が真っ暗になるような衝撃のさなかに、NNは立ち尽くしていた。うれしいものか、と喉の奥で声にならない声が悲鳴を上げた。
 そうだ、共感だ。
 もしもニルギリの言うようにそのメニューの端々に煮えたぎるような殺意と悪意が込められていたのなら、食事に関わる彼女の苦痛を和らげたのは間違いなくそれだった。
 あろうことか、それをなんのてらいもなくまっすぐに好意の言葉で返した。してしまった。
「なんてことを――」
「なに?」
 NNは目をそらし、そのままきびすを返した。一秒だってこの場にいられる気がしなかった。
 人を殺してこんなに後悔することはきっとない。
 見開いた目から流れるものをぬぐう腕の動きさえぎこちなく、叱られた子どものようなその背中を、探偵は首をかしげて見送った。

   ***

 ニルギリの受けた報酬の一部が自分の口座に降り込まれた通知を確認したNNが事務所を再び訪れたのは、数週間を空けてからだった。
「なんのつもりですか」
「手伝ってもらったぶんだけど?」
 一度射殺された姿勢のまま苦笑いで起き上がる。探偵はごうごうと熱を吐き出す排熱孔の音がやむのを待って、食卓の椅子を引いた。
「狙いが甘かったね。また食べてない?」
「余計なお世話です」
「今日は一敗でしょ」
 殺せなかったんだから。
 そう言いながら、引いた椅子の背を叩いてみせる。今にも噛みつきそうな表情のまま助手が席に着くと、彼は血みどろのエプロンを脱いで自分の席にひっかけた。
「よかった、ちょうど夕飯できたときに来てくれて」
 義務的に平らげてさっさと帰るに限る。
 NNはろくに見もせずにスープに口をつけ、はたと手元を見下ろした。それから、明るい色合いのマリネを口へ運び、ややあってフォークを置いた。口を覆う手が震える。
「びっくりした?」
 明るいニルギリの声が、彼女にはやけに遠くに聞こえた。
「元気になってもらいたくていろいろ考えたんだけど、やっぱり好物を食べるのが一番かと思って!」
「……どうして」
 アンブロシアで食べたものとそっくり同じ味であった。
「愛情が隠し味、とかよく聞くでしょ。ああいうのも結局は技術や知識で、食材とか調味料の組み合わせに分解できるんだ。感情といっても、それを根拠に選ぶ調味料の組み合わせが必ずあるし、そのレイヤリングが”味”として出力されて、味蕾が脳に伝えるいわば情報の集積ってやつ。ちょっとプロっぽいでしょ~。
 つまりそのロジックさえわかれば、君が好きだって言ったこの味も完全に再現できるってことで、――
 どうしたの?」
「二度と」
 震える声で絞り出すように。
 口を覆った彼女の顔は真っ青を通り越して紙のように白い。
「出さないでください」
 怒鳴り散らかしたい感情はどれもこれも、まともな言葉にならなかった。どうせ伝わらないなら言ってやりたいのに、口を開けば嗚咽がこぼれるのを自覚して歯を食いしばり、その波が去るのを待つしかなかった。