求愛


 ホテル街の一角に通り魔が出始めたのは記憶に新しい。ちょうど一人になったところで、うなじを背後から刃物で一突き。恐ろしい話だ。それでも、その道を通らずに帰れない人もいて。近頃犠牲になってるのは、そういった人たちだ。連れ立っていても襲われることがあるそうで、逃げられた人たちも、怪我をすることは避けられなかった。
 中には、護身用の武器で捕まえようと試みたものもいるという。相手も上手く遮蔽物のある場所で現れるので、銃を向けても意味がない、とか、動転してそもそも出せない、とか。そんなことでうまく逃げられてしまう。ダウンタウンの荒くれ者みたいに、喧嘩になんか慣れてないんだから当たり前だ。犯人は長身の男だって話だけど、いかんせん見ようとすると、視界にノイズがかかって見えなくなるんだそうだ。それを除去するのにも一日がかりだとか。
 このウイルスは、やっと一昨日解析が済んだんだけど。なんてことはない、本体はほんとに相手の視界にノイズを貼り付けるだけのウイルスだ。表面にはとかく余分な混ぜ物のコードやらプログラムやらがどっさり。変なふうに他のプログラムにくっついて、なかなか剥がせなくなってしまう。目つぶしに相手の目に砂をかける、みたいなのと大して変わらない。時間をかけたのは、この混ぜ物をひとつひとつ分けていたからだ。
 そんな肩のこる仕事のデータをようやくまとめて、私は手を組むと、ぐっと腕を上にあげた。首元でぼきぼきといやな音が響く。勢い後ろへ倒れかかると、椅子の背もたれまでが控えめな抗議の声を上げた。
「こんなの、なんの役に立つんですか?」
 通りがかった部下が目の前に広げた資料をのぞき込む。
「今更妨害もねえ。あ、でも嫌がらせには使えるかも。のぞき見する部下の目にマスク貼ってやるとか」
「うっわ、やめてくださいよ!」
 本気で嫌そうな顔で下がる部下にしっしと手を振ってみせ、自分の席から立ち上がる。私がこれをことさらに細かく分析したのは、何かいい物があれば裏家業の奴に売り飛ばして小銭が稼げるからだ。まあ、あんまいいものではなかったのだけど。そこだけはまったく、残念だった。
 さて、今日の分の仕事はおしまい。私もあの道を通って、通り魔に怯えながら帰宅しなくてはならないわけだ。私だっていっぱしの女の子だ(子? と言った奴はちょっと表に出ろ)。襲われるかもしれない道なんか通りたくもない。が、やはり私だっていっぱしの女の子なわけだ。
 つまり、恐怖心はあたりまえにあるけども、非日常にもなんだかんだと惹かれてしまう。部下に曰く「先輩の肝が据わってんですよそれは」ってことだけど。
「あ、もう帰っちゃうの?」
「はい。あんまり暗くならないうちがいいと思って」
「ええー。ぼく、君が通り魔を倒すほうに賭けちゃったんだけどなあ」
「詳しい話、また明日聞かせてね」
 口を滑らせた同僚の顔がさっと青ざめるのを眺めて、荷物を取り上げる。机上に置きっ放しのペンダントを首にかけなおし。雫型の青い石を指先でいじりながら、椅子を机のほうへ押しやる。
 失礼な奴ばっかりだ。
 大股に出て行くと、廊下で見慣れない顔と鉢合わせた。
 細身の男だ。こんなに血色の悪い人、たぶんどこの部署にもいないと思う。たれ気味の三白眼がこちらを見下ろして、人好きのする笑みを浮かべた。
「こんにちは。ここで、プログラムの解析をしてる人ってどなたか教えていただけませんか。たしか、女性で~」
「私ですけど」
 自分で女性と言ったくせに、彼は一度きょとんと目を見開いて、それから「よかった! 入れ違いになるとこでしたね!」と破顔した。

 なんてことはない、彼の用事は私が解析したウイルスのデータを譲ってもらえないかということだった。通り魔について捜査をしているそうだ。
「探偵さんですか。大変でしょ、殺人っていっても、不規則だし。当たってみた情報はハズレだし」
 だってこのデータ、なんの使い道もないもの。一応はコピーをよこしてはやったけど、見たら「社内でも誰も使いたがらない」という私の説明に深くうなずいたのだった。
「まあ、探偵なんて今も昔も、足で稼ぐものですから!」
「ふうん。楽しそう」
「楽しいですよ~。猫を追いかけたり、捜し物したり」
「それ、何でも屋じゃないですか」
 つい笑ってしまう。相手は満足した様子で、こちらを見るなりちょっとだけ歩調を緩めた。
 私が例のホテル街を通って帰るのだと言うと、わざわざ問題の道を抜けるまで送ってくれるというのだった。
 そういうわけで、いつもは何気なく一人で広告を避けたりしながら無言で通り抜ける道を、今日は二人で帰っている。変な形の椅子を見ては使い道について審議し、ダンベルを見てはあれの似合う知り合いについての話で盛り上がる。こんなふうに誰かと道を歩くのは、いつ以来だろう。斜めがけした鞄がぽんぽんと私の腿に当たって揺れた。
 じわじわと人が少なくなっていくのと入れ替わりに、先のほうで街灯がともり始める。ガス灯を模していて、わざわざ火のつく音までするのだ。懐古主義的なその光景に、しばらく探偵は立ち止まって見入っているふうだった。
「好きなんですか、こういうの?」
「ええ、まあ。子どものころ流行ったでしょう、こういうの」
「ああ。視力矯正にわざわざ眼鏡をかけてみたり」
「そうそう。車を三輪にしてみたりね」
「上流のほうですよ、流行ったの」
「そうでしたっけ?」
 うそぶく彼の横顔を眺めて、なるほど、一人合点していた。
 ストリートに事務所があるという自己紹介に違和感をおぼえたわけだ。彼の所作はどことなく、整っているので。アップタウンで会社勤めしてるような、周囲の人間と比べても。
 まあ、今の環境に辟易してるから、知らない人がそういうふうに見えるのかもしれないけど。
「このあたりでいいですよ。ありがとうございます」
「ん、どうせだったら家まで送りますよ~」
「お断りします。仮にも初対面の男性ですから」
 またあのきょとんとした顔で私を見下ろす。
 一拍おいて、彼は「用心深いんですね」なんてまた目尻を下げた。
「不躾な申し出でした。あ、でも知り合ったのも何かの縁ということで」
 間延びした調子で、困りごとがあったらいつでも連絡してくれ、とやたら堅くてつるりとした名刺を渡されるのだった。
 ニルギリ・カタラーナ。これが彼の名前らしかった。
「おいしそうな名前」
「よく言われるんですよ~」
 他愛もない会話をはさんで、名刺をしまうために鞄を持ち上げる、私の首元に視線が注がれる。
「何か?」
「いや、ペンダント」
 はたと、細いチェーンに手を添える。
 あわてて外す。ペンダントトップが綺麗に外れている。
「な、なんで」
 いつ落としたんだろう。慌てて青い石の行方を――足下に転がってるならめっけものだ――探す。
「大事なものなんですか?」
「ええ、あの」
 視線は彼の顔と、足下とを行き来する。
「帰り道で落としたのかも」
 来た道を戻ろうとする私の腕を、彼がつかんだ。あんまり冷たかったので小さく悲鳴があがる。
「ななななんですか!」
「いえ、暗いですから。急ぐと危ないですよ。いつも首にかけてるんですよね、ペンダント。だとしたら――」
「違うんです。最近ペンダントトップのあたりがもろくなってて。修理に持っていく時間ができるまでは行き帰り以外職場の机か引き出しに」
「じゃあ、戻るとしても帰り道だけなんですね?」
 うなずく。
「出てくるときは、ちゃんと確認しましたから」
 雫型の青い石だ。なんとなく手触りを気に入ってて、つけるときはいつも指先でいじり回す癖がある。ああ、だからもろくなったんだ。何を考えても後悔ばかりが先に立った。
「もしかしたらと思うんですけど、肩紐に擦れて落ちたのかもしれないですね」
「あっ。……ああー」
 頭を抱えてへたりこむ。やっちまった。ぐうの音も出ない。人混みの中で落としちゃったらもう見つかりようもない。肩をとんとんと叩いた細い指が、口の広い鞄に向けられる。
「運が良ければ、そこに飛び込んでるかもしれませんよ」
「そんなの……運がよければ……」
 泣きそうだった。街灯の下まで引っ張られてとぼとぼ歩き、鞄の中のものを全部出して確認してみる。不用意にひっくり返すのだけは、なけなしの理性で耐えた。
 一通り探してがっくりした後、一番内側のポケットに指を突っ込んで、冷たい感触に行き当たる。とがった先端をつまんでおそるおそる取り出すと、まさに探していた石だ。
「あっ……」
「よかった~。上手いこと転がり込んだんですね」
 見上げていると、ニルギリ探偵はちょっと口角をあげて、「鞄を体の前のほうに掛ける癖があるみたいだから」と言うのだった。

   *   *

 それ以降、彼が職場に来ることもなく――まあ、有用な情報なんて特別扱わないんだから当然だ。
 ただ、彼のことは気にかかった。あのペンダントトップを見つけてくれたからかもしれない。言い過ぎかもしれないけど、命の恩人と呼んでも差し支えないようなひとになったのだ。雫型のこの石は、自分だけがアクセスできる書庫だ。亡き祖母からもらった小さな宝物。入ってるのは、児童向けのおとぎ話や冒険小説のデータばかりなんだけど。
 祖母が子どものころから大切に持っていたというそれを私にくれたということが、幼い私には何よりうれしかったのだ。
 そんなひとだから、どういう事件を解決した人なのか、暇があれば調べてみた。これで実績がないんだったらお笑いだけど、案外ちらほらと有名どころの事件が出てくるのだ。殺人とか、詐欺とか。わくわくした。
 なんとなく。
 町で見かけた彼の背中を追いかけて歩いてみた。ストリートはアッパータウンとは別な意味で忙しなく、また騒がしい。人混みは私ひとりくらいあっさり隠してくれるし、彼も私のことなんか気にもとめないだろう。
 なりゆきで事務所の場所を覚えた。なんてことない平凡な建物だ。やっぱり、内側は懐古主義で固められているんだろうか。映画やドラマで見る探偵みたいに。
 私がそんな他愛もないことに興味を持つのは自然なことだった。猫を追いかけたり捜し物をしたりするような探偵なのだ。映画やドラマで見るみたいに。そうすると、こうしてのぞき見しようという輩は泥棒になるんだろうか。別になにか取っていく気はないけども。
 一度、玄関の前に立ってみたことはある。中で話し声がしたから、ロックの種類だけ確認してその日は帰ってしまったけど。
 彼の実績は、小さいながらも更新され続けていた。
 ホテル街の通り魔の出没する頻度が、目に見えて減ったのだ。次に出る場所に目星をつけて見て回ってるんだって話だ。そしたら、帰り道でまた会えるかも、なんて期待はむなしく、今もって一度もすれ違ってないんだけど。どうやってあたりをつけてるのか、ちょっと聞いてみたかったんだけどな。
 料理が好きな人だとわかった。
 これは、通りすがるたびに事務所から食事のおいしそうなにおいが流れてきたから。今時外食や外注でなく自炊するような手合いはそういない。あの細い腕が忙しく台所を動き回るさまは、一度見たらしばらく忘れられない。配置もいいんだろうけど。手際良く手に取れる場所に、道具も調味料も用意されているんだ。
 わくわく、と同時にどきどきするようになった。
 久しく感じていなかった感情ではあるけど。
 事務所に、ちょくちょく訪れるおなじみの顔を覚えた。長身でいつもしかめっ面の青年と、やっぱり顔色の悪い紫の髪の青年。友達だかなんだか、気軽に迎えては食事をしたり泊めたりしているふうだった。そういう時だけは、カメラがなぜか室内を移してくれなかったんだけど。たぶん、解明したらまずい類いのことなんじゃないか。嫌な予感がして、それについては触らなかった。気になって外で見ていたことはあるけど、すごい騒ぎ声と銃声が数発聞こえて気が気じゃなかった。結局、朝になったら普通に出てきたから、酒癖が悪いんだろう、と思うにとどめたのだった。
 時折、依頼人らしい女性とデートしたり、帰ってこなかったりすることがあることにも気づいていた。
 別に相手が一人というわけでもなければ、友人たちが注意する素振りを見せてものろけて返す、そういうつきあい方らしい。一人に絞らないっていう。そういうのが「あり」だというの、理解はしていても、感情が受け付けないこともあるんだ。それをしている人が、自分の好きな人だったら。
 だから、ニルギリの情報ばかり熱心に集める一方、顔を合わせないように腐心した。
「好きだ」
 と、言った瞬間、特別な相手の座に決して届かなくなりそうで。
 以前よりちょっと散らかった自室で、録画を眺めながらぽそりと口に出す言葉が、空虚に消えていく。
 この位置が、たぶん、一番特別なんじゃないかな。
 誰でもなくて、誰よりも彼のことを知る人になったら。案外それが、一番特別な席にならないかな。そう思う半面、どうにか求められてみたいとも。時折考えては真っ二つに割れそうになった。
 通り魔事件は、ほとんど起こらなくなっていた。

   *   *

 ……で、久々に起こった事件が、これだ。
 足下に転がった男の死体を蹴って仰向けに直す。
「同一犯かな」
「なぜそんなことを訊くんです?」
 ひとしきりうなじの傷を検分して立ち上がった探偵は、死体の顔を指さしてこちらに示した。
「殴られてる。今までは、殺す相手は殴ったりせず、そのまま後ろからナイフで一突き、だけだったでしょう」
「逃げる奴は殴られたじゃありませんか」
「うん」
 それきり、胸くそ悪い笑みはこちらを向かずに、死体を眺めていた。自分にだって同一犯でないことに察しはつくが、それをいちいち説明してみせなければ納得しないこの男の性分が気に入らない。
 少しくぼんだ、建物と建物の間だ。
 相変わらず、微妙にどこから見ても死角になるであろう上手い位置どり。眼球から入った映像は、犯行の時刻であろうおよそ十八時から十九時にかけてきれいに消去されていた。
 これは初めてのケースだ。
 だから、何らかの手違いで通り魔とは違う殺人を犯したものが、こうして通り魔の手口に見せかけ死体を放置した可能性は大いにある。その場合、この殺人の捜査は無駄なわけだ。
 きびすを返すと、後ろから「もう帰るの?」と声がかかる。
「ここでの情報収集は十分です」
「そう? 君の記録に見落としはないだろうけど、だからこそ気がかりが――」
 だからとっとと別行動するに限る。そう思う時に限ってついてこようとする彼の行動も、いい加減腹に据えかねた。
 振り返って、襟首をつかむなり壁に押しつける。撃ち殺したい衝動も壁を殴って逃がし、首を締め上げた。ここに保存すべき現場が残っていることに感謝して欲しい。
 そうでなければここで一回くらいは撃ち殺しているところだ。
「それについてはあなたが調べればいい」
「今日なんか機嫌悪い? いいけど、調べ物終わったら戻っておいでよ~。今日はちょっといいもの用意してるから」

 寝言は寝て言え。
 この男の言動にはたいていそう思うわけだが、今回はよりひどかった。最初の一言で散弾が頭を吹き飛ばし、血まみれの顔が不満げに唇をとがらせるのを眺めてもう一発食らわしてやろうかと思った。
「だから、殺されてたんだからしょうがないじゃん~。脳幹破壊したナイフ刺さったままだったし、そんな状態で再生するなら時間かかっちゃうんだって」
「なにがしょうがないですか。しかもあのお粗末な目つぶしで相手が見えなかった。無能もここまで極まればいっそ見事じゃないですか。ええ? 何ヶ月も付き合わせといて言うことがそれですか。あげく今までの捜査データも勝手に破棄されたって。役満じゃないですか」
「君がバックアップ取っててくれるかと思って……」
「ありますよ」
「じゃあ問題ないじゃん」
「ありますよ」
「なに?」
「今怒ったので全部壊れました。修復に時間がかかります」
 じゃあおあいこだ、などと笑ってみせるのがなお癇に障る。何が相子だ、手前が取られたデータは犯人に悪用されてしかるべきだろうが。
「それじゃ、仮眠室なり使ってよ。俺もちょっと確かめたいことあるし」
 いっそ自宅に帰ってしまいたいところだが、再犯に際して対策を取られたんじゃこちらもたまらない。いくら報酬がいいとはいえ、つまらない仕事に連れ回される我慢にも限度ってものがある。
 仮眠室に向かう背中に、また「最近の死体さ」
「下からだったよね」
「そうですね」
「あれ?」
 以降の会話は、乱暴に扉を閉じて打ち切った。

   *   *

 求められる立場になれるじゃないか。

 悪魔的な考えがひらめいたのは、そのときだ。身もふたもない考えだと判ってはいたし、この期に及んで考えることじゃ、たぶん、絶対、ない。
 運良く振り回した鞄が顔面に当たってどうやら気絶させたらしい、この、通り魔。
 私が通り魔を倒す方に賭けていた社員は丸儲けだろうな。
 体の両側で、地面についた手は震えていたし、足だってがくがくしている。恐怖でおかしくなったんだと思うし、なお悪いことにちょうど恋でおかしかった。ハンカチで手を覆って、倒れた男の手からナイフを取り上げ、その背中に乗り上げ――力の限りに振り下ろして、押し込んだ。
 男の口元ががぼがぼとなにか言っているのを聞いて、がくがく震える手を離し、それから、時間を掛けてそのうなじからナイフを引き抜いた。
 これはまだ持っておかなければ。私が後を引き継ぐんだから。
 あとは、用心深く彼の脳にある映像データを抜いて破棄し、そそくさとその場をあとにした。
 ナイフを抱きしめるようにして家へ走る間、私の胸はかつてなく高鳴っていた。
 通り魔がまだいる。
 事件がまだ続いている。
 続ければ、私を追うあの人の姿を見られる。
 めまいがするほど、それは蠱惑的で甘ったるい想像だった。

 翌日見に行った現場に、例の友人らしき人と、ニルギリの姿があった。殺人が再びあったとあれば捜査をすることになるだろう。身を隠したまま会話に耳を傾け――そこで初めて、彼の隣にいる人の声を聞いた。
 静かな女の声だった。
 思わずそちらをのぞき見る。だって、彼――ニルギリよりずっと体格がいいのに。何か言いさした彼を壁際に追いやって何ごとか小声で話す。見ていられなくて、あるいは、危機感をおぼえて、私は早足にその場を離れた。
 彼。違う、彼女。いつから見てたっけ。
 帰り道、ひたすらそれまでにあさったニルギリ探偵の情報を引っ張り出しては眺める。ずっといる。助手って呼ばれてる彼女。集めた限りでは、どこでもわりと一緒にいる。
 仕事仲間だから。恋人は一人に絞らない人みたいだし。友人たちに苦言を言われては笑って流していた姿。複数の考えが同時に頭をよぎった。
 そんなことない。
 探偵には犯罪者って相場が決まってる。
 決まってるんだから。
 その日は休んで、翌日から、一週間から二週間おきにあの通り魔と同じことをすることにした。
 私を追うあの人の姿を見るために。

 それ以外は、おおよそ期待した通りで。
 最初は殴ってひるませなければならなかった標的も、なんとか一突きでうなじを刺せるようになった。どこなら警備のドローンや人の通りが少ないのかも。
 時折、ニルギリが一人で夜道をぶらついては以前の犯行現場を見て回っているのを見かけるようになった。助手の彼女は、それにまでついてくる様子はない。
 街灯の下に立ち止まった彼の背中に、久々みたいな顔で声をかけてみたくなった。きっと、そうした瞬間に、私は彼の特別な人になれなくなる。
 胸の前でナイフを握りしめた手が、じわりと熱くなった。
 あの――
 まっしろなうなじにナイフを刺したら、彼はどんな顔をするんだろう。
 そんなふうに、見かけるたびに考えるようになった。
 もしかしたら、彼を殺したら、その感触だけは自分だけの物になるんじゃないか。通り魔を追う彼の背中を眺めながら。
 誰かと電脳越しに話をしていることに気がついた。
 相手が誰であるかをさとると、半ば反射的に、私はその首にナイフを突き立てていた。話し声が吃音で途切れ、ノイズのかかった目がのろりとこちらを見た。こちらへ背中を預けるみたいに倒れて、受け止めきれなかった私の足下に、ニルギリは仰向けに倒れていた。
 ナイフが。
 いや、もういらない。
 私がやるべきことは一つだった。

 久しぶり、と声を掛けられたのは実にその一週間後だ。聞き覚えのある声。ずっと聞いていたかったしずっと聞いていた声だ。
 会社から出て少ししたところで、私は足を止めた。
 顔を上げられなかった。
「仕事、今終わりでしたか? よかった、入れ違いになるとこでしたね!」
 意識して言ってるのか、偶然だろうか。大きく息を吸って、吐く。もしかしたら、急所を外れて一命をとりとめたのかもしれない。
 それに、私の姿は見られていないはずだ。
「探偵さんですか? お久しぶりです!」
「ええ、どうも~」
「また用事?」
「実は、またちょっとあの通り魔事件のことで」
「もう役に立つデータなんて、うちにありませんよ?」
「そのことじゃなくって、もしかして俺、あなたに殺されたかなって?」
 一瞬間を空けて、笑った。
「まさか! 探偵さん、生きてるじゃないですかあ」
「ですよねえ」
 相手も特別引きずらずに笑い飛ばし、並んで歩き出す。くだんの道へ向けて。そもそも私の帰り道だ。
「私個人になにか?」
「まあ。そうだな、二ヶ月くらい前に、ちょっと変わった死体をここで見つけたんです。ご存じの通り、うなじをナイフで一突き」
「話題の通り魔ですよね」
「そう。それなんですけど。刺し傷の角度が、今までと全然違ったんですよ~」
「角度?」
「それまでの死体は、こう」
 言いながら、自分の首の後ろを手でたたいて、下へ向かって抉るような形に手を滑らせる。
「それで、その死体はこう」
 逆に、首から上に向かって、刃を走らせるジェスチャーをする。
「それ以降の死体も」
「その、角度が何か?」
「あの通り魔、男性だったって噂でしょう。あなたは襲われたことありましたか?」
「あっ……ありました。鞄をぶつけて、逃げてやりましたけど。確かに、男性でしたよ」
「そうでしたか。ご無事でよかった。ありがとうございます。それなら、たぶんあの二ヶ月前の死体が、元々の通り魔だったのでしょう」
「は?」
「彼の身元は、ごく普通の独身男性。室内には血のついた衣類がごみ袋に放置されて、携帯用の端末からは、あなたに譲ってもらったウイルスの元データがあったので、たぶん間違いない。
 まあ、そういうことなんですよ。男性だったら、ちょうど上からざくー! っと行く角度。それで、女性ならちょうど下から行けば、脳幹を抉って即死させられる。そういうかんじの傷ですね」
「女性だから、一度会ったことのある私に検証、ですか?」
「まさか。もうちょっとしっかりした確証がありますよ~。今日あなたに会いに来た理由なんですけど。一週間くらい前に俺、刺されたんですよ。それで、犯人の姿は見なかったんです。ちょうどあの目つぶしやられちゃって」
「ほ、ほんとに……? 大丈夫なんですか?」
「ええ、見ての通り!
 まあ、それで、あなたが通り魔を引き継いだのかな~と目星をつけたんです」
 足を止める。
 少し先で、相手もまた足を止めてこちらを振り返った。いつも変わらないあのゆるい笑顔で私を見ていた。
「あんなプログラム、会社でも誰も使いたがらなくて」
 それは確かに、最初にあの目つぶしのデータを渡したときに私が言った言葉だった。だから、あの通り魔の他には私しか持っていない。使うとしたら、私しかいない。そういうふうに彼は言うのだ。
「だから、うーん。連続通り魔事件というか、もう少しドラマチックなほうがいいかな」
 そんな風に一拍おいて、すっと人差し指をこちらへ向ける。
「俺を殺した犯人は、あなただ」
 夕日を斜めに浴びてなお、その貌は紙のように真っ白だ。

「わ」
 一歩下がってみても、彼は追ってはこない。
「私以外にだって、物好きはいますよ」
「けど、こんな落とし物する人は、あなたくらいかな」
 私を指さしていた手がくるっとひっくり返って、こちらに向けて開かれる。
 青い雫型のペンダントトップがある。
 胸元を探る、思わず。ペンダントの細いチェーン。それをたどって、あるべきものに触れずにすり抜けた指を、冷たい彼の手がつかんだ。
「大事そうだったから、返してあげたかったんですよね。事務所にカメラ取りにきたのかな、それで忘れてたみたいだから」
 これほど、肝が冷えたことがあるだろうか。
 肝が冷える、というのか。すっと体の中心に大きな氷を落とされたみたいな。
 なんで忘れたんだろう。
 なんで今の今まで気づかなかったんだろう。
 そんな大事なものを忘れてしまうほどの思いを、さらりと知られていたんだろうか。
 それを握らされた手が、どうしていいかわからないまま石を握りこんでがたがたと震えていた。
「あなたを、殺したのは、私だって――」
「うん」
 帰ってきたのは人なつこい笑顔だった。
「殺すなら俺にしておくといいよ」

   *   *

 かくして何ヶ月も付き合わされた連続通り魔事件は幕を閉じた。資料の整理やらさんざんやらされ、あげくこのあたりにカメラがあったんだけど、なんて寝ぼけたことを言われて憤慨したのは記憶に新しい。
 報酬は煩わされた期間に比べると少なすぎるくらいだが、探偵は相変わらず上機嫌であった。
 殺人事件はもう起こらない、と自信満々に言うので依頼人も彼女に手を出すのは思いとどまったようだが。
 新しい依頼の内容を検分して上機嫌の探偵から目をそらし、銃を取り上げる。
「帰るの? 気をつけてね~」
 ひらひらと手を振るのを横目に、事務所を出る。
 階段を降りる直前に、顔をすっと一直線に、冷たい空気が撫でていった。下でぐしゃりと音がする。ちらりと手すりの下を見て、見ない振りで帰ることに決めた。