ひまわり忌譚


 風にのって、ざわざわと耳障りな音が外から届く。カーテンの隙間から差し込む朝日のまぶしさに目をすがめ、NNは体を起こした。重たい手でカーテンを掴んで、開く。外の様子が何も変わっていないのを見ると、舌打ちしてきびすを返した。
 居間へ向かうと、例のごとくすでに朝食の準備は整っている。
「お、今日は早起きだね?」
 などとほざく探偵の顔から目をそらして視線は冷蔵庫のほうへ。食材の残りはあとどれほどあるだろうか。
「ご自分のぶんだけ用意すればいいのでは?」
「え~? いざとなったら俺のほうが節約する側じゃない?」
 今日もいい天気だよ、とニルギリが目を向けるほうには、突き抜けるような青空と、下に延々と広がるひまわり畑がある。延々と……見慣れたスプロールの景色はかけらも見当たらない。こうなってかれこれ一週間ばかりだ。
 外に連絡をつけようにもどちらの電脳もネットから切り離されているとくる。
 残っているのは、調査しかけの殺人事件の資料ばかりだ。
 依頼人は警官をしている若い男。
 その幼い娘が締め殺されたが、容疑者は彼の妻である。妻が娘を殺したはずがない、証拠を探してほしい。そう言うのだった。妻は容疑を否認しているが、唯一それについて証言できる息子は、娘が死んだのと同じ時間、同じ部屋の中で寝ていたっきり、事件の後も目をさまさない。
 探偵はそれで暇をつぶしているらしいが、助手のほうではとかくこの場を抜け出したくてたまらない。今すぐにでも。
「出てきます」
「あてもなくぶらついてもしょうがないと思うけど?」
「あなたとここにいるよりましだ」
 肩を落として笑ってみせる探偵をよそに玄関を抜けて階段を降りる。何度眺めても同じ。事務所以外のものは一切見当たらず、ただ一面のひまわり、一面のひまわり、いちめんのひまわり。
 乾いた風に背の高い草が揺れて青臭いにおいを運んでくる。踏んでいるのはコンクリートではなく正真正銘の土、らしい。
 自分より背の高い花の群れ。
 なにより太陽。
 空に浮かんで一切の影をゆるさぬとばかりに輝くあの天体。あんなに元気のいい太陽に、彼女はここにきてこの方お目にかかったことがない。目をつぶす気なんじゃないか、そんな軽口をたたける相手もここにはいないのだった。風の渡る音がいやに大きく頭を揺さぶる。大ぶりの葉と太い茎は、風が吹くたびその全身をつかって重たげなあの花を揺さぶる。平たい顔を少し仰向け、すべてあのまぶしい光球へと向いている様はいっそ不気味なほど。
 それをかき分けて、いけるだけ遠くへ。
 土の、妙に柔らかな抵抗が靴裏に伝わる。上着は置いてきた。おかげで、腕のあちこちをひまわりの葉に擦られるのが重ねて不快だ。この熱気の中に放り込まれて久方ぶりに空気の重さを思い出していた。

 ひときわ強く風が吹く。逆巻くような強風は先までよりも幾分冷たい。
 どれほど歩いたのか、背の高いひまわりの中から空を見上げた。
 薄まった青の上に薄く橙を刷いたような空の色。そろそろ日が暮れて、やかましい昼の色を覆う。夜になる。
 NNは改めて電脳からWebへの接続を試みて、ため息をつく。エラーと空白ばかりが帰ってきて肩を落とすのもこれで何度目だろう。ざわめく草葉の間に日が沈んでいくのを眺める。人の頭ほどもある大輪の花々が、それに手を振るように揺れている。
 戻る術もなく、その場に立ち尽くす。
 引き返すよりはここで夜を明かすことにしよう。彼女の判断は――的確かはさておき――素早いものだった。もとより、ニルギリと二人であの建物の中に寝起きしなくてはならないこと、必ず自分のぶんの食事が用意されていること、どれをとっても気が狂いそうだった。
 逃げてるみたいだね、と癇に障るあの声が言うのを聞いた。
 葉の擦れる音、風の音の中で腰を下ろして上を見上げる。同じ方向を見つめていた花々が、彼女を見下ろしていた。そう見えただけかもしれないが、ぞっとして反射的に立ち上がっていた。空はとうに暗く、天球は星の海をいっぱいに湛えてNNの頭上を覆っていた。
「月って、結構明るいよねー」
 間延びした声を聞いて、そちらへ左腕の銃を向ける。彼女の目の前には、昼間置き去りにした事務所が建っていた。
 ひまわりの向こう側で、ニルギリの声が「おかえり」とさも当たり前のようにNNを迎える。
「いいかげん、食事抜きはつらいと思うよ?」
 風が強く吹いている。姿ばかりかざわつく花の音にその声さえかき消されそうになっていた。
「余計なお世話です。それよりここの出方はつかめたんですか」
「さっぱり!」
 先よりも遠くで笑い声がする。排熱孔から熱をはき出しながら、NNは大股にそちらへ向かい、誰もいないことを確認して苛々と地面を踏みつけた。
 仕込み銃は前へ向けたまま、右腕でぞんざいにひまわりの茎をかき分けて進む。もう少しで事務所の階段へ着く。ここだけが何一つ代わり映えのない場所だった。
「花言葉っていうのがあってさ」
 登り終えると、階段の下から風に乗ってかすかに声が届く。
「ひまわりの花言葉って知ってる?」
 無視して玄関から室内へ入って扉を閉める。
「あ、おかえり~。収穫あった?」
 一人夕飯を終えたらしいニルギリが、ごちそうさまのポーズで彼女に顔を向けて笑った。

「ひまわりの花言葉をご存じですか」
「花言葉?」
 ニルギリは、出し抜けの質問に少し考え「あなただけを見つめる」と返した。
 助手はむっと顔をしかめて、オフラインの部分に放り込んでいた資料を出す。ニルギリが熱心に眺めていたあの殺人事件のものだ。
「仮説です」
「どうぞ?」
 紅茶が置かれるのを横目に、ARに映し出した事件の概要を整理する。
 三歳の娘が亡くなったのは深夜二時ごろ。凶器はランプのコンセントだ。十歳の息子はベッドの隣で眠っており、その時の様子を証言することはできない、と思われている。
 妻は、その時間に起きて仕事をしていたことを同僚との連絡履歴で確認が取れている。
 犯行が可能であったのは、妻である。
 そういった内容だ。
「ひとつ確認を」
「うん」
「あなたは、長男の電脳にアクセスしましたね」
「したねえ。君もしたんだろ?」
「しました。聞くより手っ取り早いと思いましたから」
 だから、ニルギリはひまわり畑を調べるより事件のほうを捜査し続けたのだった。
 NNは台所へ立ち、給湯器のコンセントを引き抜いた。
「夜中、彼は目をさました。物音につられて」
「うん」
「ランプは消えていたものの月の明かりは存外に明るく――母親が隣のベッドで何かしているのははっきりとその目に映った」
「そうだろうね」
「薄目で眠ったふりをしているところを、のぞき込まれた」
「あなたを見ている、って?」
「正確には、見られた、と思ったのかもしれませんね」
 両手でピンと張ったコンセントをニルギリの首に巻き付け、NNはその胴体を蹴倒した足で馬乗りに、きつくそれを引き絞った。
 抵抗は無く、容赦も無く、相手の首をへし折るまで。
 ややあって、どちらのものでもない悲鳴が上がった。電源が落ちるように周囲が真っ暗に、なる。

   ***

 飛び起きた少年ががたがたと震えながらベッドの上に頭を抱えているのを見下ろした。
 ニルギリはまず時計の表示を眺める。ここに来ておおよそ三十分。体感の一週間は嘘のようだ。あんなに長い白昼夢を見る機会もなかなかない。
 隣に立つ助手のしかめっ面を見るに、どうやら同じものを見ていたらしい。
「犯人は――」
 目の前で震える子どもであった。

 親の関心は、幼い妹ばかりに移る。兄、あるいは姉になる子どもにとってそれは耐えがたい恐怖であった。自分だけを見ていた親の目が妹にしか向いていないように見える。彼女がかわいくないわけじゃない、ただたまに消えてしまえと思う。
 それを行動に移すのはごく珍しいことではあるけれど。
 寝たふり、そして精一杯の暗号化があのひまわり畑。木を隠すなら森の中というが。
「銃弾けちらずにさっさと俺のこと撃ち殺してれば、もっと早く終わったんじゃない?」
 NNはその言を無視して席を立った。窓の向こうには見慣れた雨の街並みがある。
 もしも、それをしてあなたを殺せなかったら?
 なぜだか、その後であのひまわり畑を見たら耐えられないだろうな、と、彼女は思ったのだ。