どこよりも遠く空の涯


 NNがひどい怪我をしてラファイエットの診療所に放り込まれるのは珍しいことではない。そのために近頃は必ず一つは予備の義体を用意してあるくらいだ。とはいえ一日に二度運ばれてくることはそうそうない。
 あきれた様子のラファイエットに、ニルギリは「なんでだろうねー」と笑い顔(この男の場合、実際に何をやらかしたのか自覚がないのでたちが悪い)ではぐらかすのだった。
「かまわないが。あんまり負荷をかけるのも考え物だな」
 頸部の損傷と、おそらく自分でひっかいたのであろう指先にこびりついた血の塊を眺めて、ラファイエットは肩を落としてつぶやいた。
「意思とか自我ってものがどこにあるのかは知らないけど、ともかく生身の体と義体とは違うんだ。生身の人間とは違う形でそいつは体の内側に拡散する。二度と生身の体に戻れないそいつらは、その時点で狂うなり恐怖にすくんで動けなくなったりするわけだ」
「ふうん。難しいね」
「ここに来て何度義体を乗り換えたかな」
 雑談混じりに、はらわたが煮えくりかえってずたずたになったNNの体を寝台に引っ張り上げる。少なくとも新しい義体ができるまで一週間そこらは寝ていてもらうしかない。ラファイエットはそう言っていまだ要領を得ない顔つきの探偵を追い返した。
 散り散りになった自我は普通、それが義体に調和すればするだけ悟りに似た感覚をもたらすのだそうだ。東洋の学問でいうところの――それを拒み続けなお自らの中にある憎悪に薪をくべつづけているというのがどういうことなのか。おそらく当人すら理解してはいまい。理解していたとて諦めたりはできないのだろうけど。
 義体を作るにあたっては多少時間がかかるにしろ、必要なものだけは取り出しておかねばなるまい。無事な材料は使い回すこともできるわけだし。NNの体をバラしはじめたラファイエットの手が一瞬止まったことに気がつく者は、あいにくその場にはいなかった。

   ***

 兄さん、私が兄さんより早く走れたら、その氷は私にくださいね。
 兄さん、私が兄さんより深くあの星に潜れたら、あの獲物は私にくださいね。
 兄さん、私が兄さんより長くあの嵐の中でとどまっていられたら、本気で私と――

   ***

 轟音で目を覚ましたのは深夜のことだ。
 ラファイエットは、寝台のわきに倒れているNNを見つけてため息をついた。
「どうした。まさかその体の使い方を忘れたわけじゃあ、」
 見下ろした視線が、怯えをあらわにした目と行き当たる。
 なにか言いたげに口は動くものの、呼吸器の使い方がろくにわかっていないと思われる。あの目に、ラファイエットは覚えがある。
 つまり、初めて彼女がラファイエットの姿をその目で視覚情報として受け取ったときのあの目だ。
 その場に立ったままでまず呼吸の仕方を思い出すまで待つことにした。近づけばまだひどいことになるに違いない。それにしても、感覚が地上へ落ちてきたときに戻ったのなら、あの体はさぞかし重たいことだろう。
「あ、あ、あ――」
「おはよう。大丈夫か。どこまで覚えてる?」
「……っ」
 息をのむように一度声を詰まらせ、ややあって、NNは大きくかぶりを振る。少なくともここに来てからのことは何一つ覚えていないといった素振り。
 もともとの強がりか知らないが、怯えは早々に奥へ引っ込めて、状況の把握につとめようとしている彼女へ手を差し出す。ドクターは相手がそれをつかむ術もわからないらしいと気づくと、その腕を取って引っ張り上げようと、した。
 耳をつんざくような悲鳴が上がった。
 腕を大きく払った勢いで台の足に打ち付け、その痛みにまた恐慌を来してうずくまる。右手を視界に写し、それが自分の意思で動かす体の一部であることをさとると、大きな目からぼろぼろと涙がこぼれた。
「なん、なん、ですか、これ……いやだ、nrrスlqnll……にいさん……」
 喃語のような発音の部分は人名だ、と察する。本人の名前を聞いたときもそういう調子だった。発声器官がひとつでは足りないのだ。
 ラファイエットは彼女が泣き止むのを待ってから、ようやくその前に膝を折った。
「私のことはわからないようだな?」
「兄さんは、どこですか、兄さん……私の、nrrslqnllinaseoill
「残念ながらここにはいないよ。私はおまえに危害を加える気はない。が、うるさくするようなら話は別だ」
 震える声を遮ったラファイエットの顔を、彼女は一瞬また怯えた様子で見上げる。それから、いつもそうするようにきっと目尻をつり上げて唇を引き結んだ。
 それがどうやら自分を押さえつけて強がるときの癖であるらしいと、ドクターはこのとき知ったのだった。

   ***

 一辺が二センチメートルの青い正四面体を探してくれ、というのがラファイエットの要望であった。ニルギリはそれ以外の手がかりはないのかと聞き返してみたが、彼女はかぶりを振るばかり。
「最近の仕事で派手に喧嘩したところか、事務所の中あたりを探せば見つかるだろうさ」
 と面倒くさそうに言う。
「ふうん。あ、もしかしてあの子の部品とか?」
「話が早いな、そういうことだ」
「参考までに、どういうパーツか聞いていい?」
「記録だ。いくつかに分けて保存しているうちの一つだが、よりによってその機関部をどこかに置き忘れてきたみたいでな」
「記憶喪失ってやつ?」
 興味深げにそんなことを言い出す探偵を見てため息をつく。今は診療所のベッドの上で呼吸も満足にできずにうずくまっているNNの姿がちらと頭をよぎる。事務所へ連れてこようとしたが、ストリートに出た瞬間うずくまって吐いたのだからどうしようもなかった。
「あれは、どちらかといえば退行だろうよ」

「みんな、あなたのような形をしているんですか」
「もちろんだ」
「なんの、ために、私こんなとこに」
「ある男を追ってきたと言ってたけどな。覚えてないなら探すしかない」
 そんな会話をかわしたのは、今朝のことだ。それっきり、ラファイエットと名乗る女は彼女をそこへ置いて自分の仕事へ戻ったらしかった。この状態の自分に深く関わらないということは、この場所で多少は気心の知れた間柄なのかもしれない。すくなくとも、よるべのないniaenlliariillはそう判断したのだった。
 目に映るもの、五感に触れるすべてが気持ち悪くて、隙さえあれば空っぽの胃が内側からひっくり返りそうになる。鈍痛と、ぐるぐるひっかきまわされるような気持ち悪さがずっと胸から腹の内側で渦を巻いている。
 彼女は、浅い呼吸の下でもう一度目を閉じた。
 目に何も映らなければ多少は楽になる。この体は形がグロテスクなばかりか、体の表面で受け取る情報があまりに多い。重力と酸素の濃度は、戯れに潜った星の比ではない。こんな体で、自分が数日前まで普通に動いていただなんて彼女には信じられないことだった。
 その上。
「ある男」
 それは兄さんではないのだ。
 niaenlliariillには、兄以外の誰かを追っている時間などないはずなのに。
 元いた場所を捨ててくるほど大切なものなんてあるわけがないのに。
 脚と腕と、首から下のあらゆる器官が煩雑に脳の処理を遅らせる。彼女は動くまでもなく疲労しては眠りにつき、目を覚ましては息ができなくて混乱し、悲鳴を押し殺し吐き気を飲み込んで手足の動かしかたやこれまでのことを思い起こそうとした。
 記憶と経験の間に確かな乖離があることを、やはり感覚では解っているのだった。
 声の出し方、目に映るアレが間違いなく人間の一種であること、直立した体の一番上に発声器官が存在し、そこからの言葉を意味の通る言葉として自分の脳が処理しているということ。
 どこからが経験でどこからが記憶の産物であるかは怪しいものだが。
 あのグロテスクでふにゃふにゃした生き物が、どこを見ても地面の上にゆらゆらして、あるいはたまに壁に張り付いて。こんなに深く潜っていてはては惑星の重力から逃げ出す術もなく。
 愛するnrrslqnllinaseoillはここには在ない。
「ぅっ……」
 吐き気に突き上げられて、何度目かの「嘘だ」が口から転がり出た。
「驚いたな。思ったよりひどいことになってるね?」
 頬の表面で空気が震えた。むずがゆさに頬を手の甲で擦って、彼女はようよう体を起こした。聞きおぼえのある声であった。
 五感による違和感を引きはがすには、webに意識を投げるのが今のところ一番いい。彼女はそうして、ネットのフィルターごしに体を動かし、彼を迎えた。
 ニルギリは、彼女の傍らまで歩いていくと、その顔をのぞき込んで心配げに眉をさげた。
「聞いたよー。外に出て人を見ただけでえづいて大変だったって? もう大丈夫……じゃなさそうかな」
 血の通わない手が頭をなで、汗でじっとりと湿った頬へ降りる。排熱孔の縁をなぞって首の後ろへ。そこはちょうど、倒れたときにNNが自分でかきむしった場所である。
「辛い記憶なら、なくなればましになると思ったんだけどなあ」
 半分、webに沈んでいた意識がそちらへ引き戻される。niaenlliariillは首筋に触れた指の感触から意識をそらしながら彼を見上げた。
「何を、何の、話ですか」
「君が言ったんだよ。思い出してごらん」
 何を?
 どろりとした三白眼が彼女を見下ろしていた。

「その程度で忘れられるのなら、この目を抉り取られたってかまわない」

 刺すような痛みが頸部から頭へ駆け上った。
 引きつった叫び声を気にとめず、ニルギリは彼女の首元の皮膚を剥がして、内側の機器と排熱孔のつなぎ目を探る。肩口から一筋、人工血液が流れて赤い線を引く。
「アレは外付けの記憶端子だって君は言ってたけど、それも覚えてない?」
「あ、い、痛……ッあ、触ら、ないで」
「フルボーグってね、そのうち、執着みたいなものを亡くしてしまうんだってさ。君はドクターにそれを聞いたから、わざわざ後付けで記憶端子を自分の体に備えるようになったんだって」
 体をよじって逃げ出そうとするniaenlliariillの肩を掴み、他方の手が排熱孔と首のつなぎ目を分解して開く。いつもなら触れただけで指が焼けて使い物にならなくなる部分だ。
「君は、お兄さんの仇に関する感情と記憶のすべてをそこにもストックしてるんだ。自分の体とは別にね」
 振り払った右腕が、ニルギリの横面を殴って床へ投げ出した。彼女は荒く息をついて、半ば分解されかかった首筋のパーツを覆うように手で押さえてそれを見下ろす。
 どこと言わず、身体と感情のすべてがその男を拒絶していた。のったりと緩慢に起き上がって、彼は取り落とした部品を上着の内ポケットの中に戻した。
 こんなに弱い相手なのに、全身の震えが止められないくらい怖くてたまらないのだ。
 呼吸を忘れそうになる喉を強いて動かし、右手はきつく首を押さえる。ああ、左腕がつながっていたら、迷わずあの頭をぶち抜いてやるのに。一瞬そんな考えがよぎる。
 散らばっていたものがじりじりと組み上がっていくのを、目の前に見ていた。

   ***

 兄さん、私が一息で兄さんよりも遠くへ走って行けたら、兄さんの命をくださいね。

   ***

「辛い記憶なら、忘れてしまえばいいのに。その体なら、そうできるんでしょう」
 無神経な探偵の言葉にNNが激昂したのはあたりまえのことで。それはつまり自分のすべてを投げ捨てろ、と言うのと変わらないのだ。
 故郷も体も戻るあてがなく、ただ自らの激情ばかりをよるべにしてそこに立っている彼女にとっては。
 普通は時がたつにつれ遠くなっていくはずの記憶と、それに伴う感情を、未だ強く積み上げ続けている姿が、ニルギリには多少不憫に思われたのだ。もしかして、本当は忘れて楽になることを望んでいるのに、それにあらがって憎悪に薪をくべ続けているんじゃないか、と。
 血の海から起き上がる彼の前に、さいころに似た青い石のようなものが転げ落ちた。NNが自分の首筋から力任せに引き抜いて投げ捨てたものらしかった。
「その程度で」
 憎々しげに口元をゆがめ、彼女は低い声で言い捨てた。
「その程度で忘れられるのなら、この目を抉り取られたってかまわない」
 憎悪と殺意とそれにまつわる記憶を取りはらったとき後に残るものが何なのかを彼女はよく知っていたのである。
 馬乗りに首をへし折った手からなおも力を抜けず、NNはうつむきがちにニルギリの顔を見下ろした。彼は特別表情を変えるでもなくそれを見返し、ややあって、あの空気のぬけるような笑みをうかべた。
「俺は、べつに生きてる子から奪ってまで食べようとか思ってないよ~?」
 その切り返しに排熱孔がひときわうるさく熱をはき出す。折れた首をなおも握りしめた右手が震えていた。
 懐に潜った彼の手が取り出した記録端子を奪い、頸部から半ば無理矢理接続しなおす。無邪気に兄に向かって投げつけた言葉のひとつひとつが自分に刺さる。
 宙の涯がこんな地の底だと知っていたら、兄さんより遠くへ行くなんて馬鹿なことは言わなかった。
「けど、あきらめないでほしいかな~。その目は君が持ってたほうが綺麗なんだろうし」
 のんきな声を背中に聞く。無責任に開かれた頸部の修理をするためにドクターの作業場へつま先を向ける彼女に、
「こんな地上から、まるで宇宙の涯を見てるみたいで、わくわくするからね」
 この男と分かち合えるものなど何一つないのだった。