人でなしに恋
白い天井があった。どうやら、私はあの地獄みたいなところから生還したらしい。
安心と、息の詰まるような恐怖がどっと吹き上がって、声をつまらせて、泣いた。
***
彼と会ったのは、事件の傷がある程度癒えたころ。えぐれた脇腹や手足の傷の痛みに慣れてきたころだ。まだうまく歩けなくて、無茶して買い物に出た帰りに半泣きでベンチに座っていたところに通りかかって、知り合いと間違えて声をかけられたのが最初。覚えのない名前でよばれてきょとんとした私に「よくあるんだよなー、悪りぃ悪りぃ」と笑ってみせた彼は、手足の包帯を見咎めて家まで荷物を運んでくれた。特に雨の強い日だった。男の人に傘をさしかけてもらって、隣を歩く。なんでもないことなのに、なんでか足元がふわふわして、胸の踊るような感覚がした。
家に戻っても姉さんと母さんはもういない。
きれいに掃除された家にいるのは怖くてつらくて嫌だったけど、病院を出た私にはそこしか戻る場所も住む場所もなかった。お金は、まあ当面は母の溜め込んでたものがある。けど、夜中に夢を見て飛び起きるのはどうしようもなかった。朝だって同じ。
最悪の目覚め。いつものように自分の手足がちゃんとくっついてて、お腹からなにもはみだしていないことを確認して体を起こす。雨の音がうるさく響いていた。今日は一段とひどい。電脳に、聞き覚えのある声が届いたのもそんな朝だ。
「よお、今家いる?」
その声と、扉を叩く音は同時だった。駆け寄って開けると、まずにっと笑ったサメ歯が目に入った。サイケな紫色の髪と不健康な白い肌も。
「あっ」
心臓が跳ね上がって胸を殴りつけた。
「お、アタリじゃーん。俺様の記憶力も馬鹿にできねーな、オマエもそう思うだろ?」
「お、おはようございます」
「なに寝ぼけてんの? 顔とか洗った?」
言われて我にかえる。ほとんど下着姿であった。慌てて扉を閉めて洗面所に走っていく背中を愉快げな笑い声が叩いた。
「ど、あ、どうしたんです」
「どーもしねえよ。仕事帰りヒマだろ? なんか覚えのあるアパートあったから知り合いに会える気がしたんだよ」
それで、アタリだったわけだ。
水を叩きつけるようにして洗った顔をタオルで乱暴に拭って、手で見苦しくない程度に髪を整えて、ワンピースを頭からかぶるみたいにして着ながら改めて扉を開ける。彼は相変わらず人好きのする笑顔で私を待っていたらしかった。
「で、ヒマ? ヒマっぽいな、付き合えよ」
まるで前から友達かなにかだったみたいな距離感に動揺しつつも。
冷たい手に手首を掴まれるとろくに抵抗する気も失せて、そのまま玄関から引っ張り出されてしまうのだった。掴まれている間中、わけも分からず心臓ばかりがバクバクとうるさかった。前のときのお礼を言う余裕もないほど。
階段の手すりに引っ掛けていた傘を無造作に取り上げて差しかけられる。ばたばた響く雨の音はまるで耳元でなっているみたいにうるさく聞こえた。雨はいつもにもまして、ひどい。傘の外は真っ白で、たまにちらつく光と影が向こうに人や乗り物の気配を形作る。
「――だよな」
「はい?」
「あ? あのアパート、なんかニュースで見たよな?」
「ああ――」
ふいに胸を刺した痛みに足を止める。気づかないで歩いていく。傘の中から外れる。ぼたぼた音を立てて水を吸ったスカートが重たくなるのを眺め――
「何止まってんだよ」
慌てて戻ってきた彼がひたひたと手で水を払う素振りをする。どうもそれじゃ追いつかないくらい濡れているとわかると、諦めた様子で肩を落とす。
「なンか、ぼーっとしてねえ?」
「それ、いまさら聞くんですか」
寝起きですよ、と言うと、ひとしきり笑い飛ばしたあとで「じゃー朝メシにするか」と濡れた髪をぐしゃぐしゃかき回された。
気まぐれに彼が家を訪れるようになると、息苦しさはもっと別のものに変わる。恋をするといろいろ見方がかわるとかって話だけは聞いたことあるけど、こういうことなんだろうか。雨の向こうにあの人懐っこい笑顔を探してはそわそわする。
連絡があれば、息がつまるほど動悸で胸が苦しくなる。
冷たい手に手を取られて歩いてる間は、会話もままならないくらいで。
相手に気取られたのは何回目だろう。家にあそびに来いよと言われて、やっぱり私の足はうわついていた。
「いいよなーそういうの。初々しくて」
散らかった室内に目を丸くしていた背中で扉を閉じる音。包帯の下の傷がまだ治りきっていないのをふいに思い出した。
私の住んでるアパートよりも少しいいとこみたいで、玄関扉が閉まると雨の音はすっかり聞こえなくなる。ソファーに座っていいものか考え込んで立ち尽くす。
じんわりと、なにか訴えるみたいに痛みだした腕の傷を、後ろに立った青年の冷たい指先が上からなぞる。いたわるように広い手のひらがかさなった。
「コレ、なんの傷?」
「それ……あ」
横向きに持ち上げられた腕に口付けられる。ひくりと喉がなる。
思わず前へ逃れようとした私の腰にもう片方の腕が絡まって引き止められた。耳元で自分の鼓動が聞こえるようで、思わず動悸のうるさい胸を押さえた。
これはこわいひとに襲われた時の傷。
氷のような冷たい手が硬直した内腿をなで上げる。スカートをまきぞえに肌の表面を這い上がってきた指先が横腹の縫い目を覆う包帯に触る。縫い目を見つけてなぞられると、じりじりと圧迫感を伴う痛みが内側でのたうつ。
やめてほしい。
胸をおさえた手の下からでも、大げさに跳ねる心臓の感触がわかりそうだった。
「これ、姉さん、の、ともだちが」
詳細はよく覚えてない、ショックとかストレスによる記憶障害とか言われた気がする。姉さんがよくつれてきてた男友だちだったことを覚えている。記憶を辿っても、フラッシュバックしても、その肝心の場面だけはちかちかと暗くなってしまう。
後ろから掴まれたままの腕が笑っちゃうくらい震えている。
「や、やめない……? やめて」
震える懇願を遮ったのは自分の喉から出た叫び声だった。一瞬遅れて腕の傷口が包帯ごと抉られているのを見た。熱い。勢い振り払おうとした腕が変な風に拗られて耳元で肩が壊れる音を聞いた。
「い、いや! やだ! はなして、い、痛ぁ……」
「健気だな、ずっとあそこで一人で暮らしてたのか?」
ささやき声に背中が泡立つ。言葉には一種の情、みたいなものが感じられて。
それはこのシーンにそぐわないものだ。こんな、肩、いたい、ちみどろの場面には。お腹の縫い目に指が潜り込んで押し広げる。私の悲鳴にも構わず寂しかったろう怖かったろうとまるで同情したように、中身が、中、出ちゃうのに。
子供のように泣き叫ぶ声もまるで聞こえてないみたいに。
血でべたべたの手が顎にかかる。上を向かされると、いつもとなんにも変わらない顔が見下ろして「そのトモダチってこんな顔じゃなかった?」
息の詰まるような、あ、もしかして、最初から私――
***
前の時は、と雑談まじりの食事が続く。夕食になってるのは相手だがまあまだ耳はきこえるだろう。
「ノーフェイスの野郎からいいとこで呼び出しがあったんだ」
ソファーの上に倒れた彼女の腕は男の肩に引っかかったまま突っ張られて固まっていた。返事か悲鳴か、食い破られた喉からはひいひいと空気の抜ける音ばかりが響き、飛び出した血管が鼓動に合わせて規則的に血を吹き出す。安い革張りの座面が軋む度に、ぼたぼた大げさな音を立てて床を赤く汚していく。それに気がつくともったいないとばかりに血管から直に血を飲み下し、飽きたら骨を削るように深く歯を立てた。
開ききった腹の傷を抑えて中身を戻そうとする健気な手を一層愛しく思うと、それを引き剥がして真逆に折り曲げる。弱々しい動きがまだ逃げるための姿勢をとるのが、男の衝動性とまるで対照的だ。
首の周りをすっかり平らげた彼の顔は、自分の肩に引っかかったほうの彼女の腕に向く。この期に及んで根性の悪い相棒に呼び出しを食らうこともなく、今度は最後まで付き合ってやれそうだ。彼は機嫌よくそれと手を繋ぎ、肌の色がお揃いになっていることに満足して覆いかぶさるのだった。
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