穴
甲高い声を聞くのもこれで何度目になるのだか。とはいえ放っておくのも寝覚めが悪く、結局やることはひとつだった。
これも十日おきばかりの習慣になりつつある。絡んでいた悪漢を追い払ってやると、彼女はとがった犬歯をみせて「またお兄、お姉さんだ。元気?」などと笑うのだった。予想される年齢に似合わぬ、屈託のない笑みである。お礼にデートしようとひっついてくるのを引っ剥がして事務所へ向かうのが常だった。
「子どもにつきまとわれてる? 今度つれておいでよー、ご飯多めに作ってあげるよ?」
探偵に言えばこうである。子どもといっても十七か十八かそこらの娘をつかまえて餌付けしてどうするんだか。食い意地の張っていそうな外見ではあるけども。
彼女はどこかの研究所から逃げ出してきたのだそうで、いわく目に付く機関には頼れないから一人で生活している。できているようには見えないけども、当人はそう言い張っているので、そうなんだろう。呆れながらもなついてくるのをむげにできずにいたのは確かである。
そんなだから、報酬もないのに犬を探してやるはめになったり人を捜してやったりする羽目になるんだ。
うっかり自己回復を切らしたところに深手を負ったのも、そんな自分の悪癖によるものだった。何度目かの口汚い悪態とともに、感覚のない右肩を壁に押しつけた。表面を根こそぎこそぎとられた真っ赤な腕。痛覚もあらかた持って行かれたらしい、おかげで血液不足に気づくのが遅れてこのありさまだ。
視界が縦に滑った。さすがに倒れたらしい。これではドクターのところまで歩いていくのも無理か。細い足首が、目の前で立ち止まった。
「お姉さん?」
聞きおぼえのある声であった。
その細い腕のどこにそんな力があったんだか、行き先を告げると律儀に引きずってきたらしい。次に目をさましたのはラファイエット女史の診療所だった。
「こりないな」
「そう思います」
直径が三センチばかり細くなっていた右腕はとりあえず神経もなにもかも元通りで、ほかもあらかた修復済み。あとは来客用の丸椅子に座らされた少女が目に付いた。湿布まみれの両腕を半泣きでさすっている。
積まれた資料に機材の山の向こうで、ベッドから起きれば辛うじて姿を見ることができた。握りしめたままの右手を開く。くだらない怪我をした甲斐はあったらしい、シンプルな指輪をまた握りなおした。
「どこぞのシスターじゃないが人徳ってやつだな」などとちゃかしてみせるドクターの言を聞いて、思わず眉間にしわを寄せた。
「冗談じゃないですよ」
「なつかれたくなかったらもっとそれらしく振る舞うんだな」
奥へ引っ込んだドクターを見送って帰り支度を始めると、ややあって少女が遠慮がちにこちらへ寄ってきた。
勢い抱きついてこようとする頭を押し返す。癖のある金髪が手の内側でくしゃと音を立てる。唇をとがらす少女をなだめるようにそのまま軽く撫でて放した。
「大丈夫?」
「おかげさまで」
「そう! よかったあ。ね、これで借りがひとつ、」
「借りがひとつできましたね、不本意ながら」
「……返せたと思ったんだけど?」
不審げな彼女を見返す自分の顔は、ここ最近でも指折りの不機嫌さだったろう。
なんだってあの程度を貸さなきゃいけないんだ。
***
借りを返すにあたって。
名前を教えろといわれても発音できないし、お金は元手があってもうまく使える立場ではないし、と言う。それならほとぼりがさめるまでうちで寝泊まりをすればいい。そういうことになった。一人暮らしのわりにマンション住まいなので、一人くらい居候がいたって大して変わらない。
家に戻っても食うものはなにもないので、夕飯は適当な店を選んで入ることにした。
彼女は、大した大食いだった。注文したものを片端からひとりで平らげる様は圧巻だ。人と食事をすることなんてそうないが、たいていの場合自分は座っているだけでなにもしない。今回も同じだ。文字が読めない彼女の代わりに適当にオーダーをして、来た料理を片端から彼女のほうへ差し出す。探偵にああ言っておいてなんだが自分でも餌付けしているみたいだ。
好き嫌いはないらしく、果物だろうが肉だろうが口を大きく開けて放り込んでいく。女の子なんだから慎みをもてよ、と時折小言のようなものを言う友人はこんな気持ちなのだろうか。多分ちがうだろうけど。
そう急いで食べなくても、誰も惜しんだりしないのにな。
でも自分で稼ぐあてが少ないならそんなものなのかもしれない。今日を逃したらもうなにも食べられないとでも言うように。
あんまり嬉しそうに食事をするので、なんとはなし、目が離せずに眺めていた。とん、とん、とん、と、体の内側で鳴る妙な音を聞くともなく聞いていた。
「お姉さんは食べないの?」
と申し訳なさそうに聞かれたのは、会計に向かう頃だった。
持って帰ります、と言うのを、探偵は変な顔で見返した。声を出す代わりにエプロンの紐が肩からちょっとずり落ちる。
「なんですか」
不本意ながらこちらから聞き返すと、ようやく我に返って笑ってみせる。
「いや、いいけどー。おなかすかないなら無理に食べること、あっ」
そこで、手を胸の前で打ち合わせる。合点が行ったという風に。
「もしかして、好物だった? もっとほしいとか後に取っときたいとか!」
「そんなわけないでしょう」
なるほどそういう勘違いをするのか。じわじわ顔面に上ってくる熱を排熱孔から追い出しつつ、間髪入れずに否定する。
とはいえ辛抱できずに撃ち殺した後で持って行くのは強盗じみていて気分が悪い。テーブルに並んだ夕食をステンレスの容器に移し替える手元を眺め、ふと「……まだあるんですか」などという言葉が転がり出ていた。
「あるよ? 持ってく?」
「そうします」
「じゃあなにかな、犬か猫か拾った?」
「そんなところです」
彼はまるで弁当でもこしらえるように花柄の包みを用意して押しつけながら、「命の恩人によろしく」などとあの胸くそ悪い笑みを向けるのだった。
***
帰ると部屋が明るい。電気がついているだけのことにどうにも慣れなかった。掃除するほど自分では家に戻らないが、いつも家にいる彼女は暇つぶしに掃除をしているらしかった。
シャワールームも壁も見違えるくらい明るい色になっていたが、別に壁紙を変えたわけでもなく。少女にいわく「物置みたいな部屋ね!」そりゃあ寝に帰るだけの部屋だったから言うだけ野暮というものだ。
いない間は勝手にしろと言いおいているが、たいていは部屋で暇をしているらしい。たまに缶詰やなにやら買い置きしては食べていた。大食らいは生来の性質らしい。育ち盛りはそろそろすぎる頃だろうに。それを口に出して言ったら拗ねられたけども。
ともかく、彼女はこちらの仕事に干渉せず、こちらも彼女のやることに関わりを持たず。同居はそこそこうまくいっているようだった。
食べ物を見て足を止めるようになった。らしくもなく、それをほおばる彼女の姿を想像しては買って帰る。あるいは、入ったことのない店へ連れて行く。
彼女が大喜びする様、自分の想像した通りの顔で食事をするのを眺めるのが日課になっていた。
すすり泣くような声が聞こえた。
耳を傾けると、それはベッドの上から聞こえてくるものらしい。何かにおびえているみたいな嫌な声。たびたびあるこれだけはどうにも好きになれなかった。
床で寝ていた体を起こし、近くまで寄ってみる。少女の姿は探すまでもない。マットレスの隅に細い背中を丸めて泣いていた。やや強い雨の音に埋もれて嗚咽が響く。
「寝苦しいですか」
照明のスイッチへのばした腕を掴まれる。起きてはいたらしい。
「だいじょうぶ」
怖い夢でも見たんだろう。とはいっても、これ以上の言葉は特に思いつかなかった。
慰めたり励ましたり、そういうことに向いている性質ではなかった。ただ、彼女が腕を離さないので、落ち着くまで隣に座っていることにした。
ベッドマットがきしむのにあわせて、軽く少女の体が跳ねた。
「大きな穴に落ちる夢を見たの」
「そうですか」
「そう、それで、すごく喉が、かわいてて……さっきまで台所にいたの。おなかいっぱいになるまで水を飲んだのにまだ喉がかわいて、苦しい、不安でたまらなくなるの」
それは体の症状だろうか。不安のほうが大きいのだろうか。未だにかける言葉を思いつかないでいると、少女はややあって腕で顔を拭った。やっと自分が泣きやんでいないことに気がついたらしかった。
これでは当分寝られないかな、と他人事に考えていると。
唐突に、その細い体が胸に飛び込んできた。背中にきつくその両腕が絡んだ。
どっ、と、妙に重い音を胸の内側で聞いた。
木偶のように硬直した体に体重を寄せて倒すのは簡単だったろう。怖がるように、その柔らかい指の先が背中を滑る。なぞられた線上に広がる痺れ、引きはがそうとした手は彼女の肩に触れたそばから脱力した。
薄っぺらい肩の上で指先が縮こまる。
「な、」
「なまえ教えてよお姉さん」
まだ泣いているように、その声はかすれていた。間近で見下ろしている目が深く星の海を映して揺れた。
喉に唇が触れる。熱い息を受けたところが麻酔でも刺されたように冷たくじんとする。一瞬息が詰まるような錯覚をうける。
「呼びたいよ、呼ばせて」
懇願するような声が、満足に力の入らなくなった手に指を絡めて言うのだった。
***
「助手ちゃんネコ飼いはじめたって?」
「は?」
ホロコーストの気まぐれはいつものことだ。今回はいつもにもまして脈絡がない。出会い頭に挨拶みたいにそんなことを言うので一瞬考え込み、それからあの探偵が話したのかと思い当たる。
今日は機嫌がいいようだと見て、後ろに立つ彼女を示す。ちょうど夕飯に向かうところであった。
「居候が増えたんですよ。しばらくね」
「あっ、ふーん」
「なにか察した風な態度をするのをやめろ」
「えっ、違うの? いいケド。なにじゃー飯? 俺も行っていい? 助手ちゃんのおごりな」
「殺しますよ」
***
近々、ある研究所が取りつぶされることになった。ニルギリへの依頼は、逃げ出した不良品の回収である。ひと月ほど前にも同じ場所から依頼があったことは記憶に新しい。
この間は犬であった。事故で形見の指輪を飲まれたという別件の依頼人に同情した助手が、深追いしてひどい傷を負った。
「あの犬、結局消えちゃったんですよねー。内側から穴があいて、吸い込まれるみたいに消えたとか?」
巻き込まれて右腕の表面を持って行かれた助手にいわく。苦しみだした犬を取り押さえ、一息ついた時にその胴体に穴が開いたのだという。その拍子に見つけた指輪を掴むべく手を突っ込んだのだから笑えない。
ニルギリのことをたびたび「損得勘定のできない不具者」などと吐き捨てるが、彼女にだってそのような側面はあるのではないか。
「ごらんになった通り、当研究の成果物はそのうちすべて同じように消えてしまうでしょう。それまでに可能な限りデータをまとめておきたいのです」
「どういうものを目指してたんです? これ」
「疑似的に小型のブラックホールを作る実験ですよ。動物の細胞やその関係をして宇宙にたとえることがあるでしょう? それに、遺伝子の形はそうした穴を作るのに相性がいい」
年々増している、おそらく今後減ることはないであろう廃棄物による汚染を止める目的だったという。偽善も積めば何らかの徳になりはしないかと。
それがどんな犠牲の上に成り立っていても。
***
「よく食うな。育ち盛りってヤツ?」
「でしょうかね」
「なに?」
雑に三等分したステーキをフォークで刺した少女が顔を上げる。いいから食ってろとぞんざいに手を振ってやると、ちょっと不満げな顔で肉にかぶりつくのだった。
ホロコーストが一緒にいるので大皿をとって三人でつつくという体裁を取っていた。存外にこれは彼女にとって嬉しいようで、食べる量は普段の三倍くらいに増えている。財布にはあまり嬉しくない。
実際のところ食事をとっているのはホロコーストと彼女の二人だけだが、まあ目くらまし役がいるのはいいことだ。どうせ自分では小皿に一皿も食うかわからない。
いつもの調子で、彼女が夕飯を平らげつつある様を眺めていた。サラダ菜の上の揚げ物を平らげてゴマ団子の山へ手を伸ばすところであった。ターンテーブルを少し回してやるとお礼代わりに笑いかけて手を合わせる。
笑顔のはしに犬歯がのぞくのをじっと見つめていた。
「なに見てんの?」
「ああ、ええ。癖で」
ホロコーストはもう食いあきたのか、テーブルの上に足を載せて椅子の背にもたれていた。勝手に頼んだ蒸留酒をグラスに注ぎながら少女のほうへ目を向ける。
「飽きねえ?」
「自分でも不思議でして。彼女がああして幸せそうに食事をする姿とか、触られたりすると」
ど、と、思い出したように胸の内側から殴りつけるような鼓動を意識する。
「変な気分になるんです」
ごはっ、とすごい声がした。
隣で死に損ないの友人が死にかけている声であった。椅子から落ちてしきりにむせている。酒が変なところに入ったらしい。
「大丈夫ですか?」
「一瞬花畑が見えたが大丈夫かってそりゃこっちのセリフだ」
「はあ?」
何度かせき込んで落ち着いたらしい彼は、ようやっと椅子に座り直すと先よりもまじまじと少女のほうを眺めていた。
彼女のほうは、ゴマ団子の山をつい先ほど平らげたところであった。
「デザート頼みますか?」
「い、いい……? でも太っちゃうよね……」
「今更気にすることですかそれ」
「うっ、うん。いただきます」
遠慮がちな言葉とうらはらに、表情はすぐに崩れて幸せそうな笑顔になる。
そこから、ついとこちらを向く三白眼「助手ちゃん年下好みだったんか」と信じられないような顔をする。
「さあ……」
相手の顔を見ないようにして曖昧な返事をした。我ながららしくない返しだと思う。手持ちぶさたな手が、自分の喉のあたりにのびた。
変な気分になる。
「でもそうですね、あなたがよく話題にする恋とかいうのによく似た症状だと思っていたので」
「あー。あーあー待てよ助手」
「なんです」
「魚が禁句なのは知ってんだけど、あれって」
椅子が倒れた。
右腕にホロコーストがぶら下がっている。ぎょっとしたような視線が周囲から集まっているのに、一瞬遅れて気がついた。排熱孔がまたうるさく音を立てていた。顔が熱い。
襟首を掴まれてつま先立ちのホロコーストはなおもこちらではなく、少女のほうを眺めていた。当人は、音に驚いて目を丸くしているのだった。
「離せよ、雑談だろ? え?」
「雑談のネタも相手を選ぶべきですよ」
「選んで言ってんだよ」
左腕ががたがた震えていた。しらけていたホロコーストの顔は口端をつり上げてこいつが散弾をぶちまけるのを待ちかまえているようだった。
結局煽られれば乗ってしまうのが自分の悪いところだ。キレて脳髄とはらわたをぶちまけて店から追い出されるのにそう時間はいらなかった。路上での喧嘩が一段落つくまでさらに時間を食ったことは言うまでもない。
最初の数発でさんざん少女を怖がらせたのを反省して殴るだけにとどめたことはほめてほしいくらいだ。ネクロソーマを相手に加減などそうそうしない。
去り際、思い出したように倒れたままのホロコーストが腕を引いた。
「そうそう助手ちゃん、その変な気分ってのはよ――」
底意地の悪い笑みが見上げていた。
――恐怖。
数日に一度ただ「苦しい」と泣いて甘えてくるだけの少女になにを、覚えているだって?
スプリングの軋む音を聞いて、思い出したように握られた手をほどいてみようとしたが、結局弱々しくもがく程度の力しか出せない。
口づけの合間に甘噛みされる舌が感覚をなくすように動かなくなるのも、鼓動の早さに呼吸が追いつかずに苦しいばかりなのもこんなか弱い子どもを恐れているからだとでもいうのだろうか。
震える手で細い手を握り返す。
絡まった足はいつも逃げ場を探して膝を立てては、崩れ落ちて達するままに身じろいだ。
すすり泣くような声の合間に少女は、「どんなに食べてもたりない」としきりに訴えていた。
身動きもできないほど、
彼女がものを食べる様が恐ろしかったのだ。
***
食欲と性欲はわりと互換性があるって話だよ、と言うのは、今朝唐突に訪ねてきた探偵である。
性欲と食欲が逆転しているような手合いに言われたらおしまいだと思う。血みどろの玄関からは目をそらしている間に、削り取られた体の応急手当は済んでしまったらしかった。
「どうしてここに?」
「仕事だよ、ほら、犬を追っかけたときと同じやつ。君の飼ってた猫、道理でよく食べるわけだ」
憐憫の混じった笑みが癪に触った。目の前が真っ暗になった一瞬で、床もべっとりと血みどろになっていた。そういえばあの時も体内に仕込まれていた発信器をもとに探したのだった。本気の犬と競争してこの男がついて来られるわけがないので、あんな顛末になったのである。
いっそもっと早く来ていれば、
「おまえもあの穴の中に放り込んでやったのに」
自分でも笑えるくらい恨みがましい声だった。
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