相克するコンプレックス


 毒倉らわば皿までなんていうが、結局皿なんて消化しようがないってことだ。
 何回か、理不尽に頬をはたかれたことがある。女性が苦手なのがそれに由来するわけではないが、それも拍車をかけた一因には違いない。あの探偵が誰とどんな付き合いをしようが自分の知ったことではないが、その恋人はそうでもないらしい。あの男が憎悪をあちらこちらに買いに行くのと同じ要領で愛想を振りまくのは知っての通りで、そういった態度は現在恋人をしている相手にはひどく不満に思える……らしい。
 死に損ないの友人にいわく「助手ちゃんだってよくジェラってんだからわかるだろ?」わかってたまるか。
 なんだって冒頭からそんな話題なのかと言えば、単純にいましがた頬を張られた怒りを逃がすあいだ自分に言い聞かせるためのものにほかならない。そりゃあ彼女にだって言い分はあるだろうが、彼を殺したわけでもまして事務所の中でもなく、道ばたでばったりはち合わせたくらいでどうしてひっぱたかれなきゃならないのか。第一ここにあの男はいないのである。
 彼女は潤んだ目でひとしきりこちらを睨みつけると、地団駄を踏むように二度、三度地面を踏みつけて「なによ!」と怒鳴った。なにって、それはこちらのセリフだ。
「男が好きならそう言えばいいじゃない! なんで教えてくれなかったの!」
 別の修羅場に出くわした帰りらしい。
「存じませんでしたので。教えてやるような仲でもありませんし」
 そういえば以前の捜査で友人になった専門家だかが遊びに来るとか言っていたのは今日だったか。助手さんもたまには一緒に遊びに行かないかとか何度か誘われてはいたが、なんだ、二人だとそういう仲だったのかと他人事に考えていた。
「うっ……」
 最悪。
 ぼろぼろ涙をこぼし始めた彼女を見下ろして浮かんだのはこの二文字だった。なにをしたからこんな目にあわなきゃならないんだ、彼女だってそう思ってることだろう。ただ公衆の面前でこんなことをやられて好奇の目にさらされるのはこちらのほうだ。
 珍しく雨の降っていないストリートを行き交う人の足は喧嘩なんぞに目もくれない。見慣れているのだ。
 それだけに痴話喧嘩らしい単語が飛び出したせいで一瞬こちらへ向いた視線の居心地悪さと来たらない。ついでに誰でもいいから痴話じゃない喧嘩をもってきてほしい。
「あれは死んでも治りませんよ。こちらに怒りを向けられても困りますし。恋人でもなんでもないんだから」
「しって……るもん……」
「ご存じでしたら当たらないでもらいたいですね。殴り合うのは好きですが殴られるばかりは愉快ではないので」
 彼女はなぜだかひどく傷ついたような顔をしてこちらを見上げていた。

 それが、だいたい一週間ほど前のことだ。それからこっち、彼女は顔を見せなくなったという。
「愛想つかされたんじゃありませんか」
「そう? 君くらいじゃない、飽きずに通ってくるの」
 血をぶちまけてべたべたになった絨毯は、彼の歩く下で柔く沈み込んではじくじくといやな音をさせた。
 簡単に着替えを終えて仮眠室から出てくるなり、
「ところで小さい子の喜びそうなおみやげってなにがあるかな?」
 懲りずにそんなことを言うのだった。
 出先から一度連絡があったようだが、無視してその日は家へ戻ることにした。どいつもこいつも勘違いしているようだが、別にあの男の助手としてここにいるわけではないのだ。

 だから、翌日それを見たときには、心底理不尽に腹を立てていた。緊急性のある連絡ならばもっと別の場所に寄越したらどうなのだ。
 それ――その、事務所の前で立ち尽くしている子ども二人。兄らしいほうがおずおずと顔を上げて、「じょしゅさん?」と消え入りそうな声で言うのを、どう否定しろというのか。泣きはらした目が無駄に罪悪感をあおる。あげくあの探偵ときたらこんなときに限ってこちらからの連絡には一切反応しやがらないのである。どうせまた面倒ごとに巻き込まれたのだ。
「ええ。なにか……入りますか」
 手は素早く玄関のロックを開いていた。どうやら長い時間外で過ごしたらしいと見てとれる風体に、少なからず動揺していた。
「いい、ちがう、あの」
 その子どもは、ちらとそこに膝をかかえている下の兄弟を見て、またこちらへ顔を向ける。
 見れば、小さい方は泣き疲れて眠っているふうだった。
「おかあさんがいないんだ」

 彼らの言うことはこうだ。
 最近ランドリーで知り合った親切なお兄さん(あの探偵のことだ)がおみやげにとお弁当をくれたのでおなかは空いていない。一人親の母に頼まれて洗濯物をすませて帰ってきた兄弟を、先に家にいたらしい彼が事務所にいてほしいと追い返した。仮に今からことに及ぼうという場面でも、子どもが帰ってきたら一緒に遊ぶほうを優先しそうな男が?
 助手がまだいるだろう、そう言い含められたが生憎頼みの助手は帰った後で、兄弟は仕方なく外で適当に遊んで時間をつぶし、道ばたのベンチで夕食にともらった弁当を食べて、家に戻ることにした。
 それで、彼らの見慣れたおかあさんは、そこにはいなかった。
 具体的には、見た瞬間扉をたたきつけるように閉じた。これは自分の行動だ。子どもたちを事務所に置いてきてよかった。
 ひとしきり吐いたあとで、あの男を何回殺したら割に合うか数えたがそれに意味がないことに気が付いたころには目の前がちかちかするような頭痛もとりあえずは通り過ぎていた。
 人の体をそれとわかるように切り分けて皿に載せる無体を働く輩があの男以外にもいるんだろうか。あの男がやったのでも納得がいく、いかない。あいつは食べる為に加工をするがあれはとてもじゃないが食えない。ようするにそういう状況であった。
 先ほどからしつこく連絡を入れているが、すべて悪質なウイルスソフトだかなんだかにはじかれているらしく。悲しいかなそういうものの対処は自分ではからっきしであった。

 放心状態の子ども二人を預けに行くにはどこが適しているか、クロードの紹介で向かったのは教会である。曇りのない慈悲で皆に慕われているというシスターは、やっぱり子どもだった。
 預けるからには子ども扱いなどするべきではないだろうし、兄弟の親について手短に説明をした。彼女はいたましい表情で目を伏せて聞いていたが、ややあって、うなずいた。
「あのふたりは、探してしまったんでしょうか」
 なにをとは言わなかった。
 胸の前で堅く組み合わせていた手をほどき、未だ幼さを残すシスターの顔は、そこに十も年を重ねたような笑顔を浮かべてみせるのだった。

 たとえば、あの兄弟の家の台所でならば、もっとなにか手がかりがあるのかもしれない。が、あの台所で自分がまともな判断力を保っていられると思えなかった。見た瞬間視覚が仕事を放棄するのだからどうしようもない。
 話を聞けそうなのはあの兄弟と、せいぜい最近まで恋人をしていたやかましいあの少女くらいだろう。
 思い立ってから彼女について調べるのにそう時間は要らなかった。あの家の死体についてはラファイエット女史に頼んで、自分は探偵が手帳に書き付けている予定の中から女の名前とデートの予定だけピックアップしてIDをさらう。こまごました地味な作業も、日々押しつけられていた雑務の中ですっかり慣れていたらしい。
 足を運んだのは若者が数人で暮らすシェアハウスだ。アパートを借りるほどの金もないか、遊びに全財産つっこんでいるんだか、まあそういうたぐいの人間ばかり。けだるげな同居人にいわく件の彼女は、数日前から帰っていない。
「もっと具体的にいつ頃か覚えてませんか」
「さあ。一週間くらいじゃない?」
 少女は、夜は仕事だから、と手を振って扉の向こうへ引っ込んだ。ぱったりと途絶えた手がかりに立ち尽くしたまま思いを馳せていると、急にまた扉が開いた。
 先とは別な、今度は青年が顔を出して、肩越しにちょっと部屋の奥を見やる。
「アニーのことだろ?」
「一週間ほど出ていって帰らないとかいう」
「そう、そいつ。めそめそしてたんだけど、出て行くときはやけに怒った顔してたんだ。浮気がどうとか言ってたしそれじゃないかと思うんだけど」
 犬も食わないからほっとけ、というありがたい助言であった。「そうですね。ありがとうございます」
 彼は特別こだわることもなく、そのまま扉を閉めるのだった。

   ***

 昔っからなんだけど。
 俺はとかく一人前にはなにもできない奴だったんだ。
 文字なんかだいたい一画ぬかしちゃうし、力は強いけど加減もよくわからないし。体はでかいけどよくぶつける。大人になったらなったで、間違えてアパートのワンフロアまるまる借りちゃって大慌てした。
 一つくらいあるだろってみんな言う。あるよ、小さい頃から毒とか好きでよく情報漁ってたんだ。薬物の扱いに関したらちょっとしたものだ。でもそれを言えば、今度はみんな気持ち悪いものを見るみたいにこっちを見る。
 だから、それをほめてもらえたことがこの上なく誇らしく思えたんだ。
 その、特技って奴。警察にだって出所がわからなかった毒の扱い方と作り方を俺は知っていた。だってそればっかり趣味でやってたし、それが今の仕事だ。研究なんか下っ端もいいところだが、たまに変なルートから依頼と臨時収入が入る、そんな仕事。でも、変なルートで俺に依頼をした奴らだって、結局気持ち悪いものを見る目つきだけは変わらなかった。
 調査のために持ち込まれた毒物について俺のする説明に目を輝かせてくれるような人間が現れるなんてついぞ思っていなかった。

   ***

 ニルギリ探偵の朝は安物のソフトによるハッキングを解除することから始まる。いつもじゃないがまあごく稀に。
 起きてたんだ、と言うのは聞き慣れた恋人の声だった。先生、と人なつっこく呼ばれることをニルギリは案外気に入っていた。
 いつ見てもぼさぼさの焦げ茶の髪に目元まで隠れている青年の風貌は、大型犬を彷彿とさせる。
「おはよう、俺いつここに来たっけ?」
「倒れてたんだ。昨日。どうせだから驚いてもらおうと思って事務所じゃなくてこっち」
「なるほど驚いた」
「だろ?」
 いつ見ても雑然とした室内だ。窓はずっとカーテンで締め切られているが、今朝はどういうわけかその向こうからの光がまぶしいほど。それも、散らかった床を照らすばかりだが。
 生活用のこの部屋はまだましなほうで、奥へ行けばもう古代の錬金術と近代の科学とごっちゃになったような実験器具や計器のたぐいで壁から天井まで埋め尽くされている。
「この間だいぶ古い毒の生成法を見つけたとかはしゃいでたっけ? あれどう?」
「そう! それな、できたんだよ先生、聞いてもらいたかったんだ!」
 尻尾があればそれはもう大きく振れていよう、長い前髪の間から時折のぞく目は少年のようにきらきらしていた。
 資料を取りに行こうとでもしたのかきびすを返す足下で、出しっぱなしのスプレー缶やガラス容器が耳に痛い音を立てる。
 自分もと立ってついて行こうとしたニルギリの体が傾ぐ。あ、と声を出すよりも、その場に崩れ落ちるほうが早かった。
「せ、先生?」
「あ、気にしないで大丈夫。なんだろう今の?」
 一瞬ふっと暗くなった視界、それと妙に重たい体。どうもこれ以上動きそうにない。青年のほうもそれとわかると、彼を抱え上げてベッドに戻した。
「仕事疲れじゃない? 俺も寝てないとろくに立てなくなるとかあるし。まー先生ほど軽くないから倒れたら放っとかれるんだけどさ!」
「それもひどい話だねー。軽くてよかった」
「じゃ、毒の話後にしよう。俺も少しは自炊とか? できるようになりましたし?」
「へえ」
 腕まくりする青年を見上げ、「珍しいこともあるね」と笑ってみせた。

 めまいを伴う疲労感は、ニルギリが目をさます度に同じようにのしかかってきた。血が毒でできてるような人とは思えないなと看病する青年はどことなし嬉しそうにしていた。
 違和感は部屋の明かり。
 ニルギリがベッドから体を起こすとちょうど正面にくるその窓を見つめるようになったことに、彼はまったく気づかない様子であった。だから、

   ***

 相も変わらず、探偵への連絡はつかない。妨害がなくなったと思ったら今度は無視されているらしい。ほかの事情が混ざっていなければとうに探すことも放り投げているのに。いや、今だって。
 別に、あの男のことに自分が責任を持たなきゃいけないわけではないのに。
 そう考えると、またやり場のない怒りがこみ上げてくる。
 大股に、またあのシェアハウスに向かっていた。そこ以外に行きようがなかったのだ。
 改めて、出てきたのはこの間あのありがたい忠告をしてくれた青年である。
「お姉さんまた来たの、入る?」
「いいえ。アニーって言いましたか、彼女は帰ってますか?」
「いやぜんぜん」
「そうですか」
「よくあることだって、惚れっぽいからすぐ相手のとこ通って振られて泣きながら帰ってくんの。放っとけばそのうち戻ってくるし、なんならオレ連絡してやろうか? 帰ったら」
「いつもなんですか」
「そうそう。なんの調査かしらないけど、あ、浮気調査とか言う?」
「まさか。別件です」
 浮気。ふと引っかかって話すのもやめてしまう。不審げに見つめてくる青年の視線を受け流し、それから右手で顔を覆って思わず深いため息をついた。
 浮気といったか。そういえば彼女が姿を見せなくなった=帰らなくなったちょっと前に顔を合わせていたじゃないか。例のバラバラ死体の動揺があったとはいえ、よくも忘れていたものだ。
「大丈夫かよお姉さん顔、左腕と同じ色してんだけど」
「大丈夫です。ええ、もうひとつあてがあったのを思い出しただけです」
 彼が中へ戻ったのを見て、自分もきびすを返す。いつもよりもやや歩幅を大きく。そうでないとどうにも頭がぐらぐらしていけなかった。
 こともあろうに時系列につられて一瞬、雑に切断されて皿に盛られた死体の山を思い出してしまった。
 そう、それはそうとあの男だ。研究者だか専門家だか。ちょうどそいつが事務所に来ていた日だったじゃないか。
 出会い頭にひっぱたかれた時と同じく、彼女が喧嘩をふっかけに行った可能性は大いにある。前回同居人もそんなことを言っていたし。
 幸い、彼の住所は知っていた。自宅からそう遠くない安アパートだ。
 あの探偵の捜査の途中に世話になったとき、一緒に訪れたことがある。足の踏み場もないギークの部屋だった。それでいて、当人は天井に届かんばかりのでかい体。毒物って皮膚に着くだけで危ないものもあるんじゃないか、当時はそんなことを考えて密かにはらはらしたものだ。
 予想に反して。
 旧式の鍵は開きっぱなし、玄関をあけると中はがらんとしていた。
 入ってすぐのところにかろうじて立っていたテーブル、その向こうにでんと置かれていたベッドに、足下に散らかり放題だったがらくたのたぐい、そこにはなにも残っていない。
 入ってすぐ左手にある窓は、カーテンも取り払われている。ガラスの向こう側を、隣り合うビルの、むき出しのコンクリート壁が妙な圧迫感でもって埋めていた。
 そして、研究用の機材が山と積まれていた奥の部屋。
 ほかのものより分厚く加工された扉だけはそのままだ。開けた瞬間、ひどいにおいに思わず腕で顔を覆った。このにおい――下を見るまでもなく。

   ***

「引っ越した?」
 ニルギリの笑顔に、一瞬彼は動きを止めて顔を上げた。
「してないけど」
「そうかー。この窓さ、東向きじゃないかと思ったんだよね。朝明るいし」
 青年は黙りこくって窓のほうを見た。それから、探偵の浮かべるあのいつも通りの笑顔。ただの世間話のような雰囲気であった。
 頭が悪いなりにいろいろ調べた成果自体は無駄になっていないようで、ニルギリはそれ以上追求せず「やっぱむりー」と大の字にベッドに倒れ込み、いくばくもたたないうちに寝息を立て始める。
 その腕に、青年はいつもの調子で注射針を差し込んだ。

   ***

 突き飛ばされた。
 濡れた床に足を取られてその場に手をついたのと、扉がしまったのは同時だった。一瞬遅れて、かしゃんとは錠の落ちる音。
 真っ暗になった。かろうじて、そこに誰か、何か、転がっているのだとわかる。冷たい感触が指先に触れた。ズボンに染みる液体と、柔らかい何か。
 暗視モードに切り替わった視界が、アニーの死体を映していた。外傷はなくてきれいなものだ。顔はあえてまじまじと見なかった。
 足下にぶちまけられた粘質の液体はどこから?
 じわじわといやな汗が額の際から染み出していた。あの、寒気と吐き気を伴う冷たい汗。息を止めて立つ。いささかおぼつかない足下は指先で床を掴むような心持ちで。
 扉を蹴りつける。一度。二度。びくともしないどころか力も入りきらない。自己回復も思いのほか機能しない。ここに長居をすると死ぬな、と直感した。やけっぱちにこの位置情報を探偵の電脳にぶん投げる。
 吐き気をこらえ、左腕の仕込み銃を向ける。散弾だがまあうまいことねらえば扉の錠くらい壊せる、はずだ。
 二度。三度。いくらか跳ね返った弾が肌をかすめた。ともあれ、体当たりするように扉を壊し、どうにか外へ転がり出た。なけなしの理性が気化するとまずいものじゃないか、と訴えるので、寄りかかるようにそこを閉じる。膝がおもしろいくらい揺れている。
 明るいところで見ると、濡れた服の染みは黄色がかった油染みのようだった。

   ***

 珍しく夜に目がさめた。なんだか大きな物音を聞いたような気がする。ニルギリはひとつ大きなあくびをしてがらくただらけの床へ足をおろす。何日寝て過ごしたのだか、まだ体は重たい。
 ハッキングがすでに解除済みであることに青年はもしかすると気が付いていないのかもしれない。助手の電脳へ連絡を入れてみるものの、どういうわけかやっぱりつながらない。
 あきらめて自分でどうにかするか、とふらつく頭を支えながら歩き出したとき、ようやっと回線が開いた。
「あっ」
「あれ、起きてたんだ先生? もう頭ぐらぐらしない?」
「まだ少し残ってるかなー。知り合いの医者にでも行ってみるよ」
「いいよここで治していきなよ。もう少しなんだから」
「もう少しって?」
「先生」
「うん」
「あの目つき悪い助手の人と俺とどっちが好き?」
「どっちも」
 打音。調子外れに鐘を鳴らすみたいな不快でヒステリックな金属音。

「なんだ今の」
 幸いにして倒れるよりいくらか早く師のもとへたどり着いたらしい。さすがに体がバラされて生体パーツがむき出しの状態で目をさましたことはこれが初めてである。
 へんな音が聞こえた気がするのが気のせいだ。今は気のせいだと思う。
 恐ろしいことに視神経は生きたまま眼球につながっているらしく、目だけが別の容器に浮かんで、台の上に寝かされた自分の体を俯瞰している。
「なんですかこれ」
「洗浄中」
「はあ」
 ラファイエット女史の反応はにべもない。いつものことだった。いつもと違うことといえば、ずいぶん重装備のうえ隣の部屋にいることくらいだ。
「まだ出てくるなよ。全部洗ってないから」
「そんなに厄介なものなんですか」
「あんたが調べろって言ったろ、例の――」
「はい」
 遮るようないらえに防護服の向こうから切れ長の目がこちらを見て、また背中を向けた。
「あの死因が同じものだ。こんな骨董品みたいな毒薬をどこで仕入れたんだか、そもそもこんなものがまだ残ってたのか」
「そんなに厄介な毒でしたか」
「昔戦争で使われてたっけね。テロとかにも。本来毒ガスとして使うものだけど布や木材、あと革だったか、そういったものに付着すると長期間滞留する。皮膚からも浸透するからマスクだけじゃ防げないのは私の格好を見たらわかるだろう」
 そんなものをどんなドジをふんで体中に浴びてくるんだこのバカは。そんなニュアンスを説明の間中ひしひしと受ける。
 その毒は、とかく今は「役に立たない」と打ち捨てられて久しく、せいぜい戦前の資料を漁れば出てくるくらいの代物なのだそうだ。それを、どうにか生成法まで見つけだして実用段階までこぎつけたのだろう。
「後ろから突き飛ばされたんですよ」
「冷静な顔して動揺するとすぐほかのとこがお留守になるな。悪いところだ」
「わかってます」
 自分の口がへの字にまがって文句を言うみたいに声を出すのを、まるで他人事に眺めていた。なんというか、そんなに顔に出やすいんだろうか。
 あの、大型犬みたいな男。彼があの少女を殺したとして、やっぱり自分も殺されかけたのだろうか。どうも、撃たれたり刺されたり殴られたりでなくては実感が乏しい。なんで……嫉妬?
 びっくりするほどくだらない考えが頭をよぎった。
「で、あんたその部屋、開け放してきたりしてないな?」

 考えを整理しようとすると、なんとはなし事務所のほうへ足が向く。いやな癖だ。いつか治さなければ。
 その玄関先に、小さな背がぽつんと立ち尽くしているのが遠目に見て取れた。あの子どもだ。兄のほう。この間と同じ、所在なげな目が、こちらに気が付いて見上げてきた。
「あ、助手さん」
 彼の手が、真新しい借り物の服を掴んだ。おびえた様子で、「弟を知らない? 犯人をさがすの手伝うって出てったきり戻らないんだ」と、怖気の走るようなことを口にした。

   ***

 殴られた側も、殴った側もお互いになにが起こったのか分からない様子でしばらく見つめ合っていた。ややあって、青年ははっとした様子で、倒れたニルギリの腕を引っ張り起こす。
「ご、ごめん」
「いいけどー、どうしたの」
「いや、最近つい……かっとなると手がでるっていうか」
 あんまよくないんだけど、と大きな背中を丸める青年に、当のニルギリは別に平気だからと笑ってみせる。その目はまたじっと窓のほうを眺めていた。
 青年は不安げにその視線をたどり、それから、外がまだ夜であることになにか安心したようだった。
「もう少しっていうのは?」
「俺がひとまず安心できるまでもう少し」
「殺人の証拠隠滅とか?」
「それは別に」
「あっ、そうなんだ」
「先生隅におけないからさ」
 その一言だけが、やたらとすねたような響きで床に落とされる。
「みんな勘違いする」
 青年は隣にどっかと座ったのを見上げる、ニルギリの肩を掴んで勢いベッドに倒した。
「俺もたぶん勘違いしてる」
「どういう?」
「両思いの恋人になれるとか」
「両思いじゃない?」
「ない。ないぜんぜん足りてない。俺は先生ばっかりだけど先生にはたくさんいるじゃないか。先生しか俺のことをほめたり尊敬したりしてくれないけど、先生にはほめてくれる人も尊敬してくれる人もたくさんいるんだろ?」
 うーん。どこかで聞いたことのあるセリフだ。あるいは毎日のように。
 彼の笑みをどうとらえたのか、青年はそのまま上から体を退かして立ち上がった。足下のスプレー缶を取り上げ。いつも顔中に浮かんでいるなつっこい笑顔はひとかけらもそこにはない。
「殺してやる」
「それは、俺を殺すんじゃだめなんだ?」
「なんで。俺は先生が好きなのに」
「俺も好きな人が死ぬと悲しいけどな」
 体を起こしてみる。相変わらずぐらついて重たいが、立てないこともなかった。青年は大股に玄関先に向かっている。その短い距離も、この体調ではそう簡単に埋まらない。
「だったら、悲しんで憎んで殺してくれたらいいよ」
「次は誰を殺そうと思ってる?」
「あの助手……あの人が一番嫌いなんだ。もう死んでると思うけど」
「そう? たぶん、生きてると思うよ」
 走って出て行く後ろ姿を見送る。
 ニルギリもそれを追うように、今しばらく動けそうにない体を引きずるように起こして玄関を目指す。
 迎えにきてもらうだけならば、昨晩送られてきた位置情報をそのまま投げ返してやるだけでよかった。

 銃声は無かったが、決着は着いたあとであった。
 北側の隅にある部屋の前。本来ならそこだけを、あの青年は自宅として使っていた。ほかの部屋は物置だと、これは、もしかするとニルギリだけが聞かされていたことだったかもしれない。
「南の角部屋でしたか。本当に、ほんっとうに」
 嫌になってくるな、と吐き捨てた助手の隣で、壁際にうずくまるようにして倒れている青年の姿がある。へし折られたらしい両腕は、体の下で変な方向を向いている。
「殺さなかったんだ?」
「スプレー缶に弾が当たるとまずいので」
「そう。よかったあ」
 うつむくようにして背負ったライフルから手を離したり握りしめたりを繰り返していたNN、そこでようやく彼へ顔を向けた。
 半端に開いた扉から目をそらすように。
「なにをしてたんです? いや、どうせ寝ていたんでしょう。貧血と低血圧だ。ぐらぐらするとか治らないとか。あなたなら致死量超えて血を抜かれたって死にはしないんだから。
 どうしてわかったかも教えてあげましょうか、笑えてきますよ。例の子どもたちの家にぶちまけられた血液の中にあなたのものも大量に混ざってたんです。あなたが行ったとき彼女は死んでただけでバラされていなかったんじゃないですか。あなたの血を隠すために死体をその場でバラしたんだ。それで、その間に再生したあなたを見てそんなくだらないことを思いついた。
 彼は、逆上してあなたを殺したんです」
 ふと。探偵の指が自分の首に触れる。喉を突いた刃物の感触を思い出していた。何か話をしようとしたようなおぼえはある。
 一息に、吐き出すように言ったNNはそれを見るともなく見たあと、歯を軋らせて傍らの青年へ視線を逃がす。
「なに怒ってるの?」
「なにに怒ってると思います? あなたですかね。注意散漫な自分でしょうね。そこに転がっている彼ですよ」
「全部かな」
 間髪入れず胸ぐらを掴んだ手が、ニルギリの体ごと床にたたきつけた。星がぐるぐる回っている。NNの目だった。
「なに泣いてんの」
「泣いてません。そこの彼も殺しません。警察に突き出せばしかるべき処理がされるでしょうし」
「君は」
 同じことを言うのに真逆だなあ、と振り下ろされる間際の拳を眺めるのだった。