肉の日


肉の日思い付き三題噺
「落とし穴」
「照明」
「幸せ」



 胡椒をふりかければたいていの味はごまかせる。たとえば何の肉だって味自体は悪くないし、強いてごまかす必要があるといえばやっぱり風味、形に限る。ウーパールーパーだって素揚げして食べられるけど、丸ごと揚げてあると罪悪感が先に立って食べられないなんて手合いはざらにいるものだ。
 それはそれとして胡椒の風味が好きだというのもあるのだけれど。冷蔵庫には自作のドレッシングがまだ余っている。サイバータカマガハラで出てきた醤油ドレッシングを真似してつくってみたものだが、これが案外出来がいい。
 夕食の準備が整うと、探偵はふっと肩を落としてため息をついた。
 窓の外にはいつもうるさい明かりのひとつもなく、当然事務所の照明も死んでいる。腕に覚えのあるものは復旧させるために、あるいは捨てられた上流のレストランやらなにやらを貸し切りで使うためにカテドラルへ突貫しているので、ストリートには雨の音ばかりがさらさらと流れている。ストリートの建物にだって予備電力くらい備わっているだろうが、設備が良いにこしたことはないのだ。
 今もってここに残っているのは世界そのものに何の期待もしていない者、諦めている者、あるいはこうして普段通りの生活を享受する余裕のある(あるいは異常な)者。もしくは終わりすら見る余裕を持ち合わせない者。
 彼がどこに属するのかは論じるまでもない。
 終わりは何の前触れも与えない。始まりもまた同様だ。だとしたら、今やることは予備電力で二人分の夕飯をこしらえておくことだ。そろそろ彼を殺しに、
 窓が割れた。
 なんの前触れもなくくる終わりの一つがこれだ。頭にあいた大穴から弾けて床に飛び散り、倒れたニルギリの上に影がさした。光量を補正された視界に、青白い手が一度痙攣するのを確かめるとNNは大きくため息をついて椅子にどっかと腰を下ろす。床に散った肉片がもとの場所へうぞうぞと戻っていく様を見ないようにしながら、彼女は肘をついて割れた窓のほうへ顔を向けた。
 一夜にして人が消え失せてしまったような錯覚すら覚えるようだが、遠くへ目をやればカテドラルエリアの一部には明かりがついたり消えたりと忙しくしている。遠くの光に縁どられて、なおストリートの闇は深い。まるでそこだけぽかり穴でもあいているかのようだった。あの向こう側へ行けば、喧嘩の相手など山ほどいるだろうな、と取り留めもない考えがうかぶのは今週に入ってもう何度目になるかわからない。
「窓、わざと割ったでしょう。もう直しにきてくれる人いないのに」
 珍しく不機嫌そうな声が挨拶の代わりであった。そういえば彼は事務所が壊されることを好まない。
 窓からはいましも雨が振り込んで、毛足の長いカーペットを濡らしていた。
「いい気味ですね」
「言うようになったよね」
 周囲の軽口を真似るのが上手くなったともいう。目立たないのをいいことに流しっぱなしの血はそのままに髪と服だけ整えて起き上がった探偵は改めて台所へ向かう。紅茶をいれてもコーヒーをいれても彼女の反応は変わらないので気分次第で自分の飲みたいものをいれて出すのが常であった。

 NNは特別捨て鉢になっているわけでもなく、淡々と毎日一度はニルギリを殺す。事実それまでのように気軽に弾をばらまくより殺意自体は上がっているが、といって慎重にやれば生き返らないのなら延々七年間もこんな努力を続けてはいない。その成果なのか、時折再生の速度が追いつかないこともある。たとえば、今もまだニルギリの頭は半分吹き飛んだままになっている。
 背水の陣とか窮鼠猫を噛むという言葉もあることだし、彼女の変化はそういった類のものだろうというのが探偵の見解だ。
 同じ手段を繰り返すことを狂気と呼ぶ向きがあるが、世界が終わる瞬間まで変わらぬ狂気を浴び続ける人間なぞそうそういまい。
「君は元の体に戻ろうと思わないの?」
 不意にそんな問いかけが向かいから投げられた。血の気のない肌は暗闇の中で一層青い。
「戻ってどうします。窒息死でもしますか」
「どうしてそういうこと言うかなあ。そうじゃなくて、宇宙空間ならあの体で生きていけるんだよねって話だよ」
「ああ。そうでしたね」
 手持無沙汰にしていたフォークが固い音を立てる。サラダ菜の葉を破ってガラスの器の底を叩いた。ゆるいカーブをひっかくように先端を押し付けながら。
「あなたのいないところへ逃げる理由が考えられませんけどね」
 なにせあなたを殺していない、と言外に付け足す。どう受け取ったのだか、視覚の調整を放棄した暗闇の向こうで、押し殺した笑い声があがった。
「童話や神話には、大きな魚に飲まれてしまう人の話があるんだ」
「神に逆らった罰だとかそういうやつでしょう。いいかげん知ってますよ」
「お、勤勉だねー。いいことだ」
「いざとなったらあの体で食い殺してやりますよ。――そうですね」
 サラダに混ざった肉の感触を、なにも考えないようにして飲み下す。近頃は肉料理が多いが、野菜より日持ちするのだろうからこればかりは仕方がない。
 味付けに違和感を覚えなくもなかったが、いちいち細かい違いなどわかるほど味わってもいないし。
「吐かなければ、そのまま殺せるかもしれませんね」
「吐かないだろうねー」
 ニルギリは知った風で、笑い交じりの否定をやんわりと投げるにとどめた。「君は残さずきちっと食べるから」

 そのころにはとっくに慣れてるさ。
 口の動きだけがそう付け足したが、あいにくとNNがそちらを見ることはなかった。