静寂にひらめく
雨の音が強い日であった。それだけでなく足音と調理器具の音もいやにうるさく聞こえる。NNはベッドの上に起きあがって、しまった、と誰にともなくつぶやいた。
またやったんだな、と今度は自分に対して思った。現に、胃のあたりがずっと鈍い痛みを訴えていた。
発端は最近ニュースになった話題だ。
ある技術者が殺されたということだが、犯人はとっくに捕まっている。技術者、メテウスはユニークな移植技術を開発した有名人だという。話を聞けば、それは「記憶を保持する移植技術」。
記憶というと語弊があるかもしれないが、腕なら腕。足なら足の記憶した持ち主の習慣や能力、技術を忠実にトレースすることが可能であるという。偉大な画家のタッチと技術をそのまま引き継ぐ腕。あるいはその目。ピアノを弾ける腕に俊足。その反射神経。心臓移植を受けた患者がしばしばドナーの嗜好を受け継いだのと同じように。
上流ではしばしば手足の「とりかえっこ」が流行したし、下流の者がそのために生身の体の一部を売るなんてこともあった。近頃はある程度その流行も落ち着いたようだが。
「君が死んでも、メテウスの方法で目を移植したらみんなそうなるのかな?」
そういうことだった。
ほんとうにあなたという奴は憎まれて殺されるんだったら誰でもいいわけだ、なんかそういうことを言ったような言わなかったような気がする。神経を逆撫でする技術はいつもながら神懸かっている。
いつもにもまして熱を持ったまま重たい頭を抱えて、体を引きずるように仮眠室を出る。探偵が笑いかけるのにもろくに答えず顔を洗ってダイニングに出て行くと、こつこつとテーブルをたたく音。
ニルギリが珍しく不満げにしているのを怪訝な顔つきで見て椅子を引く。
「なにか?」
と言ったつもりだったNN、眉間にさらに深いしわを刻んで口をつぐんだ。
ニルギリは、あらためて自分の口元を指さしてなにごとか口をぱくぱくさせている。
聞こえない。
どちらともなく、おそらくは疑問系でつぶやいた。
***
ラファイエット女史は事情を聞くとひとしきり腹を抱えて爆笑した後、数時間パーツをいじくり回して匙を投げた。どうせストレスとかの一過性だろうが、とうとう臓器だけでなく頭までプッツンするようになったか、笑えないぞ、と涙を浮かべて言うのだった。
笑ってるじゃないですか、とメモに殴り書きしてたたきつけたNNに、『これが笑わずにいられるか』と震える文字が返ってくる。理不尽である。
ともあれ原因は出し切れなかった熱の暴走とストレスで、計器と神経がいっぺんに狂ってしまったんだろう、そう結論づけられた。
『おもしろいネタだから是非もう少し詳しいデータがほしいな。調べてきて結果を私のとこに送って来い。やるだろうそのくらい、いつも世話してやってんだから』
……と。
半ば強制的に紹介を受けたラボで立ち尽くす羽目になったのはそういう事情である。
立ったのは座っているのに飽きたからだが、立ったからといってする事もなく。
そのラボは、ダウンタウンでもそこそこに大きなものだ。バイオウェア研究の下請けもしているらしいが、一方ではダウンタウンでも珍しくそこそこ良心的な治療を行う病院でもある。たまに患者が消えるらしいが、患者でなくても人なんて日常的に消えるものだ。
間違えて妙なとこに入るのもためらわれ、結局検査を終えて出てきたところの廊下で終始うろうろしているのだった。
とはいえ、灰色の壁もいいかげん見飽きてしまった。NNは出てきた扉を横目に見て、大股に廊下を歩き出した。
なにも考えず研究棟の奥へつま先を向ける。病院棟は辛気くさくて好きではない。特にこんな雨音と機械音ばかりの中に、人が声もあげずにうごめいている景色など。
少し歩くと、壁のない渡り廊下に行き当たる。
先を見れば別の道に面した入り口がある。そちらからも人の出入りがあるが、白衣よりも一般人のほうが多く見受けられた。見れば薄汚れた狭い部屋だ。低く流れる有線の音楽を聞き流し、黒いタイルの床を進むと一面ガラス張りの戸に出くわした。向こう側は高いガラスの天井に深い緑が茂り、葉の隙間から細い光が指す。
ひょいと後ろから顔をのぞかせた白衣にびくっと肩を跳ね上げたNN、小柄な女性職員が自分になにか訪ねたようだと気づく。
『生憎今はうまく音が拾えませんので』と文字にして送信すると、相手も大きく口を開け、身振りを交えて「まあ、お気の毒さまです」と笑って返した。
「病院にご用でしたか?」
『研究棟に。用事は済んだので結果待ちです』
「じゃ、暇つぶしにでも?」
うなずくと、彼女はおもむろにガラス戸の解放されたところまで歩いていく。
「植物園は研究棟とつながってて、ここは一般開放されている部分なんです」
『危なくないんですか』
「荒らすような手合いはこんなとこ通り過ぎちゃうものですよ。それに、主な利用者は入院中の患者さんです」
なるほどうなずいて中へ入る。わざわざフロアBGMなど流しているのは一般開放区域だからなのか。研究員が促すので自分も中へ入ると、外よりもいくらか生暖かい空気が不快で、一瞬後悔した。
研究員は前を歩きながら何か口に出してしゃべっている風であった。NNの耳が声を拾えないことを思い出して目を見開いたのは、そこから数メートル歩いてからだった。
細く絡まった枝の間をひらめくものがあった。
NNの目は自然そちらへ引きつけられた。
暑苦しい緑色のなかに、鮮やかな空色の羽をひらめかせて、跳ねるように飛ぶ蝶であった。
声を出そうとしたものの、出ているのか心配になったので、前を行く研究員の肩をたたいて呼び止めることにした。あれは何か、とNNの指さした先を見た研究員、はたと首をかしげた。
なにごとか独り言を言った様子だったが、後ろから入ってきた足音に肩を跳ね上げて振り返った。
休憩にでもきたのだろう、白衣から察するに彼らも研究員らしい。口々になにか言っては別の者に連絡を取っている様子。
一緒にいた彼女はわびるように頭を下げて、NNを植物園の外へ押し出した。なんでもあの蝶、本来なら研究棟に隔離されているものらしい。
それを知ったのは、一通り研究者たちが蝶を追い回すのを見物した後である。蝶を放している研究区画は音で区切られているそうで、本来なら不快に感じて出てはこないはずだとか。
低い音楽は足音にかき消されて、おそらく声もさわがしかったことだろう。なんだか、音を消した映像ばかりが見えているようで居心地が悪かった。
一番不満だったのは、騒ぎのせいで検査結果の受け取りには日をまたぐ羽目になったことであった。
***
エイリアン・ハンド症候群という症状がある。この件に関してのみ言うならば、別名をして「他人の手症候群」というのが適当かもしれない。彼女は蒼白な顔をうつむけて、まずはそれについて説明を始めた。
手が意図しない動きをするということだ。
依頼人は若い女性であった。彼女は数年前、両腕の肘から下を事故で失った。働き始めたばかりで金のなかった彼女は、先頃死んだメテウスの考案した移植法での手術に同意したという。そのころはまだ実験段階で、安全を保障されない代わりにとにかく安かった。
誰のものともしれなかったが、その腕はなかなかにいい仕事をしてくれた。彼女は満足してその腕でもって仕事へ復帰を果たしたのである。
まずいのは、その腕に盗み癖があったこと。
「盗み癖、というと?」
「ほんとに、なんの前触れも自覚もなくて。いつのまにか買ったおぼえのないものが鞄や懐に入ってて。けど、こんなこと相談する相手もいませんし」
「なるほど? 今回の依頼はそれに関係することで?」
ニルギリの言葉に、彼女は小さくうなずいて足下においていたトランクをテーブルに引き上げる。
何の変哲もないそれを、黙って探偵の目の前へ押し出した。
蓋を開くと、きっちりと梱包された人間の腕が、一対おさめられている。
「これは?」
「これは、今日の夕方に」
白い顔をさらに青くして、今にも泣き出しそうな声がもれる。
「こ、こんなのもって来ちゃったの、初めてで、こんなの中身、戻しにもいけなくて混乱して、怖くって」
「ああ、うん、落ち着いてくださいよー。大丈夫だから」
紅茶をいれなおして勧め、さらに話を聞けば、彼女は今日病院へ行ったのだという。義手にするか、せめて別の人間のものと取り替えてもらうつもりであった。その手術の予定を取り決めた帰りに、気づいたら持って出てきていたのが、このトランクだ。
誰のものか当然わからないし、何の目的で持ち主がこんなものを持っていたのかもわからない。
持っているのも返すのも怖いからどうにかしてほしい、というのが彼女の訴えであった。
彼女をなだめすかしてひとまずは帰らせると、ニルギリは残されたトランクをしばらく眺めて、蓋を閉じた。同じ頃に、再び事務所の扉が開く。
相変わらず機嫌の悪い顔で、助手が大股に歩いてくるのを迎えて椅子をすすめる。
『なんの用ですか』
『実はさっきまで人が来ててー』
『存じてます。すれ違いましたから』
じゃあ話が早い、と書き付けてみせるニルギリにいわく。
『君が今日行ったラボ、病院くっついてたよね?』
『ええ。まあ』
彼が指さすほうには黒いトランクケースが鎮座している。依頼人から預かったものである。
『これを持ってた人に覚えないかなーって』
NNは律儀にしばらく考えていたが、ややあって首を横に振る。だいたい彼女は病院のほうへはほとんど行っていないのだった。
そういえば依頼人(らしき女性)は一体なににおびえていたのだろう。助手の疑問を察したらしい探偵が蓋をあけてみせると、相手はあからさまに不快げな顔で、たたきつけるようにそれを閉じた。
***
翌日、検査結果を受け取りにきたNNは入り口ではち合わせた男の顔を見てすぐさまきびすを返した。別に今日でなくてもかまわないのだ。だいたい今日は病院は休みじゃないか。そんな機転もむなしく、研究棟から出てきた研究員に会釈されて立ち止まったところへ追いつかれるのだった。
小柄な研究員は、小走りの足を止めて上目遣いにNNを見上げると耳を指さした。
「もう、聞こえますか?」
首を横に振るNNに、彼女は残念そうに笑って「そうですか」と肩を落とす。
「昨日検査結果受け取れなかったみたいでー」
隣から顔を出したニルギリが話しかけるのに、ああ、と得心したように手を打ち合わせる。
「そうでした。あの後もずっとばたばたしていて」
彼女がニルギリと会話を始めると、NNはその肩越しに研究棟をのぞき込んだ。昨日来たときと同じく静かな廊下に、時折人の行き来する足音が聞こえた。
そわそわと肩をゆらす研究員にまだなにごとか話しかけて引き留めていたニルギリ、ややあって病院棟のほうを指さしてなにか質問をしているらしかった。
彼女はしばらく迷ったふうで、かぶりをふった。探偵が後ろでなにやら個人情報のたぐいを検索し始めているのを他人事に眺めて、NNは研究棟へ向けて歩き出す。彼を待ってやる義理はなかった。
ばたばたとついてくる足音を無視して歩く。
前日にまとめたデータを受け取る間、またも別な所員をとっつかまえて話をしているニルギリを横目に。
『蝶は全部捕まりましたか』
「ええ、植物園の中で。お騒がせしました」
また植物園に寄って帰ろうか。思いつきで歩き出そうとしたNNの手を引くものがあった。
ニルギリがにこにこしながら植物園のほうを指さしているのを見て、一瞬前の思いつきを心の底から後悔していた。
ニルギリと話していた研究員が先導して植物園に入ったとたん、NNは目をすがめて立ち止まった。
会話をやめて不思議そうな顔で振り返る探偵と、それに気が付いて研究員も足を止める。不快感をあらわにスピーカーを眺めていた彼女、ようやく視線に気づいてかぶりを振った。
『スピーカーからの音に雑音が入っている気がします』
そう送信すると、研究員は合点がいった様子で笑った。
『その音でこちらがわに蝶を寄せないようにしてるんですよ。ぎりぎり人の可聴域なので、話し声がないとはっきり聞こえてしまうのかもしれませんね』
『昨日はなかった』
ニルギリが見ると、NNの言った意味を理解した研究員が走って植物園を出て行くところであった。
NNのほうへ視線を戻せば、なおも怪訝そうな顔つきでそれを見送っている。彼女にはぴんとこないことだろう。植物園から出て昼食をおごってやろう、と言う探偵をいかにも薄気味悪そうに眺めていた。
***
後日、ニルギリは依頼人へ連絡を取ると彼女をともなってトランクとその中身を病院へ返却しに向かった。彼女の担当医は腕の事情を知っているので、「待合室においてあったものだろう」という推測にも渋々といった体で納得したようだった。
移植用や実験用の死体をおいた保管庫から、メテウスの腕が盗まれていたことが病院の関係者たちに明らかになったのもその時だ。
なにせ普段そんな場所に出入りするものはいないし、ロックを解除できるのは権限のある一部の職員のみである。
「昨日来たとき会ったんですけど、彼女をご存じで?」
送ったのは、研究棟の前でNNを呼び止めた小柄な研究員の画像である。
「うちの職員ですな」
「なるほどー。そうだと思ったんですよ!」
ちょっと気になっただけなので、とは探偵の言。
どちらにせよ、病院に腕を返してしまえば彼の仕事はおしまいである。依頼人は大事にならなかったことをたいそう喜んでくれたし、病院も大した被害を被ることはなかったのだから。
腕を盗んだのは例の看護師だ。彼女はメテウスの弟子として技術を学び、いずれはその腕を自分のものにするつもりでいたのだった。
看護師として保管先の病院で働いていたのは、メテウスの研究を手伝うためであった。
師の腕がこの病院に保存されたのをいいことに盗み出すことにしたものの、思いの外ロックシステムのハッキングに手間取った。その上、下手なハッキングをしたせいで研究棟の植物園のセキュリティーまで無効化してしまった。
蝶を見て何の反応もなかったのは、研究棟の事情を知らなかったためだ。
「だから、その時間帯に絞って保管庫周りの監視カメラとセキュリティ周りのアクセス解析することを勧めたんだよー。大当たりだったね。
休みの日に研究員の格好でいたのは、待合室に目立たないよう置いてたトランクを探すためだったみたい」
うそぶく探偵を横目に、NNは不満げに肘をついていた。調整の途中ではあるが今は人の声も聞こえる。本当に一過性のものだったらしい。気にくわないのはその詳細だ。
いっそ笑えるのは直接の原因である。ラファイエットにいわく「規格違い」。
本来ならこれらのストレスや熱は視覚を落とすはずだったが、無理矢理この形の体に合わせてつなげた神経系が、妙な指示を出した結果聴覚が落ちたとか。もっと長々と説明をされたが要約するとそんなところだった。
「その彼女がどうして看護師だと思ったのか根拠を聞きたいね」
暇つぶしに話を聞いていたラファイエットが口を挟むと、彼はいかにも嬉しそうにうなずいた。
「話のしかただよー。俺たちは筆談だとか、いったん文章にして送りつけたりしたろ?
彼女の言うことは、この子ちゃんと読みとれたんだ」
「ふつう口の動きだけでわかるようなしゃべり方はとっさにしないと」
「そう!」
「よし。聞こえかたに違いはないな?」
「ありがとうございます。だいじょうぶそうです」
しばらく黙っていたNN、思い出したようにニルギリのほうを見た。
「メテウスの技術では移植できないようですね」
「規格が違うならしかたないねー」
彼は笑ってそれを受け流すと、作業を眺めていた席を立った。
「余計なことを言うなら外でやれよ」
「え、俺そういうことするように見えるー?」
素直に出て行ったところで絶叫と銃声がうるさいほど響いたのだから間違いなかろう、ラファイエットは五分も待たず、ふらつく足で入ってくる弟子を迎えて冷たい目で椅子を示した。
「それで何だったんだ?」
「なにが。でしょうか」
「ここで倒れられても困るから無理には聞かないけど」
「ああ……」
思い返すだに排熱孔がすごい音を立てていた。この調子ではまた同じことが起こるのではないか、あきれつつ見守っていたラファイエットに「蝶の可聴域は、人間の可聴域の一部と一致するのだそうです」という。
「ほう。そうらしいな。人の話し声か、それもごく低い音だけど。ああ、おまえの可聴域はもっと広いはずだけど」
「ええ。その中で人の声だけが聞こえなくなるようなストレスっておもしろいね」
「わかったから。水分でだめになる機械も多いんだぞここは。よせ思い出すな悪かったから」
「ああ。もう一つ」
三十分かけて冷静さを取り戻したNNは、ようやく顔をあげたかと思うと、思い出したようにラファイエットの手を見た。
「メテウスの手はなんのために保管されていたんでしょう」
「使うためだろうよ」
「使う?」
「あの男、特許を売るどころか取ることもしなかったからな、技術を正確に知ってて正確に扱えるのは本人と少数の弟子だけなんだ。メテウスを殺したのも腕がほしい技術屋だって話だし」
「技術者や医者ってのは変態の別称かなにかですか」
「考えてもみろ」
ようやく、Webをうろついていた医師は彼女のほうへ向き直った。
「人の体を好き勝手できる以上の魅力ないだろこんな仕事」
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