陸の魚
巨きな魚の影だった。それは来たときと同じように遠ざかって、夜の空を泳ぎ去る。
彼女の訃報をたずさえて。
1.異邦人
薄明るい雨雲を切り取って、巨大な影がのったりと空を泳いでいた。ヴィークルを停めてしばらく眺めていたNNは、あらためてそちらへハンドルをむける。
音もなくのったりと泳ぐそれは、太った魚のような形をしている。既視感というのだろうか、誘われるように彼女もまたそれを追ってエアポートのほうへと走っていた。こんな夜中にエアポートに用があるのはどんな奴だろうか。こう静かではダウンタウンで騒いでいる連中も、今頃は寝ているアップタウンの善良な市民も気がつくまい。
実のところあの場所が機能しているのを見たのも初めてであった。
夜中だというのにそこはえらくざわついていた。不意の来訪というわけでもあるまい。まぶしい明かりの中を警備の人間がやたらめったらに走り回っている。怒号が飛び交うさまを遠目に眺め、視線をあげる。
それは、近くで見れば風船に似ている。人の影が照明にさらされた白い腹の下からわらわら出てきては、右往左往しているのだった。
気分転換をしていてこんなものを見かけるのも珍しい。興味深く見守っていた彼女は、そういうわけで、体当たりを食らうまで走ってくる人の足音にも気がつかなかったのだった。
大きく揺れた車体をあわてて支え、にらむようにそちらを見ると、小柄な影が目をまん丸くして彼女を見上げた。品の良い――ようは動きにくそうなことこの上ない――服装をした、老婆である。
「ごめんなさい。ちょっと、目的地まで送ってくださらない?」
思いの外はきはきした声は、開口一番元気よくそんなことをのたまうのだった。
2.探偵
その日ニルギリ探偵に連絡をつけてきたのは、スプロール・ヴァルゴからの客であった。こんなところまではるばる飛行船で旅をしてきたのだという。
探偵は、趣味で備え付けている黒電話が家族以外からの連絡を受けた事でひどく上機嫌だった。
昼過ぎに事務所を訪ねてきたのは、禿頭のいかつい男と、まだ成人したばかりと見える若い男の二人組だ。ストリートを歩いてきたらしい二人は事務所の整った内装を見て少しばかり安心した様子であった。
禿頭の男はロウ、若い男はサムと名乗った。落ち着かない様子で、いざ話を切り出そうとしたサムを手で制し、ロウが先に声を出した。ゆっくりとおろした手を膝の上で組み合わせ。
「先に申し上げました通り人を捜していただきたいのです。こちらへ足を運んだのは、この件が内密のものだからです。写真など送って部外者に付け入られてはたまりませんので」
彼にうながされて、隣の青年が鞄を開く。今回の探し人の写真やスケジュール等わざわざ書類で用意してきたものらしかった。
探し人、レイディ・トラジアはおおよそ七十代なかほどの老婆である。数百年前のコールドスリープ装置から蘇生した「生きた化石」。スプロール・ヴァルゴでは重要な文化財として扱われているという。
「化石、ですか?」
「ええ。数百年前の風俗や歴史なんて、今残っているものからではそうそうわかりませんからね。そうでしょう」
「なるほど」
「人徳でね、大切にされているのですよ。彼のように、息子がわりに育てられた者もおります。物扱いをされると彼らが代わりに怒りますからね、そういったのはもうほとんど肩書きですが」
肩をおとした男の視線に気が付いて、サムはあわてて姿勢を正した。まさに直前まで彼のことを不機嫌ににらみつけていたのだった。
「別に、僕は今更そんなことで怒ったりなんか」
「まあ、その話はいいでしょう。どうやらレイディ・トラジアは自分で行方をくらましたらしい」
今回のアリエス行の目的は、義体の整備だ。もともとコールドスリープで無理に生きていた体。数年前に体組織が端から壊死しはじめ、彼女を惜しんだ者たちが提案したのがスプロール・アリエスのサイバネティクス技術による完全義体化であった。
彼らとて貴重な文化財をそうそう他国に触らせたくはないが、いかんせんトラジアを生かしていたコールドスリープ装置その他の技術はヴァルゴの擁するそれよりもアリエスの持つそれに近いものだった。
黒く油の染みた指先を所在なげに閉じたり広げたりしながら、彼は目をそらしてため息をつく。
「近頃はヴァルゴでも彼女にちょっかいを出す者が目立ちましてね。あちらで窮屈にさせてしまった反動かもしれませんが」
「それは大変だ。楽しく観光できてる間に見つけなくては」
冗談口に言ってみせるニルギリにロウはようやく表情を和めて、「是非」と軽く頭をさげるのだった。
3.異邦人
報酬につられたと言われればそこまでである。
たかだか移動にかけて、彼女の提示する金額は個人がぽんと出していい額ではなく。しょっちゅうストレスでどこかしら壊しては交換するNNからすれば、断るなんてあり得ない話だ。
一通り衣類と化粧品の買い物を済ませて戻ると、昨晩転がり込んできた様子のままで寝ている老女の姿がある。
問題は、閉じた回線につっかえていたニルギリからの連絡の履歴であった。よくもまあこんな機密事項みたいなものを無遠慮に送りつけてきたものだ。感心を通り越して呆れかえっていた。
あんな寝床でよく眠れるな、というのが最初に浮かんだ感想だ。事務所の仮眠室と違って、眠れればいいと言わんばかりにマットレスもむき出しの薄いベッド。実際、NNは眠れれば別になんだっていいのだった。
「そろそろ起きてください。もう昼になりますよ」
細い肩を遠慮気味に揺すってみると、小さな目が不満げにきつく閉じられ、ややあって、ぱっちりと見開かれた。
「おはようございます」
「あら。おはよう。ここはどこだったかしら」
「自宅です」
「あなたの?」
うなずくと、彼女は手探りするように腕を動かして、ゆっくりと上半身をそこに起こす。ビロードの上着にしわがついてしまっていた。
「まあ。それは、おじゃましました」
「レイディ。うかがいましたよ、あなたのことを。護衛が必死になって探している」
NNのいいぐさに、目を丸くする。
ややあって、老女はこらえきれないという様子で手を打ち合わせて、笑った。目尻と頬のしわが、くしゃりとその笑みを幼く見せる。いかにも。
女と子どもの扱いは苦手であった。
「やだあ、レイディだなんて! トラジアと呼んでよ!」
「レイディ……トラジア。わかりました。つい報酬に目がくらんでここまでお連れしましたが当方では手に負えない」
「そんなこと言わないで。お嬢さんは見かけによらず礼儀正しいのね? 私そういう子大好きよ」
「ありがとうございます、それで」
「それで、目的地なんだけどね」
トラジアは首を傾けて、絶句する彼女をのぞき込んだ。聞く耳を持たないとはまさにこのことで、まあ予想はしていたから買い物も済ませてきてしまったのだけれど。NNは「慣れすぎたな」と胸中をよぎる考えを振り払って、肩を落とした。
受け取ったのは地図であった。ウェイストランドへ出て、バトルシップの対岸付近を示す印がある。
「こんなところへ?」
「ええ。海って、いいわよねえ」
「荒野ですよ。街もなければこんなとこには人も動物も居やしないでしょう」
「ええ。でも私はここに用があるのよ」
「どうして?」
「どうしても」
きりと口元があがる。それ以上の答えを得られないとさとったNNは、あきれ気味に体を引いた。ベッドに座る彼女を手招きして自分の前に座らせる。
「なに?」
「こんな格好では目立ちます。着替えは用意しましたし」
「変装ってやつかしら、任せて! 化粧品があるのね、ふふ、見ててね、別人になってみせるから!」
「そうですか……」
好きにしてくれといわんばかりであった。
遺跡から発見された装置の中、数百年のコールドスリープから目覚めた彼女は、ヴァルゴで自分の生きていた時代の風俗や技術について、覚えている限りのことを研究者たちに話すことになった。
彼女はヴァルゴにおいて賢女、レイディ・トラジアと呼ばれた。
立場は都市の所有する歴史資料、生きた化石。そういった無味乾燥なものだが、ひとえにその屈託のない人柄によって人並みの生活や扱いを獲得したものと思われる。生身の体が経年によって死にかけたとき、機械に換装してまで彼女が長らえることを望んだのは、当人よりも世話をする周りの者たちだという。
その賢女、レイディ・トラジアは一方でとんだお転婆であった。
義体の機能を巧みに使い、護衛につけられた者たち一人一人のタイムテーブルと行動を把握し、護身の為の光学迷彩を駆使して誰にも見つからずに一人で飛行船をぬけ出してきたのである。衰えを知らない完全義体とはいえ齢数百歳の老婆がやることではない。
「だって、私は海へ行きたかったんだもの。強い願いには必ず意味があるのよ」
適当に選んで買ってきた化粧品が見る間に七十代の老女を五十代の淑女に変える様を空恐ろしい気持ちで眺めながら、NNはその言い分を話半分に聞いているのだった。
小さく息をついてから、周囲に視線を走らせる。一瞬顔見知りの死体が視界を横切った気がしたが、気づかれる前に立ち去ればこちらのものだ。
あらためてトラジアのほうへ視線を戻すと、細い背中に組み合わされて揺れる手があった。化粧では隠せない年輪をトラジアはあっさりと手袋一枚で隠してしまった。年の功とはこういったものだろうか、今や彼女は髪まで短く切りそろえて、宣言通り別人になっていた。
「どんなに急いで行っても、一晩は野宿することになりますよ」
「まあ、楽しみね!」
「ええ。ですから乗ってください。多少運転が荒くなります」
慇懃に手を引いて大型二輪の後ろへまたがるのを補助する。急拵えの座席だが、割に乗り心地は悪くないとトラジアには好評であった。そもそも、これを取り付けるのにも時間を食ったのに、これ以上無駄な時間を過ごすのは避けたいところ。
トラジアがメットをかぶるのを横目に確認しつつライフルの銃口に石を詰める。
自分もまたがっていざギアに足をかけたところで、
「あ、やっぱ助手ちゃんじゃーん!」
気づかれる前に出発できなかったことを悔やむのであった。
「なんだよ探偵に相手にされないからって女に乗り換え? やるねー。俺様がそいつをブチ殺せば元サヤってとこか?」
「あいにくと仕事中です。冗談を言いに来ただけでしたらお引き取り願えますか」
とっさに左手で向けたライフルの先では、拳銃がこちらを向いていた。ホロコーストは相変わらず親しげな笑みを崩さない。
「嫌がられたら無理にでも取り上げたくなっちゃうよネ」
スコープをのぞく傍ら、右手がじわりとアクセルを開く。察して後ろから回された細い腕の感触を確認して、ギアを引き上げた。
ぎょっとした相手にライフルを投げつけて、そのまま全速力でつっこむ。
なにか罵詈雑言と同時にあまり聞きたくない音、血飛沫が顔にへばりついたが気にして停まる暇はない。
「いま轢かなかった?」
風の音に紛れて老婆の遠慮がちな問いかけが届く。ミラーで後ろを確認し、飛び起きたホロコーストがライフルを掴んだのを見る。
「ちょうど目的地との中間にゴーストタウンがあります。屋根があれば雨は防げるでしょう」
「さっきの子は」
「殺しても死なない手合いです。彼の心配はいりませんよ」
かすかに後方で破裂音。弾はこちらへ飛ばなかった。
「備えあれば憂いなしってやつね……」
NNは一瞬、声のほうへ視線を流すにとどめた。思いのほか注意深い女性であるらしかった。
4.刺客
してやられた。
ホロコーストが再び体を起こしたときには、NNの姿は影も形もなかった。手元に、破裂したライフルの残骸が転がっているばかりである。
探偵からの連絡が入ったのは、さんざん悪態をついて立ち上がったところだった。
「やあ、今どこー?」
「んだよゴキゲンな声出しやがって、ブチ殺されてえか」
「あれ、なんか機嫌悪い?」
「なんで助手といっしょじゃねえんだよ! おかげで俺が殺されたじゃねえか!」
「え、居るのそこに?」
「もうどっか行ったよ。女連れだったぜ、とうとうフられたか?」
「女連れ? どんな人だったー?」
「あ?」
「お小遣いほしくない?」
「顔はメットかぶってたからよくわからないな。服は、あー。なんだ、めんどいから画像送るわ」
「ありがとうー。なるほどなるほど。ついでにちょっと追いかけてみてくれたりしない?」
「なんで俺様がそんなこと」
「予想が当たってたら報酬の半分あげるけど?」
「やるわ」
そういうことになった。
「ヴァルゴの賢女、トラジアの暗殺だ」
時間を少しさかのぼって。
顔のない相棒は端的にそう告げた。依頼内容はいつもと比べて驚くほどシンプルだ。そしてこういう時たいてい実働するのはホロコーストなのだった。
「お使いかよ。暇してるからってつまんねー仕事させるよな」
「そう言うな。内容のわりに報酬がいいんだ」
それも何割上前をはねられることだか、そんな不満も一瞬後には忘れてしまえるのが彼の(都合の)いいところだ。
写真を受け取って見れば何も特別なところはなさそうな老婆。一瞥してやっぱ退屈な仕事だ、と退屈な感想が浮かんだ。何をやらかしたんだと言ってもさあな、と返ってくるのは生返事である。ノーフェイスが自分の仕事に移ってしまうと、ホロコーストも自分のお使いを済ませるために外へ出てきたのだった。
想定外はここから。
途中で連絡を入れてきた探偵の言うことには、彼は「トラジアの捜索」を依頼されたという。
彼女の行きそうな場所はあたりをつけてあるというし、そうなれば自分で探す手間は大幅に省けるというもの。捕まえてやれば報酬を半分よこすと言うし、どこぞの顔なしとちがって上前をハネられる気遣いもない。
あとは本来の仕事を済ませるだけだ。
おお、なんかちゃんとスパイっぽいことしてんじゃん。
そんな考えをよぎらせて、揚々と自分の拳銃を拾い上げるのだった。
5.探偵
コールドスリープ装置に使われていた技術がアリエスものと近いということは、彼女の生きていたのはどちらかといえばこの付近である可能性が高いということだ。結局、一度崩壊しかかった文明を立て直す基盤になるのは、元々そこにあったものであるのが道理。それがどうしてヴァルゴで見つかったのかはこの際あまり問題にならないだろう。
お忍びでどこか行こうと思ってまずやることは何だ? 姿形を変えてしまう、お約束ってヤツだ。
そんなわけで、ニルギリがまず手を出したのは、アリエスの婦人服店を片端から当たることだった。
トラジアが姿を消したのは飛行船が着陸してすぐ、昨晩の午前一時前後だ。その時間帯から今日の朝、ロウとサムがたずねてくるまでに営業していた服屋とその客。とっかかりはそんなところだった。
結果的にNNにあたりをつけたのは、複数の店で買い物を行ったのが彼女一人だったからだ。また、連れの女性の服装がその買い物の内容と同じであったこと。これで本当に彼女が連れている女性がトラジアなら、「詰めが甘いな」笑い混じりにひとりごちる。
同時に、事務所に残って作業を手伝ってくれていたサムのほうへ顔をむけた。
「トラジアさんが行きたがってた場所に心当たりは?」
「義母がですか? ううん、あまりそういった話は……いや、一個だけなら」
「なになに?」
「ここには海を眺められるところはあるのかしら? って、しきりに訊かれましたね」
「海かあ。どこの海かな」
半ばひとりごとのように復唱し、次にはARに地図が浮かんでいる。アリエスはそもそも海に面した都市だ。
「やっぱりアテになりませんよねえ……」
しゅんと肩をおとした青年の隣で、探偵はからかうでもなく表示した地図をじっと眺めていた。さらに重ねて別な地図を表示する。もっと古いものを。さらに探し出した地図を重ねる。
もっと古い情報。もっと古い地図。もっともっと古い地図。
隣でのぞいていた青年が、はたと目を見開いた。
そこにいくつか目星をつけ、連絡を待っていたであろうロウへも同じものを送ると、少しだけ考えたような間があって、「この中でしたら、ここでしょう」
そう言って、また印をつけた地図を送り返してくるのだった。
6.刺客
ノーフェイスから連絡が入ったのは午後に入った頃であった。ホロコーストに送られた荒野の地図は、バトルシップの対岸に×印をつけただけの素っ気ないものであった。
「ここがなんだって?」
「標的がそこに向かう可能性が高いのだそうだ。依頼人から連絡が入った」
「はーん? それでママはいつも通りお留守番なワケ?」
「この程度のお使いは坊や一人でできるだろう」
にべもなく、平べったい声が返ってくる。ホロコーストのたたく軽口に乗ってくるわりにこの声のおかげでテンションはまったくあがらない。
乗り物だけは用意しておいたから取りにいけと店の名前を告げると、あとはさっさと回線を切ってしまう。彼がソファから腰を上げるのと、探偵が自室から出てくるのは同時であった。
「あ、ちょっと待ってね。もう出かけるから準備してー」
「ハイハイっと。どこに?」
「うん、いくつか彼女が行きそうな場所にあたりをつけたんだけどね。どうも護衛の人が、そのうちの一カ所が可能性高いって言うからそこ行ってみようと思ってー」
「へえ、悪いけど俺――」
言いしな、探偵からわざわざ手書きの地図を放って渡される。広げてみると、ついさっきみたのと同じ地形に同じような印。
「ここ?」
「そう、そこー」
壁に掛けていた軍用自転車をおろすのを横目に、ホロコーストは後から遠慮がちに出てきた青年を見やる。
「よう、お前も行くのか?」
「あ、僕は一度戻ってこいと、ロウから」
「あっそ。ここ何があんの? 何もなくね?」
サムは、彼の問いにためらいがちに顔をあげた。
「義母の故郷は、今どこかの海に沈んでると、聞いたことがあります」
「ふうん?」
「もしかして海を見たかったのはそれじゃないかと。なんでも、時間をかけて海の水位が上がったりとかそういうので低地の街はすっかり沈んでしまって」
難しい話はスルーして探偵のほうを見れば、そういうことと言わんばかりにうなずいた。おろした自転車には悪いが移動用のヴィークルは用意してあることを伝えると「助かるよ!」と笑って壁際に立て直すのだった。
それにしてもだ。
ホロコーストは出て行こうとした青年の背中にまた思いついて声をかける。
「そのロウってどんな奴?」
「技師さんかなにかだよねー」
振り返ったサムがぎょっとするのも気にとめず、ニルギリは自分の爪の先を指さしてみせた。
「ほら、ヴィークルの整備してる人とかもそうだけど、仕事がらついた汚れって取れないらしいよね」
「ええ、まあ。ヴァルゴでは、ロウがあの体の整備をしてます。それでも至らないところを二年ごとにここで整備してもらうことになってて。それが何か?」
別に、と手を振って見せると、今度こそ彼は玄関から出て行った。ホロコーストはすっかりつまらない表情でソファにまた腰を下ろした。
「あれ、行かないの?」
「いや、行くけどよー……は? 何指図してんのお前?」
「あー、また窓割ったりするのやめてね。なんでいきなりテンションさがってるの?」
「エ、だってコレ依頼人ぜってー性格悪いじゃん」
あーやだやだ、ただのお使いかと思ったのに。そんなぼやきとともに立ち上がり、思い出したように歯をむき出しに笑う。
「行くぞ探偵。テメーを助手ちゃんの前で殺して気張らしすんだからよ」
「人探しもちゃんと手伝ってね?」
あわただしく出て行くホロコーストを追って事務所を出た探偵、ノーフェイスへ向かわせた伝書鳩も追い返されてしまったのを確認すると一瞬足を止める。
今回に限って、フルボーグの知り合いにはどうも嫌われているらしい。
7.異邦人
ばたつく雨の中を抜けた。
荒野を走り、川に沿って広がる廃墟群に入ったとたん嘘のように空気が乾く。小さく声を上げてトラジアの見上げた先で、群青と紺色のグラデーションがぐるりと半回転した。
ヴィークルが停まった。
「街の中かしら?」
「街ですね。ゾンビが大量発生して滅んだ地区と聞いています。まだうろついているかもしれませんよ」
「映画みたいだわ!」
こちとら現実の脅威について話しているのだが。NNの考えを知ってか知らずか、座席から降りたトラジアは数歩進み出てその町並みをぐるりと見回した。
夜闇の中で、どの建物も影絵のようにのっぺりとしていた。
「もう雨が降るわ、屋根のあるところお借りしましょう」
「抜けてきたばかりですよ」
「追い抜いたばかりよ」
強く風が吹いた。湿気を含んだ冷たい空気。そちらへ老女の腕が延びる。
灰色の雲が迫っていた。
地面をたたきながら雨がこちらへ走ってくる。
後ろへ積んでいた荷物から引き抜いたビニールシートをトラジアにかぶせ、一瞬後には周囲が水浸しになった。
「ほら、行きましょう」
「さっきまで晴れてたのに」
「追い風だったものね。雨雲の流れも速いはず」
「……」
「どうかなさって?」
「いいえ。屋根のあるところでしたね」
思い出したようにそうつぶやいて歩き出す。曇った空が先までよりずっと明るく見えて、妙な気分だった。
朝まで止まないかもしれない、とはトラジアの言。雲を見ればわかるものらしい。彼女の視界にARはないので、事実空だけを見てそう考えたらしかった。
「どうしてさっき黙ったの?」
「驚いただけです」
NNは、短く答えてよそを向いた。自分が慣れないだけで、この星で生まれ育てばそのくらいはふつうなのかもしれない。
「ずっと不思議に思っていたんだけど」
「なんでしょう」
「その目も、私の体と同じように作ったものなの?」
「これですか。いいえ。これだけが生身の体ですよ」
「まあそうなの! きれいな目ね。星空みたいだわ」
「ええ。気に入ってるんです」
表情をやわらげた彼女を見上げて、トラジアはふっと肩を落とした。大柄な道連れは、今は濡れた服を雑に干して、移動中の雨除けに使ったビニールシートを肩からひっかけている。
トラジアは床の埃を払うこともせずその場に座り、窓から振り込む雨をよけて、白く煙る空を見上げた。寝ずに過ごすにはきっと今夜は長かろう。
「この道筋は正しいの?」
「地図と案内灯を切り替えながら表示していますから。よほどでなければ明日の夕方までにはたどり着けるでしょう」
「そう。ずっと昔の人は星を見て方角を知ったというけれど」
これだって衛星を使って仕入れた情報ですよ、と軽口で返して、NNは不意に泳ぎ慣れた星空を思い出す。
「星では、多すぎて指標にならないのでは?」
「なるのよ、これが。地上から見える星の位置というのは時間や方角ごとに決まっているの。星辰といってね……」
穏やかな声は雨音の向こうで途切れ途切れになった。床を引きずられるビニールシートのひときわ大きな音がそれを遮る。顔をあげたトラジアの前まで移動して、彼女はすぐ隣に腰を落ち着けた。
トラジアは何を言うでもなくその目にうながされて続きを話し始める。サムやその兄弟にせがまれて昔話をする情景を思い出していた。
***
明け方には雨足も弱まり、NNが服を着直したころには雨雲はすっかり散ってしまったようだった。白んでいく空を眺めて、少ない荷物をまとめなおす。トラジアの話の合間に何度か窓の外を見てみたが、とうとうここから星が見えることはなかった。
「残念だった?」
「べつに。すぐに出ないと夕方には着きませんよ」
「そうね。楽しみだわ」
「何もありませんよ」
「初めて見るものばかりよ」
「そうですか」
室内を出ると、まだ空気は水気を含んで冷たい。泥道は下手にスピードを出すと滑りそうだった。
後ろの座席にトラジアを引き上げて、再びヴィークルを走らせる。相変わらず空は白く曇っていたが、ひとまず雨が降り出す気配はない。
「あなたは無口なのねえ」
「喜ばれそうな話題を存じ上げませんので」
「あなたのことなんかどう? 私、あなたがどういう人なのかずーっと気になってたのよ?」
「どんな人、ですか……」
眉間にしわが寄る。考えることは苦手だった。自分のことにしろ仕事にしろ。
たっぷり悩みながら広い橋へさしかかったころ。
「自分のこと?」
ヴィークルがやや乱暴に停まった。背後で道の先を見たトラジアが少しだけ身をすくませる。
「おっ、うれしいね。ちゃんと気づいて停まってくれるとは」
「無視したら背後から撃たれかねませんからね。それにしても」
ホロコーストはそれを聞くやまた、うれしそうに笑ってみせた。
「今回はしつこい」
「いやいや。偶然捜し物の途中に助手ちゃんとはち合わせただけよマジで。いつ追い越したのかは知らないけどネ」
「ライフルの礼なら要りませんよ」
周囲へ視線を走らせる。今回はどうやら大勢つるんでいるというわけでもなさそうだ。とはいえ遮蔽物に乏しい橋の上。
今は仕事中だ、と自分に言い聞かせる。
「つーかまだそいつ連れてんの? お荷物なら守らなくていいようにしてやるよ俺?」
ライフルはもう持っていない。左腕もニルギリがいないとなると連続で撃てる回数には制限がある、ともすれば彼のリボルバーのほうが早いかもしれなかった。
「降りて、いつでも走れるようにしてください」
小声で後ろへ語りかけると、トラジアはうなずいてじりじりと後ろへさがる。銃口がそれを追うのを見る。
距離を詰めるだけなら一瞬でいい。
飛び込んだ勢いで右腕がホロコーストの胸ぐらをつかむ。彼女の腹部に拳銃が突きつけられるのと、その左腕が頭を撃ち抜くのは同時。
破裂して頭をなくした胴体を蹴り飛ばす。数歩下がって、体が一瞬よろけた。NNはわき腹から流れ出す不快感に顔をしかめて、傷口をおさえる。中に弾が残っていた。
嫌なところを撃たれた。今際に痙攣した指が引き金を引いたらしい。
「……ったな」
再生した舌が濁った声をあげた。
「やりやがったなクソ! ブチ殺す」
標的が自分に移った合図だった。今は。
仕事中だから、邪魔もないし、追ってくる元気がなくなる程度には殺しておかないと。
リロードを済ませた仕込み銃を向ける。跳ね起きたホロコーストの頭をねらった散弾は、はずれて地面を穿つ。
めざとく傷口を抉ろうとする射撃をすべて右腕で受け――どうせ避ければトラジアに当たるのだ――再び懐へ走り込んだ足で、下がろうとした相手の足を踏みつけた。右回りに暗い赤が転々と散る。
バランスを崩した横面を左腕で殴り、至近で耳を聾する銃声を聞く。その右腕を肩から仕込み銃で打ち抜き、再装填のために右腕をあげようとしたNN、ふいに横合いからの体当たりで地面に投げ出された。
再生を待たず左手で彼女の左腕をねらった拳銃は、トラジアの背中に大穴をあけた。
「トラジア!」
「邪魔してんじゃねえ!」
とっさに老女を左腕で抱え上げ、ホロコーストの腹を蹴り上げる。
彼が倒れたのをみると、トラジアはNNの腕から離れてその手を引いた。ふっと視界が暗くなる。走り込んだのは大きなビルの残骸であった。
「地下があるの。階段ががれきの影になってて、やり過ごすにはいいでしょう」
腕を引いて走るトラジアのほうがどういうわけだか足が早く。崩れかかった階段を降りる間、前を行く彼女は気遣うようにNNを見上げた。
息があがっているのを自覚すると、NNは誰にともなく失笑した。
思い出したように肘から下の消失した右腕が痛みを訴えていた。息をするたび、鼓動に合わせて頭痛がする。
地下の景色は、一転して明るい。広い床は周囲の光を受けて真っ青に染まっていた。
網がかかったように光の揺れる通路に、ようやく腰を落ち着ける。怒号と銃声が上の階を歩き回っていた。
そのうち飽きて行くことだろう。NNが身体の再生に意識を集中している間、トラジアは音がするたびにはらはらとそちらを振り返るのだった。
「いつこんな場所を見つけたんです?」
「あなたが彼を撃ったときよ。逃げ込めそうな場所を探したの」
「なるほど」
「仕事を忘れそうになったわね?」
「面目ない」
短い言葉の合間に右腕を再生させ腹の傷をふさいでしまうと、ようやく人心地ついたようにため息をつく。
それから、トラジアの背中から胸部にかけてぽっかりと開いた穴を見た。歯車と鉄の骨格の間を、黒々とオイルが流れ落ちていた。
「なかなか精巧でしょう。外見は人間そのものよ」
「ええ」
「私はトラジアの模造品なの。アリエスへは、ここで暗殺される予定で来たのね。だから、もしかすると、あの彼の捜し物って私のことかもしれないわ」
「何の目的で海へ?」
「死ぬのが嫌だからよ」
「逃げるにはあんまりな目的地ですね」
多少の反発を込めたいらえに、トラジアは口元を覆って笑った。
「ゾンビ、残っていたわねえ」
「それも特に凶暴なやつが。それでトラジア――」
「まだ秘密にしておきましょう。あなた、はしゃいで目的を忘れそうになってしまうから」
「信用なくしましたね」
とはいえ、彼女の不信はもっともなものだ。NNは大きく息をついて、通路を満たす明かりから目を背けた。一面の水槽。
魚の泳がない空間に、水ばかりが満たされている。
「あの子は知り合いなのね」
「ええ、愛すべき友人ですよ」
「悪友でなくて?」
「粗暴で強くて犯罪者だ」
興味深げに聞いていたトラジアは、そこでまた笑って肩をゆらした。
「それは友人の定義とは違うと思うの」
「会って楽しいんだから友人でしょう」
不意に。トラジアは首を傾けてNNの顔をのぞき込んだ。なにか言いたげな様子で、しかし結局なにも言わずに水槽を見上げた。
「残念だわ。魚がいたらいいのに」
「そうですね。……
以前は、視覚はとくにいらなかったんです」
「うん?」
「だから目は生まれつき薄い皮膜で覆われているのが常で。地底湖とか、ああいう明かりのない場所にいる魚が、似たように目を覆われていますね。
ですから、ここに来てこの身体になって初めて、自分の目を見たんですよ」
「ええ。……?」
「真空はあんなに自由に泳げるのに、ここでは身体も服も重くてかなわない。ずっと水の中にいるみたいだ」
上からはもう、音も声もしなくなっていた。
NNは立ち上がるなり不思議そうな顔をするトラジアを見下ろして、「自分の話です」簡潔にそれだけを告げた。
8.探偵
「遅かったねー。なにしてたの?」
帰ってきて早々撃ち殺された探偵は、三回目の蘇生の後ようやくそんな問いかけを発するに至った。川に降りて釣りをしていた彼を置いて暇だからと橋の上に向かい、しばらく戻ってこなかったかと思えば妙に腹をたてている。
いわく上で助手と鉢合わせし、おまけに取り逃がしたという。悔しそうな反応から察するに、何度か殺されたのか、はたまた殺し損ねたのか。
「昼食べてから行くでしょ?」
「あ? 追わないのかよ? 一緒にいたのトラジアって呼んでたけど?」
「じゃー行く場所は決まってんじゃん。問題ないでしょー」
「はあ……?」
「君も言ったろ、依頼人は性格が悪いって?」
言いつつ、釣って焼いたばかりの川魚を差し出す。渋々受け取ってその場に座ったホロコーストからすこし視線をずらすと、上にかかった橋が視界を半分ばかり覆った。
よく飽きもせずあんな拓けたところで真っ正面から撃ち合いなんかするものだ。銃撃戦ってふつう遮蔽物を挟んでするものだと思うのだけれど。
「俺様キャンプしに来たわけじゃないんですけどー」
「え、楽しくないキャンプ?」
「飯食ったら飽きたよもう」
「飽きるの早いな?」
昼食を平らげると怒るのにも飽きたようで、さっさとヴィークルのほうへ歩いていく。依頼人へ連絡は入れたが、当然急いで駆けつけてくる気配もない。
この様子では、サムにもトラジアが見つかったことは知らされていないだろう。
それにしても、やはり詰めが甘い。
上から遠ざかっていくエンジン音を他人事に聞きながら、そんなことを考えるのだった。
9.幕間
ロウが連絡を終えて室内に戻ると、サムが不安げな顔を上げた。
「母さんは?」
「ああ、どうもまだ見つからないらしい。無理ないな、こんなに広いところでは。手がかりもそら、レイディの記憶から抜き出した古地図が一つきりだ」
「どうして……」
「なんだ」
「僕や、ロウに言ってくれれば、融通くらいきいたのに」
「まあそう言うな。確かお姫様がお忍びで出かけたりする古い映画の話とかあったろう。年甲斐もなく、ああいうのをやってみたかったのかもしれんだろ」
「そうかな」
「そうとも。ちゃーんといろいろ考えちゃいるさ。
帰ったらやっと化石の地位からおさらばして、穏やかに老後を過ごせることになったんだ。はしゃいでるのさ」
「ああ……そうか。そうだよな」
そうとも。
ロウはそれまでの癖で、癖の強い髪をひと撫でして立ち上がった。もう一つ業務連絡をしなければならない相手がいるのだ。
10.陸の魚
以降は、さしたる障害もなく走り続けることができた。不穏だと顔をしかめるNNに、依頼人はといえば背後から「そのときはそのときね」と笑うのだった。
彼女の楽観は生来トラジアの持つものだろうか、それとも、この機械人形の性質なのだろうか。それを訊くのは失礼だろうか。
出てきたときとは打って変わって、空気は乾ききっていた。別段会話を求めるでもなく、トラジアはすぎていく景色を眺めるのに忙しくしているらしかった。
遠くに海が見えるころには、すっかり空は赤く染まっていた。
「トラジアの記憶が私に言うのよ」
不意に、背中からそんな言葉を聞いた。
「ああ、家に帰りたいなあって」
「家、もうないのでは?」
「そうねえ。きっと、本人もわかってるわ。だから、代わりにわかっていても実行できる私がするの。人は理性で欲求を押さえ込むことができるけど、私には無理だわね」
「ご本人はどうなさるんです?」
「もっと年齢相応の義体に移るわ」
「それで?」
「死ぬまで幸せに暮らして、めでたしめでたし、で幕を閉じるのよ」
「あなたは?」
「私が幸せじゃないように見えて?」
潮風が混じる。ゴーグルの向こうに近づく海を眺めて、NNは目をすがめた。
「わかりません」
「それは結構ね!」
笑い声。風の音に紛れて、からからとから回るような音に変わる。彼女の身体もそろそろ動かなくなるのだと直感する。
心臓部に穴が開いているんだから当たり前と言えば当たり前の話であった。
海には波もなく、案外と穏やかだ。対岸に大きな船の残骸。そろそろ明かりがつくころだ。
ヴィークルが停まる。
むき出しの岩肌を下れば、狭い浜があるばかりで、あとはまっすぐに海に入っていける。伊達や酔狂でも、あんなところで泳ごうとは思わないだろうけども。
言うまでもなく、後ろの座席から一人分の重量が消える。
降りて行こうとするトラジアの腕を引き留めた。止められたトラジアより、つかんだ本人のほうが不思議そうな顔をしていた。
「あなたも別な身体を持てばいい。こういう依頼につぎ込む金があるのなら」
「あらあらあら」
照れたように笑う依頼人を見て、NNは閉口する。やはり、女子供の扱い方はわからない。
「いや、いやね。私ったらむごいことを言うわねお嬢さん?」
「なんでしょう」
「インストールされている記憶も記録も、外見もトラジアのものですけど、私はこの身体で生まれたのよ。わかってくださるかしら?
この身体だけが唯一私のものなのね。あなたが大事にしている目のように」
細い腕はするりと彼女の手をすり抜けていた。
「難儀ですね」
「難儀なのよ」
わかってくれてうれしいわ、と笑う彼女の後ろから「間に合った――!」
実に二日ぶりに聞く声であった。
***
「今回の仕事はね、見つけさえすれば大丈夫だけど。一応本人確認は、」
「よっしゃあ死ね助手!」
「ステイ、ホロコーストステイ」
「うるさいですよ」
銃声は二発止まりだった。いずれも届かずに消え、煙たそうに口元をゆがめたホロコーストが弾倉を入れ替える横で、ニルギリが血塗れのシャツを整える。
「君が殺さなきゃいけないのはあの子じゃないだろ?」
「あ? なんで知ってんの? ノーフェイス! テメーかコラァ!」
「何のことか知らないが、報酬は要らないらしいな?」
「うるさいですよ……」
うつむいて眉間を押さえていたNN、やっとのことで出た言葉は結局それであった。ニルギリがトラジアに話しかけて安全な場所へ連れていくのを横目に見送り、しらけた顔で地面を蹴っているホロコーストへ視線を戻す。
「彼女をどうにかするつもりですか」
「仕事だよ仕事」
「ではしばらく死んでいてください」
放っておいてもいいのかしら、とはトラジアの言。
ニルギリは「いいのいいの」と笑い混じりに荷物から水筒を取り出して観戦するつもりでいるらしかった。
「一杯どうです?」
「この身体ではちょっと」
「それは残念。あ、やっぱ写真とぜんぜん違う! へえ、化粧だけでこんなに顔変わるんだなー」
「あの子にも驚かれたんですよ。似合います?」
流れ弾に気を使っているのか、NNの左腕は今回防御に徹している。外郭もそれなりに金がかかっているだろうに、銃弾を受け流すたびに角が割れてこぼれていく。
それを振り上げて相手を殴りつけるのだから大したものではある。
「それで、あなたはどうなさるの?」
「特には? あ、でも殺されるのが本意じゃないなら今のうちにやりたいようにするといいでしょう。あの子がめずらしく体張ってホロコーストの目をそらしてるわけですし」
俺の仕事はここでロウさんに連絡いれて終わり、と。軽い調子で付け足してへらと空気の抜けるような笑みを浮かべる。それをしばらく見つめて、トラジアは再びはしゃぐ若者二人のほうへ顔をむけた。
「じゃ、私は家に戻ろうと思いますわ」
「彼女への依頼は家の前まで送ること?」
「ええ。探偵さんは、あの子から連絡でももらっていたの?」
「あっはっは! 連絡くれないので足跡追いかけてきたんですよ」
穴だらけの左肩を無理矢理右手で押し上げて、NNは舌打ちした。何回殺してもしぶとく生き返って来やがる、限度と言うものを知らないのだ。撃った弾をナノマシンによる次元干渉で無理矢理当てたが、また立ち上がられたら次はない。
身体に大穴をあけても平気で立っていられるのがネクロソーマのいやらしいところだ。
「よォし、もう動けねぇな? ライフルその他のお礼し放題ってことだ」
「やめてねー。お礼されたら死んじゃうから」
銃身をこともなく掴んでよそへ向けたニルギリの胴体に、勢い散弾が撃ち込まれた。庇われた助手のものであった。さっさと再生する胴体を憎々しげに睨みつけ。
「邪魔だ!」
「ん? いいけど、俺を殺すのあきらめるんだ?」
「……! ……ふっ……」
「ざけんなよ探偵コラァ! 邪魔ばっかしやがって!」
「ええー。君がそれ言う? ほら、セリフ取られて怒ってるじゃん」
「助手ちゃんの怒りはそっちじゃねーと思うけどな! もうお前でいいからぶっ殺す!」
絞り出すような叫び声と同時に、局地的な散弾と血の雨が降る。
奥の手とは最後まで取っておくものだ。それを、
「二人とも死ね!!」
感情的になって使い果たすところだけが彼女の欠点であった。
11.結
サムは顔を見せなかった。敬愛する養母の死が彼にとってどんなに悲痛な報告であったかは、余人の伺い知るところではない。
「彼女は世界政府にその価値を認められたのです。そのせいで、国内でも不穏な活動続きで。私どもとしては、ですから、レイディ・トラジアの穏やかな余生のためにできるのは、こういうことくらいで」
ロウは、エアポートを遠目に眺めながらニルギリにそう告げた。風が強く、あの風船に似た乗り物が吹き飛ばされはしないかと隣で見ているNNはまったく方向違いの心配をしていた。
トラジアは無事義体の換装を終えて飛行船に運び込まれたことだろう。
サムが連れてこられたのは、彼が悲嘆にくれることでトラジアの死に説得力を与えられるからだ。
「ひとつだけ気になることがあって」
それまで黙っていたNNが、不意にそこで口を挟んだ。
「あのトラジアに、自由になる資金を与えたのはなぜですか。余計な出費でしょう」
「スパイや身内の裏切り者を攪乱できるでしょう?」
「そうですか?」
技師は後ろに組み合わせた両手を一度ほどきかけて、やめた。
「彼女を愛していましたからね」
こともなげにそう答えると、ニルギリに軽く会釈して歩き出した。そろそろ飛行船がエアポートを発つ時刻であった。少なくとも、ことは彼の望んだ通りに運んだらしい。
地上から見上げるそれは、巨きな魚の影だった。夜の空を切り取って、来た時と同じように泳ぎ去る。
「めずらしいね、君が人に懐くなんて!」
NNは探偵のいいぐさに首をひねり、それから不信感でいっぱいの目を向けた。
「なんのことです?」
「自覚ないならいいけどねー」
夕飯どうしようか、といつもの調子で続けるニルギリに、やはりいつもの調子で無視を決め込んでヴィークルにまたがる。誰がなんと言おうと、今夜はまっすぐ帰って寝ると決めていた。
「今度キャンプにでも行こうか? 釣ったばっかの川魚焼いて食べるの、結構悪くないしー」
すべて言い終わるより早く男の頭は蜂の巣になる。
はずだった。
何度か意固地になって引き金を引き、弾を使い切っていたことに思い至ると、NNはその左腕で思い切りハンドルを殴って顔を覆った。排熱孔がうるさくわめいていた。
「いつか殺してやる」
「楽しみにしてるよ。いつでも殺しにおいで」
時間は待ってくれないからね、ニルギリはさも楽しげに言うのだった。
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