傍流
ぼんやりとした記憶をたどってどうにかたどりついたのがその場所だ。ざらつく視界ではもはや文字も判別できない。しかたなく、彼女はそこで壁にもたれて一息つくことにした。目がさめたら、少しはましになるだろう。
大きく抉れた胴体はほとんど空だった。たぶん、ここへ来るまでに中身を全部落としてきたのだ。それでも申し訳程度に腕で押さえて、その場に崩れ落ちる。
目が覚めたら。
***
あれえ、と気の抜けるような声を出したのは、珍しい客が玄関からやってきたのを見たからだ。普段はどうかというと、まず窓を割ってきてニルギリを悲しませ、ついで助手の口座を圧迫するのだった。
その助手はといえば、また珍しくその肩によりかかるようにしてぐったりしている。
「ちーっすお届け物でーす」
ホロコーストに放り込まれた彼女を受け止めてよろけつつ、彼女の満身創痍ぶりに改めて驚きを隠せない。
「ご親切にどうも? いつこの子に勝てるようになったの?」
「馬鹿言うなよ、落ちてたんだよそこに」
「玄関の横じゃんー」
「そーだよ。俺サマ機嫌良く探偵ブチ殺すの手伝ってやろうと思ってきたのによ。そこで死にそうになって転がってんだもんホントやる気なくすわ」
うそのつけない男だ。ニルギリは不満顔の彼へ改めて礼をして見送り、ひとまずは預かった彼女を引きずってラファイエット女史のところへ向かうことに決めた。
***
……らしい。
経緯はともかくとして。私の師と呼ばれた人物は、隣の彼とそういった事情を聞かせてくれたが、当然身に覚えのない話。
じゃあ何に覚えがあるのかと言われても。
「ええー。ほんとに覚えてない?」
俺のことも? などと、ニルギリと名乗った男はやけに自信満々な問いかけを口にする始末。
「わかりません」
「自分の名前も?」
「そりゃ元から覚えてないって言ってたろう」
「どさくさに紛れて聞けるかと」
「あいにくですが」
かぶりをふると簡単に引き下がられてしまうあたり、私には本当にもとから名前がないらしい。
ごたごたと機械に囲まれた診療所も、その主である女医も、探偵を自称するこの男のことも自分の名前や過去すらも。どうやら私には覚えのないことらしかった。
「って、落ち着き払ってるとことか、ほんとに君らしいとこだけどねー」
「あんたを見て目の色変えないじゃないか」
「何の話ですそれ」
「あんたがこの男にいかれてるって話だよ」
「はあ……?」
ラファイエットの顔と、ニルギリの顔を交互に見つめる。探偵はしらじらしく笑っているばかりだし、女医に至っては目が合うとふいとよそを向いてしまった。
「まあ、体は元通りだ。いつも通りにしてりゃなにかしら思い出すだろう」
にべもなくほかの患者のカルテを眺める作業へ戻り、さっさと帰れとばかりに手を振るのだった。
「いつも通りって、どうしたら」
「そうだなー」
診療所を出て立ち尽くす私へ、一歩先を歩く彼が振り返った。少し間を空けたかと思うと、名案とばかりにその薄っぺらい手を打ち合わせる。
「とりあえず昼食にしない?」
外見に似つかわしい、間の抜けた返答であった。
何を食べると聞かれて、まず思いつく食事のレパートリーのなさに頭を抱えた。君のことだからね、想定済みとばかりにそう笑って、ニルギリはダウンタウンを突っ切って大柄な男の仕切る店へ向かった。そこらでは一番大きな店なのだという。看板には「テルミドール」と書かれていた。
ひげ面のマスターは快くカウンター席を示し、顔なじみらしい探偵とひとしきり創作料理の話で盛り上がっていた。メニューを見てもさっぱりだ。そう思っているうちに、あからさまに人の食べ物ではなさそうなものが出てくる。ニルギリにいわく「この間は食べてたから」という。
ボウルになみなみと透き通ったゼリー状の何かに、胴でぶつ切りにされた白身の、おそらくは魚らしい何か。
本当にか……?
これを……?
見栄とか負けず嫌いとかそういうのではなく……?
さらに恐ろしいことには、隣の探偵はふつうにそれを平らげておかわりまで求めていることだ。つまりこれは食い物なのだ。
手の震えを力のかぎりごまかして一口食べてみたがふつうにまずい。むきだしの酢酸がまず味ではなく感覚として口内に広がってとげのように刺さる。味。咀嚼したら間違いなく味覚が死ぬ。直感がそう告げている。
たまらず衝動的に水で流し込み――隣で平然とそれを食べている探偵を見てなんだかやたらと悔しくなった。
十分後、空のボウルを前にして謎の達成感に打ちのめされているところに「ほらー、案外夢中で食べてたじゃない」とうれしそうな声がかかる。彼にそう見えたんならそうなのだろう。そんなわけあるか。絶対「この間」っていうのも見栄か負けず嫌いに決まってる。
マスターは気をよくしたようなので、無料で追加してくれるおかわりをデザートに変更した。しゅんとした顔に罪悪感がわかないこともなかったが人情より命が惜しい。
隣で、なにやら不思議そうな顔で見ている探偵の視線が突き刺さっていた。
本当にこの男は私のことを知っているんだろうか、と今更のように考える。知っていると言われたら、記憶を持たない手前どうしようもない立場ではあるけども。
「君、倒れる前のことはおぼえてないの?」
こちらが何か言うよりも、相手からの問いのほうが早かった。
「いいえ」
「そう? じゃ、なんで事務所の前で倒れてたの?」
「事務所」
復唱してみて、はたと脳裏をよぎる光景があった。雨の道。とにかくどこか特定の場所を目指して歩いていたはずだった。
「そこを目指していた、気はします。現に、たどり着いてから、気が抜けてそこで気絶したのかも」
「ふうん。じゃ、やっぱ俺のこと知ってるはずだよ」
「そうなんですか」
「一緒に仕事もするし、事務所に寝泊まりもするしー?」
「仕事、仲間」
「仲良しだねーって評判だよ?」
どういう返答を期待しているのだか。しばらくにこにことこっちをのぞき込んでいたが、言葉を出せないでいるとわかると、さっさと席を立ってしまった。
「出ようか。今日はめずらしく雨も降ってないしね」
珍しいことだらけだ。彼はそう言いながら曇った空に向かって細い両腕を放り出し、眠たげにのびをするのだった。
昼食を終えてからはすることもなく、ニルギリに連れ回されてあちらこちらと歩き回るだけ歩きまわった。それこそ特定の場所に二人でよく行くとか、そういうのはないのかとも訊いてみたが、特にないといっそすがすがしい笑顔が帰ってきた。せいぜいがとこ事務所の仮眠室かダイニングだという。
「恋人って言ったらおもしろい顔するだろうね!」
していると思う。今。
「じゃー、俺は夕飯の仕込みあるから。家が思い出せなかったらまた事務所においで」
などと言いおいて背伸びついでに頭を撫でた。名残を惜しむでもなくとっとと背中を向ける。自分で言うのもなんだが、恋人というより拾った猫とか犬への対応じゃなかろうか。
事務所とやら以外に帰る家があるというのがまず初耳だし、今となっては事務所への帰り道も覚えていない。
急いで呼び止めるまでもなく、彼の足が止まった。
「ちょっと」
早足に身を翻してこちらに飛び込んでくる。何事かと思えば。
突き飛ばされた。肩に触れていた手が冷たい。グローブが血で黒く滑ついていた。視線をあげた先で、探偵の頭が弾けた。一瞬で何発も弾丸をぶち込まれたような不自然な形で。
「は……?」
倒れた。
「ニルギリ? さん?」
あれ、私は彼のことをなんて呼んでいたんだろう。どれもしっくりこないのがなんだかおかしい。今になって。
黒い血だまりの中で、ひしゃげた頭がじわじわ元の形を取り戻していくのを、息を止めて見ていた。
「うーん。やっぱりめずらしいことだらけだ」
「めず、めずらしいって今、あれ、嘘」
「君まだねらわれてる? うん、めずらしいよ、敵を取り逃がすなんてさ~」
「あ、」
ああ。そういえば私の胴体にでかい穴をこしらえた奴がいるのだ。すっかり頭から抜け落ちていた。
たぶん、それが原因で記憶もすっぽりなくしてしまったんだろうけれど。
「頭は」
「え? 平気。でも君は殺されたら死んじゃうからね」
「殺されても死なないほうがおかしいですよ」
「まあ、そういうこともあるって」
ない、そんなこと絶対ない。すっかり元通りになった頭をさんざん両手でさわって確認してみても、種も仕掛けも傷口も見あたらない。
あきらめて手を離すと、ニルギリはようやく人心地着いたとばかりに髪をかきあげた。
「一人でいるとあぶないかな? 遠くから撃たれるとこまるね、義手だけじゃ」
「ご存じ、のはずでしたねそういえば」
「よくお世話になってるからね」
「何の」
反射的な問いには笑顔がかえって来るばかりでいっそ不気味だ。
とはいえ。
それまで固まっていた心臓が、ようやく動き方を思い出したようにばくばくしていた。思い出したように腕が震えている。たぶん怖かったのだ。
「だいじょうぶ?」
「こっちのセリフですよ、それは、あんまり」
「なに?」
「気軽にかばって、死なれては」
困ると言いたかったのか。怖いと言おうとしたのか。嫌だと言うつもりだったのか。
いずれにせよ、帰ってきた笑みはいやに淡泊なものであった。そのまま私の頭を軽く撫でて、ニルギリはこともなげに立ち上がった。血みどろのスーツだけが、先の惨劇をとどめている。
「帰るあてもなさそうだし、今夜は事務所に泊まるといいよ。俺を撃った犯人も探したいとこだしね!」
すっかり毒気を抜かれていた私は、それにも結局うなずくほかないのだった。
***
帰り道で買い出しを済ませて、見覚えのある道に入ると思わず顔をあげた。確かに、倒れる前歩いてきた道だ。
ストリートの喧噪から少しだけはずれた場所にある事務所は、やけに広いキッチンとダイニングを擁している。料理は趣味だという。彼の作るものがふつうに食べられるものだったことに心底ほっとしたのはここだけの話だ。
仮眠室は譲ってもらえた。やたらとベッドの寝心地がいいし、なんだか悪い気がして渋っていると、「普段はそうなんだよ」とやんわりおしつけられてしまったのだった。
普段の私ってやつはどんな奴なのだろう。
性格はぜんぜん変わらないと言われ。それでいて態度はぜんぜん違うとはどちらもあの探偵の言である。
そんなことを言われると、余計に気にかかってしまう。
彼の興味はすでに私を殺そうとした者のほうへ向かっていたみたいだが。
雨が降り始めたらしい。音がする。
そんなに気にかかるものですか、と言えば「君を殺せる手合いなら会ってみたくない?」などとのたまうのだった。どこまで本気だか知らないが。
私は、肝心の所でかばわれたりなんかしたせいで、あれが恐怖だったのか動揺だったのか、はたまた敵を見つけて高揚したのかもさっぱりわからない。今にして思えば、全部だったのかもしれない。普段の私だったら。
一も二もなく、彼を放って敵のほうを追っていたそうだ。
なにか、なんでか、それはまるで恋人だか相棒だかをないがしろにしているようではないか。それとも信頼とかいうやつなんだろうか。
釈然としなかった。
***
釈然としなかった。
しかしやりようはいくらでもある。どうせあの男は気づいているだろうから、ああそれにしたって気分が悪い。
まるでなついているようじゃないか。
***
それとなく相手に見当はついている、とはニルギリの言。朝食の片づけを終えて戻ってくると、彼は窓から身を乗り出して外を眺めた。
「そうなんですか」
「二発目がなかったらまったく見当つかなかったけどねー。大事だよねそういうの」
「居所は?」
「さあ。そのうちまた来るよ」
「どうしてわかるんですか」
「君のことだからねー」
わからない。
閉じられる窓の外で何か光った。勢い、彼を突き飛ばした。右腕に穴があいた。窓が割れる音を聞く。歯を食いしばり、身を翻す動作のついでに。
左腕が慣れた手でライフルを拾い上げて射線をなぞる。
目の表面をスコープの演算が走る。二射を相殺し、続く三射を、ニルギリの腕に遮られた。
ついで、シャッターがおろされる。
「どいてください!」
「ここでやると事務所荒れちゃうじゃん」
身も蓋もない言いぐさである。事務所より自分の体のほうが安いとでも言うのか、出かかった反論を飲み込む。この男はたぶんうなずくのだとわかった。
「だいじょうぶ? 腕、別に俺かばわれなくてよかったのにー」
「反射ですよ、別に」
「そう? 腕痛いでしょ、君は」
「あなたは痛くないんですか」
「まあねー」
幸いというか、弾は貫通して床に穴をあけていた。彼が持ってきた救急箱からあらかたの治療は済んでしまうことだろう。救急箱ってかなり古い気がするんだけど。
「スナイパーみたいなこともするんだね。正面からつっこんで行く子だと思ってたから意外だ」
そんなに冷静さに欠けるんだろうか。確かに冷静ではなかったかもしれない。
「出てみる? きっと狙撃してくれるし、その目ならわかるでしょ、相手がどこにいるか?」
「あなたを盾にして?」
「うん」
「気は進みませんね。いつもの私は」
「そんなことじゃ俺は死なないって、知ってるんだよ」
言葉の切れ目を引き継ぐように、その男は笑って答えるのだった。
***
まあ、そばにいれば彼はかばうことだろう。そばにいる相手を。そういう手合いだ。どういう理屈かは聞かないし知らないが。
敵がいれば楽しんで標的になる男だ。それが誰であろうと。どういう理屈かは聞かないし知りたくもない。リロードを済ませたライフルを構える。
自分はただこうして待っていればいい。彼に促されて外へ出てくるにしろ。相手がしびれを切らして飛び出してくるにしろ。
やることは何も変わらない。
扉が開くのを眺めて引き金に指をかける。どちらに当たってもかまわなかった。ぼやけた照準が合わさった瞬間に。
探偵をねらった一射ははずれた。そいつを押し出して転がるように飛び出した彼女の目に照準を合わせる。相手もこちらの姿をとらえている。
彼はあきれた顔をしていることだろう。二射は鉄柵をとび越えた彼女のこめかみをかすめる。
飛び退く。つま先を追って来たライフルの弾が穿つ。
相手の左腕が開くより早く手を掴んで、後ろへ投げる。顎の真下に向いた銃口を蹴り飛ばしてさらに下がる。一瞬遅れて銃声。距離はすでに離れた。
再装填は同時だったはず。
こちらは階段の陰に、向こうは事務所を背に鉄柵のこちら側だ。うまく引きはがした。あの男があれを越えるにしろ回ってくるにしろ少しは時間が要る。一番気にくわないのは、彼女がどうやらあの男に自分をかばわせたくないらしいということだ。
それがゆえに、動揺させるのも馬鹿みたいに簡単だ。
「楽しそうですね」
「わりとねー」
回り込んできたらしい男は、例によって間の抜けた返答をよこした。彼女の傍らで。
「あなたは、邪魔しかすることないんですか」
「さあ? 俺は待ってるだけだよ、結果がでるのを」
「そいつはあなたのことが好きだ」
へえ、とうそぶく男の額を撃ち抜いた。
同時にこちらの左肩を抉る弾丸、の先で目を見開く自分の顔がある。まるでどこをねらったんだと言わんばかりの。手すりを飛び越えて距離をつめる。遅れて第二射が腿を貫通したが今更止まる気遣いもない。
体当たりついでに右腕をつかみ、転がる体でへし折る。
押し殺した悲鳴を聞かぬふりで、仕込み銃を押しつけて頭を撃ち抜いた。一丁前に血をぶちまけるのだから趣味が悪い。
反射で跳ね上がり、弛緩した腕から手を離す。大きく息をついて立つと、あとには頭を失った自分の死体がそこに転がっているばかりだ。
「もったいない。この子の目もいい出来だったのに」
生き返ってきた探偵はこともなげにそれを見下ろして予想していた通りの感想を述べた。
「それで君は本物かな、偽物かな?」
間髪をいれずその右腕が付け根から弾け飛ぶ。左腕の弾を込め直す手元を眺めていた。
「どちらだと」
右足を撃ち抜く。14mmの弾丸はたやすくそれを引きちぎり、支えを失った男の半身が地面に投げ出された。
「思われますか」
この期に及んでそういう問いかけをするところがたとえようもなく嫌いだ。
再生を始める右の手足を無視して左腕を。左肩を。左足を。肉片になって飛び散る体を見下ろしていた男の背中がくの字に折れ曲がる。浅い呼吸の下不完全に再生された右手が左肩に延びるのを見て、薄い胸板ごと撃ち抜いた。よどんだ血がスプレーのように背後に飛沫いた。
「怒って、ない? いつもより」
「そうですね」
つながりかけた脚部が癇にさわって踏み折る。不完全につながっていた繊維が足下で音を立てて千切れるのを聞く。息を詰まらせるような声がかすかに漏れる。
首を掴んで顔を上げさせたら、茫洋とゆるんだ三白眼は何の抵抗もなくこちらを向いた。
「彼女があなたをこう扱っていれば。そこに転がっているのが誰であっても。あなたには近いほうでよかったのでしょうね?」
「――そうかもね?」
手をはなす。腹がねじ切られるような痛みにとうとう耐えきれなくなっていた。原因は言うまでもない。そいつの顔をさんざん残った弾で撃ち抜いた。
***
「でも運び込まれてくるのはおまえのほうなんだね」
「遺憾です」
ごたごたと機械に囲まれた診療所のベッドで、盛大にため息をついた。どこよりもここが一番なじみ深いというのも因果な話である。
エンディの件以降やたらと探偵の命を横取りしにかかっていた量産型クローンもこれで全部片づけ終わったはずだ。
「ドクター、知っていてあれをあの男に渡したでしょう」
「偽物が本物に勝ったらそれはそれでおもしろいじゃないか」
「言うと思ったよ……」
「実際面白かった、うまく記憶端子ぶち抜かれてあの探偵に惚れるとかね」
「考えたくもないです」
能力自体は互角だったので、それのおかげで勝ったところもあるだろうとはドクターの言。まさか。それこそ考えたくもない話だった。
あの男の代わりはいないのに、自分の代わりはいくらでもいるのだろうな。
「けど勝たせない」
「そうだろうよ。おまえはかなりいかれてるからね」
まともな奴はその時点で比較の対象にもならないはずだ。
ドクターは訳知り顔で笑ってみせるのだった。
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