霹靂


 知らぬ女の声で目をさました。
 いいや、声の調子はよく知っているものだ。しゃべり方も。細い指に肩を揺すられて、ようやくその顔を見た。
「今日ずいぶんお寝坊さんだねー。朝できてるから、顔洗っておいでよ」
 言いたいことだけ言って、彼女はさっさときびすを返した。彼女が身につけているものはやはり見慣れた無駄に仕立ての良いスーツだが、そこは男女の体型の違いだろうか、足と腰のあたりにずいぶんと不自然なあそびがあるように見える。
 そういうことではなく。
 やや勢いをつけて体を起こした。手首になま暖かい感触が触れた。傍らでは年端のいかない子どもが、すうすうと寝息を立てている。昨晩よりいくらか顔色が良い。こちらは問題なさそうだ。
 ようやく我に返った頭を抱えて、早足にダイニングへ向かう。彼女はそこでちょうど朝食の準備を終えたらしかった。
「あの子はまだ寝かしてあげようか。たぶん、自分で目を覚ましてからいろいろ食べたり飲んだり、あと話きいたり? したほうがいいと思うんだ」
「お聞きしたいことが」
 声に出してからはたと口を押さえる。
 女のにんまり顔が見上げていた。
「なん……ですか」
「いやあ。あんまり変わらないからおもしろくて」
 改めて、自分の手を見る。覚えているものよりごつごつしているように、見える。先の声が自分のものであるか確かめるためにも、もう一度、
「なんですか、これ」
 疑問を言葉にする、男の声はどうやら自分のものらしい。
「さあ?」
 女――もしかしなくても探偵――は、いつもと変わらぬ調子でエプロンをはずすと食卓について、愉快そうに笑った。

   ***

 ことの起こり、というほど劇的なことはなにもない。
 仕事が舞い込んできたのは夕方のことだ。どうして自分にそんなものを依頼しようと思ったのか、それは子どもの捜索依頼であった。
 奇妙な依頼。
 筋の通らない内容。
 そんなものは日常的に聞かされるものだが、これはまたおもしろいくらい筋が通っていなかった。
 彼は、探すべき子どもの名前も、容貌も、一切わからないというのだ。
「いたずらでしたら、」
「待って。待ってくれ、違うんだ。本当に、いきなりまったく思い出せなくなったんだ、信じてくれ……大事な子なんだ」
「記憶を取り戻すのは専門外ですが」
「私が探してほしいのは子どものほうだと言ってるじゃないか。そう、たしか、娘によく似てるんだ。死んだ娘」
「肝心の容貌も名前もわからないのでは……ああ。わかりました。わかりましたよ」
 必死になって食い下がる声を聞くにたえず、手がかりになる情報を思い出したら連絡を入れるようにと言いおいて別れ、帰り着いたのが晩になってから。やけ気味に前金を積まれては断りようがないのが人情ってものだ。
 自宅であとは寝るだけ、そんな時になって唐突にあの探偵から連絡が入った。
「ちょっとー、ごめん、ちょっと今から来てくれない?」
「お断りします」
「あっ、あー、そう言わないで。服とか今からじゃちょっと買いに出られないしさー。適当に女の子ものの服を、あ、ワンピースとかでいいやとりあえず。よろしく!」
「断るって今、何ですか女の子って、ちょっと!」
 おまえの耳は節穴かと怒鳴りつけるも時すでに遅く、一方的に回線は打ち切られているのだった。かといって自分からかけなおすのも癪だし、直前にはなんだか不穏な単語も耳にした。
 まさかとは思うが犬猫と同じ調子で子どもを拾ったのではあるまいか。
 そのまさかであった。
 疑いながらもサイズ違いの服をいくつか買って持って行くと、まず来客用のソファに横たえられた子ども、彼の言うところによれば女の子の姿があった。
 台所で、水を止める音が聞こえた。
「早かったねー、ありがとう。助かったよ。汚れてるから体拭いたりくらいはしてあげたかったんだけど、よく考えたらサイズ合う着替えもないじゃん?」
 ソファにはタオルが敷かれ、子どももまた同じくバスタオルでぐるぐる巻きにされている。ストリートの雨の中で行き倒れていたと見える。
「やっておきます。弱った胃に固形物は入りませんよ」
「えっ、あ、そっかあ。作り置きのポタージュあるけど、これいけるかな?」
 包丁をおいてなにやら冷蔵庫と相談を始める彼をよそに、抱え上げた子どもの体はいやに軽かった。
 体と髪を拭っている間も目をさまさなかった彼女が起きたのは二十三時を回った頃だ。やはりもうろうとした様子で、詳しい事情を聞き出すには至らなかった。
探偵は食事と水分をとれるだけ取らせることを最優先と判断したようだが、彼女がまともに腹に入れられたのはコップ半分の水と、スープに浸したパンが二かけらほど。聞き出せたのはセシルという名前ひとつだった。
 この男の言うことには、飲食店の裏手でポリバケツやら廃棄物やらに隠れるようにして倒れているのを見て放っておけなかったとか。なんでそんなところをのぞき込んだのかと聞けば、仕事で犬を探していたのだという。
 肩にかかる明るい青の髪は、毛先に向かって色が抜けるように白くなっている。衰弱は一時的で、おそらく数日ものを食べなかった程度。そこらにいる親のない、飢えた子どもよりは肉付きも良い。
「じゃ、探したら親もいるかな?」
「どうでしょうね」
 ちょうど、子ども探しの依頼は受けているものの。
 そう確か。そういう会話をして、なしくずしにまたこの事務所の仮眠室で寝たのだ。

 それで、朝。
 例のごとく用意されていた分の食事を腹につめこんで、目の前の女と、自分とを見比べる。
「別に料理に変なものいれたりしてないよ? たぶん?」
「たぶん?」
「え、なに怒ってんのー、ほんとだって。最近の買い物っていったら仕事のついでに荒野の行商から怪しい岩塩とか買ったくらいで」
「それじゃないですか」
「まっさかー! それもう四回か五回は使ってるよ」
 勢い、笑い飛ばす彼女の額に銃を突きつけると、相手の指が背後をさした。
「子どもが見てる」
「……」
 振り返ると、まだおぼつかない足で立つ少女の姿があった。さめやらぬ怒りは排熱孔から吐き出して、そのまま椅子にかけなおす。ライフルも椅子の背にかけた上着で隠してはみたが、今更かもしれない。
 代わりに、向かいで探偵が席を立った。
「おはよう! 具合はどう?」
「お、おはよう。あの、だいじょうぶです」
 おぼつかないながらも食卓のほうへ歩いてくると、一度こちらを伺うようにちらりと眺め、それから探偵のほうへ頭をさげた。
「ありがとうございます。きのう」
「いいっていいってー。買い出しとか着替えとかはそこの助手がやってくれたんだし」
「だれが助手ですか」
「あっ、お兄さんも、ありがとうございます。ええと」
 遠慮がちに、少女は探偵を見上げる。
「きのう、男のひとでした……?」
「そうなんだよー。起きたら女になってたんだけど、昨日君をつれて帰ってきたのは俺。ニルギリ・カタラーナといいます。どうぞよろしく」
「あ、はい。セシルです」
 相手のペースに飲まれて改めて自己紹介をする少女、いわく歳は自分でも知らないが十一ないし十二、らしい。
「そっちのお兄さんは好きに呼んであげて。名前ないって言い張るからさー」
 家族のことは聞かないのだろうか。成り行きを見守っていると、セシルは律儀にこちらを振り返った。不安げな顔つき。
「どうも。なにか食べられそうですか」
「あ、はい、ちょっとだけ……ありがとうございます。あの、お兄さん、さっき銃……」
「見間違いですよ。ところで」
「自他ともに認める仲良しコンビだからね!」
「は?」
「食べれるなら何か食べようか! 柔らかいもののがいいよね?」
 探偵は言いたいだけ言った後で立ち上がる。セシルの顔を覗き込むようにして首を傾げ、うなずくのを確認して、にっこりと笑い返す。
 手際よく話題を遮られたと気づいた。にらんでやると、台所から手招きされた。隣の椅子に座って肩を緊張させているセシルを一瞥して立ち上がる。
 少なくとも自分が隣にいて良いことはなさそうだ。
「事情を聞かなくていいんですか」
「そんなストレートに聞くもんじゃないでしょ。ところで今日用事ある? なかったら買い物につきあってほしいんだけどー」
「お断りします」
 暖まったスープとサンドイッチの皿をひったくってきびすを返すと、後ろでざんねん、と肩を落とす気配がした。

 依頼人から送られてきた娘の写真は、セシルとは似ても似つかないものだった。今回の捜し物は、腰まである長い赤毛、そばかすのういた黒い瞳の少女。によく似た誰か、ということらしい。依然情報不足であることは否めない。
「ね、ね、みてお兄さん! これぜったい似合うよ、ねえ!」
 そんなことに頭を悩ませているうちに、あちらはさっさと打ち解けてしまった。
 試着室であの男と騒いでいたセシルが顔を出したかと思うと、かしましくこちらに呼びかけるのだからたまったものではない。生来。子どもの扱いは苦手なのだ。その後ろでふつうに女みたいにはしゃいでいるあの男の姿も、正直できるだけ目に入れたくない。
「どうどうー? かっこよくない?」
「かっこいい! すごい、探偵ってかんじする!」
「ほんと? じゃあこれ買っていこうかなー」
 きわどいところまでスリットの入ったタイトスカートに胸元のあいたシャツはシンプルながら、なるほど彼がいつも好むスーツスタイルに準じるものである。それ以外の要素はあまり考えたくない。
 服の買い物に結局つきあわされている現状を含めて。
 いわく「家出少女のことを聞くなら家出少女相手でしょう!」「君は怖がられてるし、もうちょっと心を許してもらったほうがいろいろ聞けるよー」木を探すわけでもないのに森に入った自分がバカだった。乗せられたのだ。
「どう?」
 もとのスーツを着直して、荷物を受け取るついでに見上げてくる。現状をしっかり楽しんでいるらしい、が、ヒールが突っかかって転びそうになる腕を掴むのはこれで八度目だ。
 一件目で買ったばかりのはずだが、この調子では一足は帰るまでにぼろぼろになってしまう。
「そちらはどうなんですか」
「んー。なんかやっぱ家出っぽいってことしかわかんないな」
「ずいぶんと悠長じゃないですか」
「急ぐ必要ないからね、こっちは」
 依頼とかではないし。その通りだ。そちらは勝手にしろと言わんばかりであった。
 こちらだって別に急ぐ用件じゃない。金を積まれたからやらなきゃならないだけだし。ただ。
子どもは信頼のおける大人のもとで育つべきだ。とくにこんな、一歩外に出ればろくでもない人間ばかりの場所であれば。
 死んだ娘に「よく似ている」という言い方が、やけに気にかかっていた。そんな娘とどう知り合って、どういう理由で探しているのか。
「自分の娘だというのなら」
「まあ、依頼人に聞くしかなくない? そういうのは」
「覚えてないそうで」
「ふうん?」
 おかしいね。柄にもなく口紅を引いた唇が半弧を描いた。どうしてだか、いつも以上に衝動的に引き金を引きたくてたまらない。
「お兄さん。つかれた?」
 セシルに上着を引かれ、ライフルにのびそうになっていた右手を止めた。それを目ざとく見て目で笑い、探偵は彼女と入れ替わりにレジへ向かう。
「いいえ。疲れましたか」
「ちがうよ。荷物持ちばっかりでお兄さん、自分の買い物とかしてないなって」
 まだ店員と談笑している探偵を眺め、それからその場に膝を折ってみる。セシルと視線を合わせると、素直にのぞき込んできた。今朝ほど警戒されてはいないようで何よりだ。
「こちらにも多少の下心がありますので」
「探偵さんのこと好きなの?」
「……。そうですね、あなたにこういうお友達はいませんか」
 送られてきた画像を見せると、一瞬その表情がこわばった。それから、何事もないように笑って「ううん、しらない」
「そうですか。知っていたら、この子についてお聞きできるかと思ったのです。同じ年頃ですしね」
「うん。お仕事?」
「そう。仕事です」
 そうでなければあんな男と一緒に行動するものか、などと彼女に言ってもしかたがない。
「お兄さん、あたしのことは聞かないね」
「聞いてほしいですか」
「ううん。家とか親とかあんまり聞いてこないから、ほっとしてるんだ」
「そうですか。けど帰るところがあるなら、帰ったほうがいい。あの男は決して信用のおける人間ではありませんから」
「お兄さんは?」
「お兄さんもです」
「ふうん。おかしいね」
 なにがおもしろかったのか、彼女はそう言うなり笑いだすのだった。

「ないしょなんだけどね」
 事務所で夕食を待っている時に、また同じように上着を引かれた。
 今度は幾分声をひそめて「探偵さんが女の人になったの、あたしのせいかもしれないんだ」
 どことなく罪悪感のにじむ声音である。背後からその探偵が満面の笑みで近づいていることに気づいていないところを見ると、よほど思い詰めているのだろう。
「ほう。どうしてです?」
「あの……ね、あたし魔法使いなんだって」
 水差しの置かれる音に、細い肩が跳ね上がった。勢いそちらを向いた顔がさっと青ざめる。
「へえ、どんな魔法使うの?」
「えっ、えっ、えっと」
「怒りませんよこいつは。おちついてください」
「は……い」
 かわいそうに、椅子の上ですっかり小さくなったセシルの前には淡々と今夜の夕飯が並び始める。この調子ではまたろくに食べられないのではないか、いらない心配をしてしまう。一瞬後にはそれも杞憂になるのだけれど。
 ケチャップで顔を描かれたオムライスを見て少しだけ元気を取り戻した彼女に曰く。
 セシルはなんらかの魔法を使うことができて、それを理由に長らくどこかの研究所にいた。また、そこから逃亡してきて行き倒れ、この男に拾われた。
 魔法の詳細はわからないが、自分がやってしまったことならば、もしかしたら自分が元に戻せるかもしれない。
 おおむねそういう内容であった。
「魔法ねえ。ハッカーは魔法の杖を使うっていうけども」
「そういうの使わない、なんていうか、ハッキングとかとは違うらしいの。あたしもよくわからないの」
「そうだろうねー。まあ、つまり君が戻しかたを探してくれれば元に戻れるわけだ?」
「うん!」
 スプーンを片手に元気よくうなずくセシルを眺めながら、探偵の奴はしっかりとその「魔法」とやらについて調べ始めているらしかった。
 抜け目のない奴だ。結局、彼の用事につきあわされたばかりで、自分のほうにはなんの収穫もなかった。いや気になることならひとつだけ。今回はそれでよしと考えるしかないか。
 再び視線をやると、頼みの魔法使いはすっかりオムライスに夢中になっているのだった。

   ***

 手がかりになりそうな人物を見つけた、と告げると、男はぱっと表情を明るくしてこちらを見つめた。
「探してくれていたんですね」
「前金をあれだけ押しつけておいてそれはないでしょう」
「そ、そうでした。ええ。それで、その手がかりとはどのような?」
 彼には、セシルの写真を見せてみることにした。彼女がわからないと言い張っても、逆はあるかもしれない。そうは思ったがやはり、実際にはそうはいかぬもの。彼はじっくりそれを眺めてから、ゆっくりと首を横に振った。
「まあ、期待はしていませんでした。彼女のほうは何か知っているのかもしれません」
「ええ、ぜひ。ところで、声低くなってませんか」
「のどの調子が悪いようで」
 手がかりが見あたらないのなら、とどまって彼と話すいわれもない。きびすを返して、思いつきで立ち止まる。
「あなたのほうはいかがでしょう。彼女との関係を思い出せましたか」
 それについても、依頼人はかぶりをふるばかりだった。
 どういう理屈で、彼はこの少女をさがしているのだろう。たとえば、我が子によく似た子どもを養子として迎えたのならば。思い出せないとか、わからないなんて言葉は出てこないはずだ。ありのままを話せばいいのだから。戻ろうとしたところに、
「なんかわかったー?」
 間延びした声。思わず顔をしかめた。いつからそこにいたのか。
「いいえ。なにも。ずいぶんとお暇ですね」
「そうでもないよ? てか、あの人だったんだねえ、依頼人は?」
「お知り合いでしたか?」
「いや? こっちの用件」
 同時に、昨晩のうちに調べたであろう情報がこちらへわたってくる。
 セシルは事務所へおいてきたのだという。そのはずだ。
「魔法使いの同居人なんだって」

 非常に、はなはだしく、不本意ながら。
 情報交換は事務所以外の場所で行うべき、という結論になった。すなわち、こちらのアパートで。
 ものなさ過ぎじゃない? とかやっぱり普段ちゃんとご飯食べてないでしょ? とかいう小言をすべて聞き流してカーペットを敷きっぱなしの床に直に腰を落とす。必要ないから置いていないだけのことである。
 彼が言うことには。
 彼女の言う「魔法」について研究する機関がいくつか見つかった。セシルの言うとおりハッキングによらず現実の事柄に干渉しゆがめる力。
「それはデイブレイカーの持つものとは違うのですか」
「違うよー。現に、そうだなあ、魔法使いは、テロメアが極端に短いんだって」
「寿命ですか」
「そういうこと。デイブレイクの代償は一時的なものだけど、魔法はそうも行かないみたいだね?」
「寿命を、削って事象をねじまげる?」
「一時的にね」
 勢い、その場に身を乗り出した。
「彼女は一体なにを?」
「俺の性別を変えたり、保護者の記憶を消し、いや、抑えつけたり?」
「どうして」
「さあ?」
 いわく保護者について。
 セシルは数少ない「魔法使い」の一人である。本当ならば研究所で手厚く保護されていなければならない。ある時、彼女は研究所を脱走し、一年ばかり行方をくらました。セシルや研究内容にかかわる一切の記憶を魔法によって抑制され、研究員たち自ら彼女を追いだしたのである。
 血眼になって探した彼らが見つけだしたのが、例の依頼人の居所だ。
「そこから、何らかの理由でまた逃げ出してきたと」
「それも、相手の記憶を抑制して――継続的にね」
 今度こそ、勢いをつけて立ち上がろうとする。のを、腕を引く不快感で押しとどめられた。
「なんですか」
「セシルにどうにかしろって言いにいこうとしたろー? きっとうまく行かないし、依頼人と同じ轍を踏むかもよ?」
「黙っていれば彼女は自分の命を使い果たしますよ」
「その通り。だからー、やめる気がないなら、うまくその気にさせてやるのが大人ってものじゃない」
 へたをうつと依頼のことすらすっぽり頭から抜けてしまう。その通りだ。
 深く息を吐いてどうにか冷静になろうと心がける。今や出て行く気がないとわかると、女の手は指をなぞるような動きで離れ。
 その動きがいやに、癇に、障った。

「撃たないね?」
 身を乗り出す女が見えた。割れたスリットから不健康に白い足が付け根までさらされる。
「二人きりになったらすぐにでも撃ち殺しそうな目でずっとこっち見てたのに?」
「そうですか」
「そうそう。今なら男でしかやれないオプションもあるし。いつも一生懸命殺しにきてくれるから試しにくると思ったんだけどな」
 彼のいいたいのはつまるところ、あれだ。ああ。自分の文化圏にもあった。相手の尊厳を傷つけた上で殺害するには十分な卑劣きわまりないやりくちだ。
「確かに」
 やりたいかと言われたら、
「できるでしょうね。どちらも愉しむような相手のために無駄な体力も時間も使う気になりませんが」
 たびたびおこった不快感の原因もわかってしまった。彼から目をそらすとまた大きくため息をつく。とっとと事務所へ行ってしまおう。人目があれば自制できる。
 考えるのはそれから、
 と、
 じわりと冷たくなった足の感覚に思考が中断された。
手があった。いつもはスーツの袖の下。細い手首がなでるように這い上がってくる。
「たまにはただ楽しむためにやるのもいいと思うけど?」
 てのひらが腹を撫でて、胸をなぞり、首筋へとどきそうになる。真っ白な両手が触れたところから体温が奪われる。凍り付いたように息ができなくなる。
 固まっている間に下から見上げる彼女の、彼の? 顔がいやに近くにあった。
振り払った手がライフルを取り上げ、よく狙いもせずに引き金を引いた。
 相手ははじかれるように後ろへ倒れた。探偵のわき腹が破けていた。黒い血のしみが広がるのと逆に、こぼれた臓物は緩慢に傷口から内側へ戻っていく。
「あれ、狙いが甘くない? めずらし」
 二度目。頭を貫通して壁に穴をあける。細い脚が跳ねて完全に沈黙する。
 三度目。四度目。リロードして五度目。六度目。倒れた彼女の顔形が無くなってしまうまでひたすら至近で撃ち続け、いつのまにか展開していた義手を右手でおさえつける。震えていた。血の海に脳やら歯やらが転がっているのを見下ろす。
 排熱孔がごうごうといやな音を立てる。心臓が痛いほど跳ねていた。息がそろわない。
「お望み通りですよ、満足しましたか?」
 望むばかりじゃないか。
 なにをしたって手前の望むままじゃないか。
 ふと冷静にそんな考えがよぎった。
 逃げるように自室から飛び出し、たたきつけるように閉めた扉にもたれて排熱孔が静かになるまで動けなかった。
 頭と腹は、まるで自分が撃たれたみたいに痛みを訴えていた。

 霧雨の中を歩く内に落ち着いたものの、鈍い腹部の痛みが収まらない。頭が物理的に冷えてきたことだけが救いだ。ようやく、人混みの喧噪や足音が耳にとどくようになってきた。
 せめて遠回りしていこう。次に自宅に戻るときにはあの男の残骸が転がっているのかと思うと憂鬱でならなかった。
 思いつきで通りに面したガラス戸を見る。背後に人の波は尽きない。自分の姿は、男だろうが女だろうがさっぱり変わりばえしなかった。笑われるわけだ。あの男もたいがい頓着していないふうだったが。
 早足にその場を歩き出したところに、依頼人からの連絡が入る。
「どうしました」
 返ってきたのはいやに興奮気味の声だ。
「思い――思い出したんです!」
「探していたお子さんのことですか」
「ええ、ええそうなんです、聞いてください、探してください。私はあの子に、セシルに謝らなければ」
「お聞きします。落ち着いて、いや」
 もう一度ガラス戸に目を向ける。
「わかりました。用事を思い出したので、移動しながらお聞きします」
 言いながら、Webに顔のない知り合いを探しにかかる。
 声は聞き慣れた自分の声だった。

   ***

「あたしね、すっごくツイてないの」
 言い訳するつもりじゃないんだけど。そう付け足して、セシルはしゅんと肩を落とした。
 台所で倒れている彼女を発見したのは、一足先に事務所に戻ったニルギリであった。NNに撃ち殺されて、再生した身体がどうやらすっかり男性のそれに戻っていることに気がつくと、投げ出されていた彼女の上着を借りてまっすぐに事務所に戻った次第。
 セシルが「魔法」の使用をやめたらしい、と助手からの連絡が入ったのが、事務所につく少し前。彼女は所用をすませてから来る、とのことだった。
 戻ってみれば。
 ニルギリのエプロンを首からひっかけたセシルが、ばったりと床に倒れているのだった。掃除でもしていようという心づもりだったのかもしれない。
「ツイてないって、どういうとこ?」
 一日ぶりにスーツに袖を通した探偵が、ベッドの横へ椅子を引いて腰掛けた。ココアをいれてはきたものの、今の彼女はコップもまともに持てそうにない。
「うち、お母さんだけだったんだけどね。なんか偉い人から研究のために? とか言って、すっごい金額であたしのこと売ってくれって来たんだ。
 あたしは絶対家にいるって、言ったのに、お母さん」
 熱あがったね、とぬらしたタオルを目元に乗せてやると、セシルはそれを両手で押さえてうなずいた。頬が熱を持って真っ赤になっていた。
「それと、研究所の人たちは優しかったんだけどね。だから、あたし、ちゃんとがんばれたんだけど。自分の魔法で、どんなことができるかわかるくらいまでなったんだよ。『書き換え』っていって、人の認識を書き換えてしまうの」
「うん。それってどういうの?」
「たとえばだれかがあたしのことを殴ろうとするでしょ? でも、あたしが『そんなことしないよ』って書き換えたら、殴る気がうせてしまうんだ。ほかにも、ぜんぜん似てないものを似てるって感じるようにしたり、現実とまったく違うものが見えるようにしたりとかするの」
「なるほど。男の人が女の人に見えるようにしたり?」
「うん。それで、研究員の人が『自分もなにか書き換えられたりしたらたまらない』って」
 セシルに危害を加えれば、間違いなく自衛のために何らかの書き換えが行われる。いわば研究員たちの共通の認識がそれであった。事実それで彼女の安全は確約されていたのだけれど。彼女自身は、それを母の時と同じく裏切りと受け取ったのだった。
 家には帰れない。行ってはみたが、親はとっくにどこか別なところへ引っ越した後であった。
 研究所を出た彼女は、心細いあまり無意識に、目についた他人へ認識の書き換えを行った。それが、かの依頼人である。出会ったときは、確かに彼女を死んだ娘とそっくりだ、と思ったのだ。
 セシルの魔法が切れて、娘とまったく似ていないことに気がついて態度を変えることもなく、その家で一年を過ごした。
 荒野で商いをしていたらしいが、仕事中に妻子をなくし、生きるあてのなくなった男だった。セシルを拾ってからは職を見つけ、不自由はあれど生活できる程度には稼いでいたが、とにもかくにも貧しい男だった。貧しい男だったが、彼女を飢えさせることだけは決してしなかった。
「でも、あたしはツイてないんだ」
「研究所の人に見つかってしまったってね?」
「うん。あたしのことを絶対に売ったりしないって約束してくれてね、それで、次の日の朝早くに玄関の外で、研究所の人と話してた」
 うなずいてた。と、言葉をついだ声が泣き声になる。ニルギリは助手からの連絡にうなずいて、セシルが泣きやむまで黙って見下ろしていることにした。
 窓の外は霧のような雨で白くかすんでいる。ヴィークルで走るとして、まあ彼女であればうまいこと乗りこなすことだろう。
「ところで、もうひとついい? あ、これは落ち着いてからでいいんだけどさー」
「う、うん」
「なんで俺とあの子の性別ひっくり返したのかな? って」
「探偵さんが、困ればなんでもよくって……あたしが戻す方法知ってるってわかったら、戻せるまではここに置いといてくれると、思って」
「ん? なるほど? あの子のほうは?」
「お兄さん? あの大きなお兄さんがどうかしたの……?」
「あー……」
 口元に手をそえる。笑いをこらえるようなそぶりであった。

 NNが依頼人を伴って戻ったのがそれから実に一時間後。ひと暴れしてすっきりした表情の助手の後ろで、それにつきあわされたらしい男がげっそりとたたずんでいた。
「戻りました。セシルはだいじょうぶですか」
「大丈夫そうだよー。そりゃあ特定の人にずーっと魔法使いっぱなしじゃ倒れもするよねー」
「だ、だれ……えっ?」
 ベッドに座っていたセシルはといえば、男の姿をみとめるなり警戒を露わにニルギリの後ろへ回る。親の仇でも見るような目つきであった。
「戸惑っている暇はありませんよ。さっさとストリートから出て行ってもらわなくては。彼は荒野にアテがあると言っています。いいですね」
「やだ!」
「そういうのは後でやってください」
「セシル」
 男の遠慮がちな呼びかけに耳をふさいで大きくかぶりを振る。
「探偵さんとお兄さんも同じことするんだ! ひどいよ!」
「セシル」
 ついで、大股に歩み寄ったNNの手がその両手を掴んで耳から引きはがした。
「あなたは研究所に売られることはありません。なぜなら、あなたを回収する研究員はたった今から情報を盗みに入ったスパイを捜す仕事で忙しくなるから。あとは残りを振り切って姿をくらますだけです」
「うわあ、いくらもらったらそんなに至れり尽くせりに?」
「有り金全部巻き上げましたから」
 ニルギリの視線を受けて、男は困り顔に笑みを浮かべた。強がりというわけではないらしい。
「もともと、金だけ受け取ってセシルをつれて逃げ出すつもりだったんですよ。もらった命なのに、くれた相手なしじゃあ生きてられないでしょう」
 気の弱そうな男だが、話を聞けばなるほど商人などしていただけあってしたたかな奴だ。惜しむらくは、意図をくみ取れなかったセシルを傷つけ、自暴自棄にさせてしまったことだ。
 じんわりと、ニルギリのスーツにしがみついていたセシルの手が、ゆるんだ。
「いっしょにいる気なら相談しなきゃねー。子どもでも今はひとりで生きる力があるし、頭もいい」
「まったく。その通りです。セシル」
 苦笑いだった。彼が近づいても、娘は逃げようとはしなかった。
「許してくれないか。ほんとに、君を売り飛ばすつもりなんかないんだ」
「ほんとうに?」
「誓って」
 依頼人に場所を譲っていたNNが、玄関から外へ出るのを見送る。ニルギリはためらう少女の肩を前へ押しやった。遠慮がちに彼を見上げて、セシルはようやくスーツから手を離した。
「お父さんといっしょに行っていい?」
「もちろん。今度はあきらめないでしっかり手を握っておくこと」
「うん。ありがと、探偵さん」

   ***

 長い一日だった。
 セシルと依頼人をヴィークルに乗せて荒野の入り口まで送り届け、彼女がストリートへ戻ってきたのが、すでに明け方。
 まあ金額相応の仕事だと思えば惜しくはない。せいぜい今日は惰眠をむさぼってやろう。
 そんな自堕落な考えで頭をいっぱいにして開いた自宅の扉は、しかし即座に閉じられた。
 腐った肉と血のにおいで、仕事帰りの爽快感はすっかり吹き飛ばされていた。

 ニルギリ探偵がサプライズのつもりで差し入れを持ってそこを訪れたときには空き部屋になっていたわけだが、それはまた別の話だ。