天上の青


 依頼人はローレンという、そこそこ名のしれた造型師であった。普段はもっぱら上流で商売をしている。彼のデザインする義肢は機能面を邪魔せず、華美な装飾を持たず、また優美だ。
 その彼の副業が――実質、当人にしてみたらこちらが本業なのかもしれないが――人形作りである。このたびこうして依頼された件も、当然そちらの話題であった。
「個展で一番出来のいい展示品が壊されていたと」
「警備の問題でしょう」
 朝一番に脈絡もなく呼びつけられたあげく美術やら芸術の話題で置いてけぼりをくらい、本題もこの調子だ。にこやかにパンフレットをめくる探偵と対照的に絵に描いたような不機嫌顔の助手、二人の返答は当然肯定と否定の二極であった。
「つれないなあ、せっかく現場もそのまま、ついでに個展の作品見に行けるのに」
「そんなの興味のある手合いが行けばいいでしょう」
「興味ないの?」
 心底意外とばかりに向けられた目から居心地悪そうに顔を逸らし、NNは椅子から立ち上がった。
「いずれにせよ、あなただけで十分な仕事でしょう」
「それがそうもいかないんだ。俺じゃ護衛はできないでしょ?」
「護衛?」
 彼女は眉間に深くしわを寄せて、向かいへ座るローレンを見やる。ついでその細工人に似つかわしくないたくましい体躯に大きな手足を。
「彼に?」
 怪訝そうな言葉を笑い飛ばしたのは、当人であった。
「まさか。護衛を依頼したいのは、私の作品のひとつです」
 ニルギリの手元からパンフレットを受け取り、いくらかページを手繰る。彼が指さしたのは、自分の隣に立つ痩身の人形であった。
「ティフェレトといいます。この仕事の最初のときからずっとつきあってきた、我が子のような作品で」
「人形ですか」
「ええ。事故や災害で壊れる危険の無いよう、とっさの自衛のためにAIをつんでいる自動人形です。しかし、他人から危害を加えられては、できる抵抗にも限度があります」
「危険回避のためだけにAIを?」
「もう一つ。表情を変えたかったんです。ほほえまないのもまた冷厳な美しさがあっていいでしょう、それを崩して笑う様もまた私の求める美しさだ。そのすべてがほしかった」
「偏執的ですね」
「よく言われますよ!」
 皮肉もさらっと受け流されていっそう不機嫌な顔をする助手を横目に、探偵はさっさと依頼料の話に移った。気の乗らない仕事は金額次第だが、当然この手の依頼人は惜しまず金を積む。
 腕組みしたまま出て行くタイミングを逃したNNの視線は、行き場をなくして例のティフェレトの上に落ちついた。
 一見すると、細面に澄まし顔の女であった。伏せた目は金色、後ろへ向かって編み込まれた細い髪も淡い金である。枝のようだな、とNNは思った。
 時々街路で見かける木の枝を折ったら、こんな形になるのではないか。事実、どこをさわっても折れそうな外見であった。
 ニルギリへの依頼は、個展の展示品を壊した犯人を見つけだすこと。
 NNへの依頼は、個展の残る期間中、ティフェレトの護衛を行うことであった。
「作品が壊されたのに、個展は続けるんですか?」
「ええ。あれだけを見せるために開いているものではないですから」
「現場の再現性は高いほうがいいよ?」
「そういう話はしていません」
 終始楽しげにしているニルギリとその言葉を即座に否定しにかかるNNを見比べ、ローレンもまた席を立った。隣においていた外套に袖を通しながら、
「お二人は――」
 続く言葉を察して助手が「命が惜しければ」と早口に遮るのと、「仲良しってよく言われるんですよー」と探偵が笑顔で答えるのは実に同時である。いつものことながら。
 一足先に玄関を出た依頼人の背後で数回、銃声が響いた。

 会場の控え室にはティフェレトのほかに男性が一人、やることもなく椅子に腰掛けて待っていた。
 資金援助をしてくれているフィクサーだという。ローレンは彼をハルと呼んだ。人好きのする笑みの、五十がらみの男だ。
 遅れてティフェレトが呼ばれる。膝の上で組み合わせていた手をほどかずにまっすぐ立ち上がる姿が印象的であった。
「お帰りなさい、ローレン」
「ああ。ただいま」
 探偵はといえば、造型師の背中越しに少し体を傾けて、その人形をのぞき込んでいた。
 かと思えば、簡単な紹介の合間に隣に立つ助手を肘でつつく。
「そっくりだなあ、くすりとも笑わないとことか!」
「怒りますよ」
「いつも怒ってるじゃんー」
 さらに言い返そうとしたNNの前に、滑り込むようにティフェレトが立った。彼女より頭ひとつぶん低いところから、整った顔がじっと見上げる。ややあって、思い出したようにぺこりと頭を下げた。
「護衛の方。どうぞよろしく」
「ええ。どうも」
 なおもしわの寄った眉間をおさえて、NNはそこから一歩後ろへ下がった。
「お名前を伺っても?」
「お好きに」
 ぱちりと目を見開き、ティフェレトはうなずいた。なにを言うわけでもなく。ただじっとNNの顔と、腕を見て、それから思い出したようにニルギリを振り返った。
「今日の展示は終了しました。壊れた作品のところまでご案内します」
「ありがとう、助かるよ!」
 ついでに貸し切りだねー、などと軽口をたたきながらきびすを返す。すでに控え室から出ていたローレンと並んで歩くティフェレトの背中を追う。NNとニルギリの後ろから、ハルが少し遅れてついてくる。展示スペースまでは控え室から一直線に歩いていける。なにしろ横開きの扉はすべて開け放してある。
 ガラスケースに林立する人形、時折手や足だけのものがあるが、あれはまた趣味の延長で作った義肢なのだという。
 展示のスペース自体は、長方形の室内をいくつかのパーティションで区切られているシンプルなものだ。壁の色だけがところどころで違うくらいである。各部は中央の1番広いスペースにつながっていて、閉じた空間はいっさい存在しない。
 ぐるりを囲むスペースはそれぞれ五つに分けられている。壊れた人形は、中央のスペースにそのままになっている。
 つまり、ちょうど東の角にあるほかの展示物のガラスケースを突き破って、頭から右の上半身がずたずたの状態で中の人形によりかかっているのだった。
 状況を説明しようと探偵のほうへ振り返ったローレンの隣を通り過ぎ、ティフェレトはそこへ膝を折ってそれを見つめた。
「彼はわたしに先んじる『完成品』でした」
「完成品というと?」
 ニルギリの問いかけに、顔を上げる。
「邪気のない笑みを浮かべる自動人形でした」
「君とは違う方向性だったのかな?」
「似通った方向性で作ったものと聞かされています」
 そこで、彼はつとローレンへ視線を戻した。大柄の造型師は苦笑いで肩をすくめ「その通りです。ほとんど同じコンセプトで制作したものでした」
「ミカエルといいます。わたしのきょうだいでした」
 立ち上がりざま、ティフェレトの指先が床をなでた。
「ミカエルがこのような状態になったのは、昨日の午後十八時ごろです。その日の展示が終わるおおよそ一時間前でした」
「その時間て、たしか地震ありませんでしたっけ? ちょっと大きいやつ」
「ええ。アリエス全域とまではいきませんが。事務所も揺れましたか」
「ちょっとだけ。けど、そういうことで壊れる作りじゃないんでしたっけ?」
 ローレンはうなずいて、傍らに立つティフェレトを見る。
「彼女と同じように、自衛のためのAIを搭載していました」
 おもむろにその足がティフェレトの足下をすくった。がくんと傾いだ自動人形の手は、反射的に後ろに立っていたNNの腕を掴んだ。
 短い謝罪とともに離れたティフェレトにかぶりを振ってみせ、彼女はそれと、ミカエルとを見比べた。
「髪が乱れていますね」
「掴んでたたきつけたんだろうねえ」
「暗闇に乗じて?」
 確認の視線を送ると、今度はティフェレトが首を横に振った。
「体温でわかります。センサーがあるので」
「なるほど」
 事件の前後、ミカエルは自由に展示スペースを歩き回っていたという。客をあたれば、話をした者もあるだろう、ということだった。ティフェレトは午前中の案内を終えて控え室でハルの話し相手を、ローレンはミカエルと行動をともにしていたという。
「警察に相談したら、私が一番疑わしいと言われてしまいましたよ」
 ローレン本人はやはり笑い飛ばしているものの、そのときばかりは不快感が隠せない様子であった。
 当然、不特定多数の人間がいる中で制作者だけを疑うわけにいかないが、近くにいたのが彼であったのならばそうもなろう。
「控え室からここまでは見ての通り一直線ですけど、ハルさんとティフェレトはちょうど一緒にいて会話してたとか?」
 ニルギリの問いにはハルがうなずいて答えた。いわく、ローレンとハルは交代でホストをつとめ、休憩の途中でちょうどティフェレトが入ってきたのだという。しつこく話しかけてくる客がいたので控え室へ逃がしたのだ、と横からローレンの補足が入る。
 人間でないのをいいことに、時折マナーを知らない者が手を触れようとしたりもするのが悩みだという。展示物に代わりはないというのに、ケースや台で仕切られていないとそれがわからなくなる愚か者はどこにでもいる。
 停電の時間はおおよそ十分とそう長くない。その間に誰にもぶつからずに逃げたり入ってきたりした者がいるというのもあまり現実的な考えではなさそうだった。
 ニルギリは考えを整理したいので、と一度解散を提案し、明日の展示に間に合うようここを訪れることを約束した。帰り際、ティフェレトが何事かローレンに耳打ちしているのが見えた。
 ややあって何か受け取ると、探偵に声をかけて、そっと両手で包み込むように持ったそれを差し出す。
「これは?」
「ミカエルの瞳です」
 言われて開いてみれば、受け取った小さな箱の中には、コードも抜きっぱなしの目玉が無造作に転がっているのだった。瞳の部分は、涼やかな青色をしている。
「データだけを取り出す時間はなかったので。彼の見たものがお役に立てばと」
「ふうん。それは、君の考え?」
「いいえ」
 ニルギリの目は、再び体の手前で組み直された薄い手の甲へ向けられる。それを気にとめず、ティフェレトはハルのほうへ顔を向けた。見ると、相手は笑みを浮かべて軽く会釈を返した。
「なるほど。天使は嘘をつかないだろうからね」
 ありがたく預からせていただきましょう、ともったいぶった言い方でそれを受け取るのだった。

 ニルギリが趣味で集めている骨董端末もこういったときには案外便利である。このご時世、有線で映像その他のデータを転送して再生できる代物を持っているのなんか、専門の研究機関や一部のギークぐらいだ。
 事務所に戻ってさっそくミカエルの目に残ったデータを確認した探偵が、シャワーをすませて仮眠室へ向かおうとしていたNNを呼んだのは書斎に入って一時間も経たない頃だ。
「何か」
「ちょっと相談があってさー」
「あなたの仕事は終わっているはずですが」
「お、鋭いねー。けどまあ、証拠があと少し必要かと思うし、もう一つ問題があるんだ」
 君も同じ想像をしているようだけど、と前置きをして、ニルギリの笑みがふと寂しげなものに変わった。
「それが正解だったら、あんまり誰も幸せになれない事件だよね」
 気にくわないのはNNのほうであった。ものだろうが命だろうが名誉だろうが、なにかを毀損する、あるいは失わせるというのは、なされた時点でただの結果にすぎないものだ。
 求められた仕事はその因果関係を詳らかにすることであって、そこから最善の結末を求めることではない。
 とはいえそんなことを口に出せば、この男が探偵と呼ばれる職業への一種憧憬じみたロマンを語り始めることも想像に難くない。煙に巻かれるのは好きではなかった。
「天使は嘘をつかない、というのは?」
 結果として、全く別の疑問が転がり出る。
「ミカエルのことだよ。そっか、君神話とかあんま知らないんだっけ? 古い宗教の天使なんだけどねー。あ、天使っていうのは」
「つまり?」
「真実の証人の比喩にもってこいの名前ってことだよ」
 ニルギリは肩を落として指先で目玉をつつき、パソコン画面を示した。

   ***

 ミカエルのいない会場にも暇な人間が集まって、個展自体はなんの支障もなく開かれていた。会場の面積に比して人数はそう多いようには見えない。
 一昨日もこのくらいだったのかと訊けば、ティフェレトはこともなくうなずいた。
「当日はパニックで、ローレンのところへ駆けつけるのにも少し遠回りをしなければなりませんでした」
「駆けつけたんですか」
「はい。ガラスの割れる音がしましたので」
 展示された人形を見て小声でなにか論じる人々の後ろを通り、廊下へ抜ける。ニルギリはめぼしい相手を見つけては話しかけて雑談のついでに聞き込みをしているらしかった。
 NNはといえば、廊下に出て、そこにあまり人がいないのを見るとひそかにほっと息をついた。
 人混みも乱闘も好きなほうだが、人が集まって静かにしているとどうにも居心地が悪い。
「護衛の方のそれは」
 不意に、そんな言葉が投げかけられた。
 蜜のような金色が、彼女を見上げていた。
「どなたの作品ですか」
 目のことだと気づくと、NNは口端だけを上げて笑い返した。
「あいにく自前の体ですよ」
「生身の?」
「ここの生き物ではありませんから」
 きれいだからこれだけは自分で持っている。だから美しいものに興味がないのか、とニルギリは言ったのだ。気づくと、不意に口をへの字に曲げて黙り込んだ。
 顔に向かって伸ばされた手首を掴む。
 ティフェレトの腕はその外見から察するよりも柔らかく、また頑迷であった。自分の方へ引こうとするNNの手に抗して、その位置からぴくりとも動かないのだった。
「昨日から気にかかっていたことですが」
「離してください」
「頑なに右手の甲を隠す理由を伺いたい」
 なおもそうしてティフェレトが動かないと見ると、NNは大仰にため息をついてその手を離した。勢い、背中側へ引かれた細腕は、やはり手の甲を彼女のほうへ向けないように注意深く下ろされた。
 掴んだ部分に痕がつくかと思ったが、あいにくとその肌に血は通っていないようだった。
「犯人探しはあの探偵の領分ですよ。立ち入る気は毛頭ありません。あなたがガラスで傷つけた肌をただ醜いと恥じ入っているだけであれば、これも余計なお世話かもしれませんがね」
「ご存知だったんですか」
「倒れかかってきた時に」
「これは、停電のときに……」
「ならそうなのでしょうね」
 投げやりに打ち切って、NNは壁に背中をもたせ掛けた。
 ティフェレトは不安げにそれを見上げ、ややあって、隣で同じように壁にもたれた。
「どちらにせよあの男は仕事をするでしょう。護衛とはなんの関わりもなく」
 手の甲を覆う左手が外れかかり、また強く胸の前で組み合わされる。それまでで一番人形じみたぎこちない動きだった。

 お断りします、と平坦な言葉を聞いた。
 足を止めたニルギリが手の甲で壁をたたいて注意を促すと、NNはしらけた顔でそちらを振り返る。時刻は午後十九時。本日の展示は何事もなく終了したらしかった。

   ***

 第二の事件は翌日に起こった。取り乱した造型師からの連絡にたたき起こされたニルギリが寝ぼけ眼で聞くところによると、ハルがティフェレトを壊そうとしたのだという。
 同じくたたき起こされたNNはことの次第を聞くと、呆れかえった様子で肩を落としたのだった。

 ローレンの工房についてから最初の仕事は、今にハルを殺しかねない勢いで殴りつけていた彼を引きはがして取り押さえることだった。ティフェレトはといえば、隅の椅子に座ってそれをじっと眺めているのみであった。
 頭をかばって床にうずくまっていたハルをニルギリが部屋の入り口付近へ移動させるのを見るや、ローレンはなおも後ろにくまれた手をふりほどこうと身をよじって吼えた。
 今や、作りかけていたであろう人形も義肢の型どりも床に砕けて散らばり、見る影もない有様である。
「はなせ! こいつは、壊そうとしたんだぞ俺の!! 傑作を! い、今の今まで友人みたいな顔してやがったくせに、この――」
「落ち着いてください。いいですか」
「いいわけがあるか!」
「ティフェレトに、自分を壊すよう頼まれたのは彼だけではありません」
 頭上から無感動に告げる女の声に、造型師ははたと続く言葉を飲み込んだ。
「なに……?」
「金銭の絡まない依頼は受けないことにしていますがね」
 脱力した腕を離して、NNはようやく彼の上から体を退かす。その視線に促され、ニルギリが顔を上げた。
「ええ。事件の犯人も彼女ですから。今日その話しをしに伺おうと思ってたんですよ!」

 犯行は至って簡単なものだ。地震による停電の間に体温から人を避けて一直線に控え室から展示室へ向かい、ミカエルの頭を掴んで傍らのガラスケースにたたきつけた。
 ティフェレトは再び暗闇の中を控え室との中間地点まで戻り、明るくなってからまるで今し方駆けつけたかのようにローレンに声をかける。それだけのこと。
「……無茶だ……ハルが一緒にいたろう」
「いませんでしたよね?」
 隣で硝然としていたハルの肩に、ニルギリが軽く手を乗せる。昨日の聞き込みはこの裏付けのためであった。彼は、ゆるゆるとかぶりを振って「ほんの少し、取引先との連絡で控え室を離れていただけだ」
「その少しで十分でしょう。彼女は暗いからって人に突っかかったりしないでしょうし。ほら、これと同じ目を持ってるならね」
 言いながら、内ポケットにしまい込んでいた小箱を取り出す。ハルの提案で預かっていたミカエルの目玉であった。
「ハルさんとティフェレトは、お互いに一人でいた時間を無かったことにしたかったんじゃないかと? ハルさんにしてみれば疑われても完全に濡れ衣ですし。そうだなあ、ティフェレトには、たぶん自分は写ってないって、自信があったのかな」
 体温がないからね、とウインクしてみせたものの、反応の薄さに唇をとがらせながら映像から抜き取った画像データをローレンへ送りつける。
 赤と緑に縁取られた人型の中に、ブラックホールのような黒い穴がぽっかりとあいていた。
「犯行直前、ミカエルは後ろを振り返って、ティフェレトを見た。結果、こうして動かぬ証拠が提出されてしまったわけでー」
 言葉を次ぐまでもなく。
 全員の視線が、静かに座る自動人形へ向かう。
 その細い右腕が持ち上がって、その場の全員に見えるように、引き裂かれた手の甲をさらした。ティフェレトの表情はすっかり凍り付いた無表情のままであった。
「おっしゃるとおり。この傷はそのときにできたものです」
 金の瞳はゆっくりと、おのが制作者のほうへ向けられる。
「わたしはただ、ローレンをこの上もなく傷つけようと思ったのです。完成品を壊してもそれはかなわなかった」
「どうして、ローレンを傷つけたかったんだい?」
「わたしには笑顔が与えられていません。ミカエルは美しかった。笑わぬわたしよりもずっと美しかった。これこそがこのひとの求めた天上の美だと確信しました」
「それで?」
「わたしは未完成のままでいるより、何らかの形をもって完成品になりたかったのです」

 ローレンがふらりと立ち上がるのを見て、「近寄らないで」
 きっぱりとした拒絶の言葉が響いた。
「私は、おまえを手元に置いておきたかったんだ。完成してしまったら――完全なものには魔が宿るという。もしかしたら、自分の作品なのに自分の手から完全に離れてしまうかもしれない。不安だったんだ」
「完成させないのは作品への侮辱です。許せない。わたしに必要なのは賛美でも、愛でも、言葉でもありません」
 にらみ合う作家と作品をよそに、ニルギリは憮然としてそれを眺めている助手のほうを見上げた。
「なんでそれで壊れる、なんて方向にいったんだろうね?」
「完成された美術品や芸術品は、廃れても人の心にとどまるとか」
「うん。うーん?」
「彼女は愛の概念を理解しています。自分が壊れれば造物主にこの上ない傷として残るということです」
 かわいさ余って憎さ百倍ってやつだね、と合点のいった顔をする探偵に横目で一瞥をくれて、NNは腕を組んだまま成り行きを見守ることにした。
 彼女を突き動かした衝動が憎悪にほかならないのなら、自分はいかに立ち回れば傷つかないで済むものか、柄にもなく考えていた。
「自衛の機能はどうなるんだろう?」
「さあ。『作品の完成を促す行為』としてだまし仰せるか、自分ですでにいじっているのか」
 選択肢があるというのは存外に面倒なもので、それもただ働きをするか、見て見ぬ振りをするかなんてあまりに無体なものだった。
 いくばくかの沈黙のあとで、ひときわ高く、かかとが工房の床をたたく音が響く。
 ティフェレトが長いスカートを翻して走り、工房を出て行く。あっと声を上げて腕を掴もうとしたニルギリの手を振り払い、上へ続く階段へ。彼が追って駆け出すのを見て、我に返ったローレンが足をもつれさせながら部屋を出た。

 二階の窓から中庭へ身を投げ出した人形の腕を辛うじて掴んだニルギリは、息を切らしてその場に膝をついた。
 窓の枠に体を引っかけるような形でどうにかぶら下がっている上半身だが、機械人形の全体重を長時間支えられるほど彼の腕は強くない。
「ちょっと……いきなり走ったりするのはだめだって」
「引き上げるんですか」
 次いで追いついたのはNNであった。ぶら下がったティフェレトの姿を見て、ニルギリの後頭部に左腕を突きつけた。
「頭を吹っ飛ばしても手は離さないよー?」
「ええ。あなたはあなたの仕事をなさればいい」
 頼まれごとを思い出したので。
 最後まで聞いただろうか。引き金は引かれ、改造銃の弾丸はニルギリの頭を吹き飛ばし、
 その下にあったティフェレトの上半身を砕いた。

   ***

「助手ちゃんひでェー! 女の子なんだからカオは大事にしろって!」
「何発ほしいかおっしゃってくださればいくらでもごちそうしますよ」
 事務所を襲撃してきて早々腹をかかえて笑い転げている不埒ものにライフルを突きつけて、への字にゆがめた口元が思い出したように痛んだ。NNが引き金に指をかけたところに、扉の開く音が重たく響いた。
「巻き込まれて殴られた俺にもちょっとくらい同情してよー」
 一晩かかって一仕事終えたニルギリは、書斎から顔を出すなり「仲良しだねー」と頬をゆるめたそばから一度撃ち殺された。
 世はなべてこともなく、NNはただ働きの憂き目に遭ったがローレンとさんざんに殴り合って憂さを晴らし、ニルギリは先ほどまで長文をやりとりしたあげく犯人探しのぶんの依頼料をものにした。
 中庭の花壇に崩れ落ちたティフェレトの残骸を見てその造型師がなにを思ったかは定かではない。
 ただ、膝から崩れ落ちて泣きじゃくったあと、ぽつりと「完成してしまった」そうつぶやくのを誰ともなく耳にした。

 後日。ニュースを見たニルギリが笑ってNNのもとへ画像データを送ってきた。
 花壇に倒れた女性の半身、崩れた人形を覆うように咲き乱れる青い花の群生を映した写真であった。奇しくもそのとき身に着けていた青と白のドレスが葉の色によく映えて、
 枠外に走り書きされたタイトルは「天上の青」。
 彼女はすぐさまその画像を消去するとともに、以降どんなに思いつめても自分が死ぬことだけは考えるまいと心に決めたのだった。