ゴーストはささやかない


 二十四時を過ぎた街はいつもよりも騒がしく感じられる。ここ数日――昼も夜もないストリートで騒がしいもなにもあったものではないか。いつもより人が少ないから、かえって騒がしく思えるのだった。
 まともな奴もそうでない奴も、今は通りをうろつく幽霊をなんとはなしに忌避している。
 とはいえいい加減耳につくその音源を排除すべく、ベランダに出たNNは、思いもかけずそれを見た。

 街が騒がしい。故人が歩き回っているという。最近死んだもの、もう何年も前に死んだもの。それに魅入られて狂乱する者が続出し、今は身に覚えのある者ほど夜は室内にこもって出てこない。
 ホロコーストは堂々と夜間に出歩いて自分の撃ち殺した友人と旧交を温めたという。相変わらず恐れを知らない男である。「ネクロソーマやゾンビがお役御免になる日も近いな」などと笑っていた。
 そういうわけでここ一週間ほど続いている真夜中の狂乱は、これでめでたく二十件目を記録した。正確に言えば、これはストリートで起こった事案のみをまとめた数字である。アッパータウンではもっと被害が甚大で、それ故問題になっているのだとか。詰め所の警官に曰く別々の場所で、全く同じ時間に、何の関わりも持たない者たちが突然おびえてうずくまったり、暴れ出したりするのだという。正気に戻ったとき、彼らは皆口をそろえて「何かすごく恐ろしいものを見たはずだ」と言う。
 おびえて襲いかかってきた者をひとまとめに交番に引きずってきたNNに、不良警官は頬杖をついたままで深くため息した。
 警官の詰め所はお世辞にも掃除が行き届いているとは言えない。隅のほうには乱雑に荷物が積み上げられ、まるで物置だった。
 それについて指摘すれば、同僚が酔って壊した壁を塗り替えたばかりなのだと言う。
「あたしにしてみたら、恐ろしいのはこの騒ぎがここだけの話じゃないってとこだよ」
 ストリートでの乱闘だ暴行だというのは言ってはなんだが日常茶飯事だ。ここだけで済むならば。詰め所にいるのが彼女一人なのは、珍しくアッパータウンの警備に人が回されているためであった。
 おかげでほかの行方不明者やら殺人やらの処理も一人でおしつけられているのだとか。
「災難ですね」
 連日連夜この調子だとぼやく彼女、ふと外を見て首をかしげた。
「いや、今日はこれ一件だけだわ。不思議なこともあるもんだね」
 人通りが少ないとはいえもう夜中も二時を回ろうとしていた。気をつけてね、とひらひら手を振る警官に律儀に頭を下げて、NNは交番を後にした。霧のような雨が肌を冷やす。見上げるといやに明るい雨雲がのったりと厚みをましていくところであった。

   ***

 依頼が入ったのは翌日夕方ごろのことだ。ニルギリがなにやら台所で機嫌よさそうに話をしているのを横目に、NNはその日の仕事の成果を整理しているところだった。
「猫探しだって!」
 と、聞きもしないのに満面の笑みで伝えにくるのを、助手の冷たい視線が迎える。
 エンディを探したときのつてで、上流の子どもからの依頼だという。
「くつした履いた黒猫だよ。送られてきた写真がすごいかわいいんだー」
 なんでも、ずっと特定の場所を見て鳴いていたと思ったら急に姿を消してしまったのだという。近頃の幽霊騒ぎから察するに、幽霊を見て連れて行かれてしまったんだ、とか。
 カメラを見つめて小首を傾げるポーズの猫を眺めて、彼女は大仰に息をついてみせた。
「猫が見る幽霊と人の見る幽霊は違うでしょう。猫にサイバーウェア積んでる手合いなんかいないんだから」
「夢がないな君は。やることははっきりしてていいでしょ?」
「つきあう必要が無いってこともはっきりしてますが」
「親御さんは幽霊のほうに興味あるってことらしいけどー、そっち解決したらたぶん報酬倍ぐらいになるんじゃない?」
「仕方ありませんね」
 現金だなと笑う探偵を無視して仮眠室に向かおうとした背中に、夕飯できるけど、と声がかかる。逃げるのが一歩遅かったか、げんなりした顔つきで食卓に座り直した助手の前に前菜が置かれる。
「親子二人で依頼を?」
 ふと顔を上げる、思えば彼女の電脳に流れてきていたのは親らしき男性の声だけであった。
「お子さんがちょいちょい回線に割って入ってくるかんじかな。お父さんが子どもさんを溺愛してるふうだったなー。忘れ形見って言ってたけど。
 猫はともかく、幽霊に関してはドクターのほうが得意そうじゃん? なんか原因つきとめてくれって」
「どうですかね。たちの悪いウイルスだって話ですか」
 そうそれ! と明るい肯定の声があがる。
「幽霊の正体は、ウイルスが勝手に記憶をハックして再構成し五感に投影する幻覚の類らしいです。それ自体が問題にされないのは見えたり話したりするだけなら大して弊害がなかったから、あと、ちょうどなんです、ハロウィンとか、盆とかいうのに時期がかぶったことも原因の一つだとドクターは言っていましたが。いずれにしても幻覚だけならドラッグのほうがよほどたちが悪い」
 ふと間をおいて、
「同時に、というのは気にかかりますね。トリガーがまったくわからないですし」
「それならすこしわかるよ」
 いやに大きなコロッケの載った皿がどんと置かれる。怪訝そうなNNの目線に、芋が余っていたから使ったんだけどつぶしてる間に楽しくなっちゃって、と謎な弁明をしつつ。
「雨が降らない日だ」
 もっと言えば、晴れた日だ。
 椅子を引いて背もたれにエプロンをひっかけて、ニルギリはようやくそこで席に着いた。
「ストリートはいつも雨だからねー。アッパータウンも空気は悪いけど、それなりに晴れた日っていうの、あるだろ?」
「昨晩襲われましたが」
 昨晩のストリートには例にもれず雨が降っていた。晴れた日が条件というならそれはおかしい。
 事実、ストリートでの事件はNNのそれ一件きりである。同時刻にアッパータウンで暴れた人間がいるらしいが、それもそう多くはない。
「うん。だからまだなんか、条件あるんだろうね」
「どうして晴れた日なんですか」
「統計だよ」
 そんな大仰なものでもないけど、と付け足して、なにを思ったかまた立ち上がる。黒電話を備え付けた台のほうへ向かい、横のメモ帳にその件数と日付、天気と時間、起こった場所の一覧を簡単にまとめて戻ってくると、NNの手元に差し出した。
 依頼を受けた直後から、幽霊を見た人間が起こした殺傷事件について調べていたらしい。
「猫のほうは」
「幽霊につれてかれたんなら、幽霊のでるとこ探していくといいんじゃないかな」
「子どもの戯れ言じゃないですか」
「推理小説って読まない? 出題編に、必要なことはぜんぶ書いてあるものでしょ」
「小説とは違いますよ」
 とげのある反論に対しては、彼はあのゆるい笑顔を返すのみであった。

   ***

「私が死んだのはこういう晴れた日でして、そうそこのビルを崩すときに廃材が落ちてきてぐしゃっと」
 突然作業着の男に話しかけられて立ち止まる。彼の言うことを裏付けるように、その背後には中途半端に崩されたビルがあった。
 なおも自分が死んだときの状況を詳しく説明するのを聞きながらNNが話の切りどころに迷っていると、前を歩いていたニルギリが少し遅れて戻ってきた。
 角を曲がったあたりで彼女がいないことに気がついたのだった。
「気になるものでもあった?」
「気になるもの、って」
 ためらいがちに彼女が指さした場所には男の姿はなかった。
 代わりに先に聞いたような事情を書いた看板が一枚突っ立っているばかり。工事は中断されるとのことだった。
「……いいえ」
「幽霊でも見た?」
「なにが悲しくて縁もゆかりもない相手の幽霊に話しかけられるんです」
「話しやすそう、じゃないなあ」
 次の瞬間には看板が返り血で真っ赤に染まった。
「殺しますよ」
「殺してから言う?」
 そう間をあけるでもなく、男は穴だらけになったスーツを整えながら起きあがる。工事中の場所だからか、幸いにして目撃者はなかった。
 依頼人の自宅周辺にしぼって調査をしよう、というのが彼の提案であった。飼い猫ならば家からそう離れることもあるまい。幽霊云々よりよほど納得のいく理由であった。ぐるりと、その場を見回す。
 敷地ごと高いフェンスに囲まれ、機材も駐車場に置き去りにされて閑散とした景色。事故に続いて幽霊騒ぎさえなかったら、今頃は新装開店してにぎわっていたことだろう。
 今日の空は、晴れているとはいいがたいものだった。

 崩れたコンクリ壁の向こうを歩く黒い影を見つけたのは、その帰り道のことだ。日はすっかり傾いて、雨雲の内側をほんのりと赤く染めていた。
「うん、俺としたことがすっかり忘れてた」
「なんです」
「幽霊って夜でるんだから、昼探してもしかたないよね!」
「まじめにやってください」
「あっ、逃げるよ」
 続く苦言は舌打ちして飲み込み、助手は探偵のとなりから速やかに姿を消した。彼が猫の動きについていけるようならばわざわざNNが同行したりしないのだ。滑るように路地へ入り込んだ彼女の背中を悠然と追う。
 ニルギリの耳に尋常でない叫び声が届いたのはいくばくも行かないうちだ。声のほうへ駆け出して路地を抜ける。相変わらず苦虫を噛み潰したような顔の助手と、その腕に押さえつけられて暴れる青年の姿があった。
「なになにー? どうしたの?」
「こっちが聞きたいですよ」
 強か相手を殴って気絶させると、NNは眉間のしわをさらに深くして周囲を見回すのだった。
「見失いましたか」
「まあ、次があるし? ところで」
 ニルギリ探偵は、少し間をおいて、笑った。
「昼間に人が暴れたの、初めてじゃない?」

   ***

「悪かったよ……すっげえ怖かったんだって、なにがだろう……マジでなんも覚えてないんだ」
 顔を覆ってうなだれる青年の謝罪を聞きながら、彼女は大きくため息をついた。
「二回目ともなれば、巻き込まれる理由に察しがついたっていいものでしょうに」
 警察に行くより話を聞いてみたいと言い出したのは、彼の向かいに座った探偵である。助手はといえば、青年に茶を出したっきり相手とは目も合わせない。
「怒ったってしょうがないでしょー。覚えてないんだし? 怖かったって、みんな言うけど具体的にはどんな感じ?」
「具体的にってそりゃ……」
 考え込むそぶり。律儀に思いだそうとしているらしく、次第に頭を抱え始めるが一向これという表現が出てこない様子。
「ものすっごい怖い、が先にきて……いや、怖かったこと思い出す……? やっぱ、よくわからない」
「わからないかー。俺もいっそ体験してみたらいいかな?」
 冗談口にそんなことをのたまう探偵、彼を見送りに玄関へ出ると思い出したように手を打ち合わせた。
「君、あのへんに住んでるの?」
「え? うん、まあ」
「じゃあ、こういう猫知らない?」
 猫の画像を見るや、青年、ぱっと表情を明るくして「こいつなら知ってるよ! 俺けっこうなつかれてたんだ」
「その子の捜索依頼がでててさ、よかったら見つけたとき連絡くれない?」
「いいけど。こいつ、少し前からいないんだよ。あのへんうろついてたんだけど」
 一転してしゅんと肩を落としたものの、まあ善処はする、と名刺を受け取る。
 やたらと堅い名刺の感触に狼狽した様子でポケットにしまいこむと、手を振って別れる。外はすっかり暗くなっていた。ストリートは変わらず雨で白く色づいている。
「大した情報は得られませんでしたね」
「猫のこと聞けたじゃん? まあ恐慌状態に陥る条件とかはさっぱりだけど。
 夜であることと、晴れてること。となると夕方のアレは――」
「ドクターから連絡が入りましたよ。あのウイルスのことですが」
「おっ、ほんと?」
 聞こう、と振り返って彼女を見上げる。探偵の笑みが、一瞬ひきつった。
「……? なんです?」
 手を伸ばすと渾身の力で振り払われた。ようやくただごとじゃなさそうだと理解したNNをよそに、逃げるように玄関扉に背中をぶつけて崩れ落ちたニルギリ、一拍おいて長く息を吐いて立ち上がる。
 先の狼狽(だと、NNには思えた)もすっかり落ち着いて、しかし困ったような顔で笑って手を振る。
「いや。まずドクターの話きかせてよ」
「……まあ。いいでしょう」
 いわく。
 例のウイルスは記憶をハックして幻覚を見せる。そういう話だったが、記憶をからめ取るものはやはり他者の記憶、聞けばその出所は誰かのバックアップを納めるデータベースであるという。
 どこにあるか、までは判明していない。クラウドに保存されたデータの出所を追うのにも限度というものがある。プロテクトが堅いから上流のものには違いなかろうという話だ。
「ああー。人格データのバックアップ趣味で取ってる人多いらしいね」
「ぞっとしない話です。データ損傷しなきゃネクロソーマと似たようなものだ」
「たしかに」
 それで、と向かい合わせにソファにかけたNNが、紅茶のカップを横へ押しやる。
「先ほどはどうなさったんです?」
 困ったような笑顔。狂乱、恐慌状態のトリガーがわかったのだ、と答える。いつも推理を披露するにあたっては嬉々として顔をのぞき込んでくるニルギリが今回に限っては目も合わせようとしないことに彼女は気づいていた。
 彼は一握りくらいの悪意をもって身を乗り出した助手の前から立ち上がってエプロンを取り上げる。
 一呼吸おいて、「星だ」
「なに?」
「幽霊を見たって人が正気を失って暴れる、とにかく怖いって気持ちに抵抗したいからかな。ともかく、それは星がきれいな夜なんだ」
 君の目には雨も曇りもないからね、と冗談口に続けて、台所へ向かう。
 その背中を眺めて、NNはすぐにソファから立ち上がった。さっさと寝てしまえば、無理に起こしてまで夕飯を食わせようとはしないだろう。それにしても。
 その指が、自分の目をなぞる。
 ただの一瞬だけ見たあの顔が妙にその目に焼き付いている。

 見事夕食から逃げおおせた翌朝、さすがに起こしにきたニルギリは困り顔で「依頼人と連絡がとれない」という。
「依頼人って、猫のほうですか幽霊のほうですか」
「どっちも。てか連絡つけてきたのはお父さんのほうじゃん? つながらないんだよー」
 顔を洗って食卓についたNNの向かいに、ひたすら首をかしげて試行錯誤を繰り返していたらしい探偵もようやく腰を落ち着ける。
「夜中の騒ぎに巻き込まれて病院送りになったのでは?」
「うわっ、ありそうでやだな。ちょっと調べよ……うわ」
「なんなんですか」
 電脳に直接送られたニュースに、さしもの助手も眉間を押さえてうめいた。
 そこそこにさわやかだったはずの朝の空気も台無しだ。

   ***

 女はそわそわと周囲を見回して、指定された通りの喫茶店で相手を待っていた。サプリメントとバイオウェアの調整である程度の気力は保っているが、顔には疲労がにじんでいた。
 来客のベルが鳴る。
 なにやら言い合いをしながら入ってくる二人組がそれであろうと察すると、落ち着かないながらも姿勢をただす。
 むっすりと口をへの字に引き結んだ大柄の青年――厚手のパーカーでフードを目深にかぶっていて顔はわからないのだった――を後ろにつれて、こぎれいなスーツの男が人好きのする笑みで会釈をした。
「こんにちは! 先日連絡を入れた者です」
「ニルギリ・カタラーナ、探偵さんですね」
 笑顔で返事の代わりをし、連れとともに向かいの席へ腰掛ける。
 むやみに人に暴れられてはたまらないと自分で着込んできた助手が終始不機嫌そうにしているのがおかしいといった調子で、ニルギリはメニューでその肩をつついた。乱暴に取り上げられるまでがワンセットである。
「わざわざご足労いただいてありがとうございます。実はここ最近調査している件でお聞きしたいことがありまして」
「夫のこととおっしゃってましたね」
 しかりとうなずく。
 事故死したはずの夫から、幽霊騒動の原因を調べてほしいと依頼を受けたというのである。
「にわかには信じがたいことですけど……夫が亡くなってもう三ヶ月になりますのよ」
「そのようですね。ですから、そんなに前に亡くなった人がわざわざ俺に依頼なんかしてくる理由について、心当たりないかと思いまして」
 女はそれに対して、しずかにかぶりを振った。夫の会社をつつがなく回すのに三ヶ月はあっというまだったが、夫が幽霊にまでなって何かを訴えるには三ヶ月は長すぎる。
「第一、ニュースかなにかで調べたのならおわかりでしょう、夫の死因は機材の不調が原因で起こった事故ですのよ。現場を見に行ったばかりに」
「では」と、助手が言葉を次いだ。女がなにかぎょっとした顔をするのも気にとめず「お子さんが依頼してきた猫探しについては」
「息子の居場所を知ってるの?」
 間髪入れず、彼女は身を乗り出した。助手へつめよらんばかりの体制で、相手がフードを引き下げるのもかまわない様子であった。息子? と首をかしげる探偵をよそに。
「いいえ。ご自宅にいらっしゃらないのですか」
 女ははたと、その言葉で我に返ったようだった。周囲の席を見回し、一拍おいてまた座り直す。
「……行方不明なのです。二日ほど前から」
「捜索願は?」
「出してます。私だって、できる限り自分で探していますし、けど、猫を?」
「ええ。心当たりがおありですか」
 女の目が周囲の様子をうかがう。誰もこちらに注意を向けず談笑しては客が入れ替わる、昼時の喫茶店。
 NNの声に背中を押されるようにして、彼女はぽつりとそのいきさつを話し始めた。

 三ヶ月ほど前、建設会社の社長が事故死した。ビルの解体現場を見に行った折り、運悪くクレーンの不調で廃材がばらまかれた先に立っていたのだった。遺体の状態は、それはもうひどいものだった。
 以降経営は社長補佐であった妻が担っているが、状況は三ヶ月たってようやく工事再開のめどがたったというところ。喪に服したり、小さな子どもの世話だったりと、家庭の内でも外でも仕事は尽きない。
 そんな折り、二週間ほど前だろうか、子どもが猫を拾ってきた。父親をなくしたばかりで寂しくてたまらないのだろう、あまり気は乗らなかったが、自分で世話することを条件に家で飼うことを許した。その猫が頻繁にどこかへ出かけるという。
 聞けばアッパータウンの端にあるアパートだそうで、おそらく野良のときから通っている部屋があるのに違いなかった。
 三日前。いつものように息子が学校の帰りに猫を追って行ったきり、帰ってこなくなった。
 ちょうどNNが幽霊騒ぎに最初に巻き込まれた日である。
 ビルの近くで社長の「幽霊」がNNに話しかけることができたのは、聞き流していたものの彼女がニルギリの受けた連絡を通して声を聞いていたからだ。

「となると、残りは猫探しの依頼かな~」
「お子さんはどこからあなたに連絡をしたのかってことですか」
「いや? 俺とは接点ないからねー。君と、どこで接点作ったのかって話だよ」
「父親が接点になったんでしょう」
「そうかなあ? うーん、確かにそっちとも接点はなかったな」
 改めて、依頼料はあの女性が引き受けるということになった。子ども探しの代償として。
「夫が依頼したのは、おそらく子どものことでしょうから」
 そう言って、少し間をおき、悲しそうな、あるいは拗ねたような顔で目を伏せた。
「私に会いに来てくれればよかったのに」

 教えられたアパートはというと、そこもとうにもぬけのからであった。若いカップルが住んでいたそうだが、最近はとんと見かけない、と周囲の住人は言う。引っ越したわけではなさそうだが。
 一週間くらい前から。
 収穫といえばそれくらいであった。一週間前と言えばちょうど幽霊騒ぎが始まったころだ。
「だから幽霊騒ぎの原因を見つけてくれ、だったのかな」
 帰り道は雑談に終始した。相づちも待たずに続く言葉の羅列は今回の事件を整理するためのものであろう、いつにもまして探偵はおしゃべりだった。
 NNは後ろを大股について歩きながら、目深にかぶったフードの下から空を伺い見た。
 ストリートには今夜も雨が降る。
 なし崩しに事務所に帰るのもいつものことだ。NNの自宅へは距離があるというのも一因ではある。
「息子さんといいましたか。行った先でなにか見てしまったのでしょうね」
「そうだろうねえ。ん、やっぱ気になる? 俺も気にしてたんだー」
「アパートの借り主は男性のほうでしたね。鍵もたしか男性が持ってる」
「そうだねえ」
「何かの事情で、女性のほうは部屋に入れなくなったんでしょうね」
「うん。だから、これはたぶん事件なんだと思うよ」
 それも殺人事件だ、と楽しそうに続けるニルギリの背中を見て、彼女はそこに立ち尽くしていた。
「幽霊騒ぎの原因は」
「間違いなく、殺された人の記録だろうねえ。バックアップ作業中とか、障害あったら予期しない動作したりするじゃん? きっと、殺されたときはきれいな星空が見えたんだね」
「でしたら、」助手はそこでようやく煩わしいフードを取り去る。広くなった視界に室内の明かりがまぶしい。ちらと狭まる星空から、ニルギリは自然に目を逸らした。
「自分を殺した相手の顔も見える道理ですよ」

 助手の手が、いくぶん乱暴に探偵の肩を掴んで自分のほうへ向かせた。向き直った拍子に背中を壁におしつける。
「あなたには死の恐怖から想起されるような怖い思い出などないでしょう。フィルターがなければその奥のものが見えるはずだ」
「今日なんか情熱的じゃない?」
「そうですね」
 相変わらず目を合わせない探偵を見下ろす。珍しく、ばつの悪そうな苦笑いだった。
「俺、あれあんま好きじゃないよ。慣れてないしさ?」
「慣れなくて結構です」
「君はそうだろうけどー……」
 NNはそれ以上言い募る暇をあたえず、首をつかんでその顔を自分のほうへ向かせた。彼女の体を押しのけるには男の腕は細すぎた。

   ***

 交番には、三日前と同じ様子でけだるげに女性警官が一人いるばかりだった。まだストリートのほうは押しつけられていると見える。声をかけたのがNNだとわかると、「また襲われた?」と冗談めかして言う。
「いえ、今晩は別な用事です」
「どうしたのほっぺた」
 とんとんと自分の頬を指先でつついてみせる警官に、彼女は表情を変えずに「なんでも」と返す。
「猫にひっかかれまして」
「猫扱いひどくない?」
 同行していた探偵が唇をとがらせているのを無視して、箱の詰み上がった隅の壁を指さした。
「壁、すっかり固まってしまったようですね」
「おかげさまで。ここまで来て暴れるような輩はいないからね。壁の調子聞きにきたの?」
「まさか。その奥にあるものに興味がありましてね」
「奥には骨組みしかないと思うけど?」
「そのときは弁償しますよ、幸い貯蓄には余裕があるので」
 警官が撃った銃弾は用をなさなかった。ちょっとごめんねと男が割って入り、あっさりと体で防いでしまったのだった。女の顔が、一瞬おくれて恐怖にひきつった。
 立て続けに引き金を引いた彼女の手を、冷たい手が掴む。正面に立つ男のものだとわかると、警官はリロードするのも忘れてまた引き金を引いた。
 スーツにあいた穴からはじわじわと黒く血がにじみ、いましも下へ向かって流れていく。この血色の悪い男は、それを意に介さずに立っていた。
「は? なに、ちょっと」
「銃とかあんまりやすやすと人に向けちゃだめだよー」
 ニルギリの笑い顔を呆然と見上げる、警官の手から拳銃が落ちる音は壁がたたき壊される音にかき消された。
 はたと振り返り、しかし背後を確認するまでもなく逃げようとした彼女の腕はまだニルギリに捕まれたままである。
 壊れた壁の中から、白たびを履いた黒猫が軽やかに飛び出した。骨組みに上っていたらしい。床に降りると、NNの足にするりと身を寄せる。
 それを一瞥し、彼女はすぐに壊れた壁のそばに身をかがめた。
 小さな子どもが骨組みに腕をひっかけるように立たされていた。乾いた血が顔の半分に張り付いて服を汚しているが、辛うじて息があるのを確認すると、NNは一度だけ深く息をついた。

 探偵が見たのは、ぐるりと反転する視界。窓外に広がる星空に、自分を殺す者の姿。見るからには抜け目なく、しっかり記録を取っているのだから助手としては笑えない。
 いずれにせよ。
 被害者がどこまでサイバーウェアを積んでいたかは知らないが、網膜に写った映像は彼女がその体を切断するまでをしっかりと遺していた。
 NNの役目はそのログを見て犯人の特定をし、壁を壊して猫と子どもを確保することであった。犯人の特定はまぐれではあるけども。
「いやいや八割がた予定調和じゃない?」というのがニルギリの見解であった。
 子どもはどうして壁に埋められたのか。答えは簡単で、幽霊騒ぎに乗じて人の少なくなった詰所の壁に、バラバラの死体を詰め込むところを見たからだ。何の手違いか、そこで一緒にあの猫も埋まってしまったのだけれど。
 猫のほうにしてみたら、いつも可愛がってくれる人間の職場に遊びにいったらとんだ修羅場だったというだけのことになる。
「君の声をたよりに、俺のところにあたりをつけたんだよ」
 不満顔の助手に不思議そうな顔を向けて、彼はいつも通り夕食を作りにかかった。収入が思ったより多かったので、今夜はいつもより豪華な食卓になることだろう。
 幽霊騒ぎはそれから一週間続いて、ウイルスの解除法が確立されてからはじわじわと収まっていったという。
「そういえばさ、あれ、なんだったんだろう?」
「何です、あれって」
 不機嫌なNNのいらえ。そもそも子どもの声を聞いていないのである。そこに思い当たると、ニルギリは包丁をおいて、彼女を振り返った。
「猫さがし依頼してきたの、女の子だったんだよねー」