ラナを折る話
霧の濃い日だ。ここ数日の濃霧に、居候は年甲斐もなくはしゃいでいるようであった。彼女がストリートに住むようになって二年ほどになるが、こんなに濃い霧が発生したことはなかった。一寸先も見えない白一色の窓の向こうを、今日もかれこれ一時間は覗き込んでいる。フロイントからすればいつものようにメルカバで歩き回られるよりずっといい。時々バイタルを確認しては「あまりはりついているとまた熱を出すよ」と言う他は、特に止めもせずしたいようにさせているのだった。曇った窓の外に黒く線を引いて落ちる水滴を追って、細い指が内側からそれをなぞる。
ふとした瞬間になよやかな所作で振り返り、あるいは彼に背を向けたまま、その姿はだぶついた服に埋もれた少女の姿を想起させる。フロイントの居候をしているラナくんは、あくまで少年である。少なくとも髪を切ったころから。
「買い出しをしてくるけど、ラナくんほしいものはある?」
「あ、俺荷物持ちしましょーか?」
「ルドラで出かけようとするんじゃない」
「ええ……」
ガレージのほうで立ち上がりかけたルドラが座る音がする。ほっと胸を撫で下ろし、フロイントは不満げな顔を向けているラナの頭に手を置いた。
「また少し体温が高い」
「こういうときARでの視界補正どうなるか気になるじゃんー」
「今日は休んで、明日にしよう」
まだ暫くは朝晩の温度差が厳しいはずだから、となだめすかしてようやく思いとどまらせ、代わりに近頃できたチェーン店のアイスケーキを買って帰る約束をしてしまうのだった。
そういえば、と出がけの準備をする背中に声がかかる。
「最近吸血鬼が出るらしいですよー。フロイントさんも気をつけて」
「吸血鬼?」
「そう。血を抜かれて死んでるって噂です」
灰の目が茫洋と遠くを見つめて細められる。目の前に並べた関連情報の一覧と被害者のリストだろうと神父はあたりをつけた。
「ちょっと前に知り合った人の妹さんが、まだちっちゃいんですけど、最近シスター・ジュリアに世話されてるそうで」
「……亡くなったのかい、その……」
「そういうことなんで、まあー、気をつけておいてくださいよ」
背後で一瞬、空気の張り詰めるような沈黙があった。彼が情報さえあれば動く男であることを、ラナはよく心得ていた。
「ラナくんも、足を突っ込んでるなら気をつけるんだよ」
「わかってるよ〜」
「吸血鬼は招かれないと入っては来られないそうだからね」
戸口で鍵をいじる音を聞きながら、彼女はそちらへ手を振った。
弾かれたようにラナが立ち上がったのは、それから一時間ばかりネットをうろついたあとだ。やにわにソファから立ち上がった彼女の足は、突然の動きを支えきれずにその場で膝をついた。案外と重労働したようで、頭が重たく、視界がゆるゆると回転している。
天井の回転が止まるまでそうして待つ。冷え切っていた体は、床についた手のひらと足の先からじんわりと温まっていく。空調よりも床やカーペットの暖房のほうが暖かいことは間々ある。
「まいったな、フロイントさん」
あの人はたぶんわたしを怒ったりはしないだろう。
手をついて用心深く立ち上がり、視界が揺れていないようだと確認すると、自室へ戻りがてらフロイントへ連絡を入れようとし――
ノックの音。
「ラナくん、ちょっと開けてくれないかな。荷物が多くなってしまって」
ちょっと困ったような、よく聞きなれた声であった。
「フロイントさん? ちょうど連絡入れるとこでしたよー」
笑いながら扉に向かう。先に彼が細工して行ったロックを全て解除して半ばまで開いたところで、何も持っていない手が目に入る。顔を見るより先に扉を閉めようとする腕を掴んで持ち上げる、入って扉を閉めたのは間違いなくフロイントである。右半面を覆うケロイドを見て総毛立ったのは初めて顔を合わせて以来。肩口に鋭い痛みが走って、反射的に自分を抱く腕に手をかける。
食いつかれたのだと認識すると、手足がずっしりと重くなる。何かの薬だ。傷口を不自然に冷たく流れ落ちる嫌な感触に顔を顰めた。
「吸血鬼」
「別に飲んでない、ただ跡が残るのは困るからな」
歯をくいしばる、デイブレイクの作用で毒を打ち消し、多少軽くなった足をはね上げて相手の胴を蹴りつける。肩を掴んだ手で、腕から抜け出そうとしたラナの足首を掴む。と、そいつは無造作にその腕を振り下ろした。
「……!」
なんの準備もなく床に叩きつけられた背中が軋む。呼吸の止まった胸を掻きむしるようにして背中を屈める。ラナの足首はそのまま造作もなく握りつぶされた。声は上がらない。堪えているわけではなくすでに声が出せないほどダメージを受けているらしいと悟ると、フロイント――の姿をした吸血鬼は改めてラナを抱き上げた。
青ざめた顔が彼を見上げ、それから下を向く。歯の根も合わないほど全身が震えていた。
「しかしようやく当たりというわけだ」
なおその腕を突っ張って離れようとするのに気づくと「ラナくん」とことさらに優しい呼びかけを頭上に落として、胸に置かれた左手を彼の右手が包む。
「少し大人しくしてて」というセリフは、手を砕く音に埋もれたかもしれない。声にならない悲鳴が細い全身を引き攣らせて今度こそ重たく崩れ落ちる。ろくに動かない身体の内側で、心臓だけが胸を突き破らんばかりにはね回る。恐慌、恐怖、最たるものは混乱である。
「ぃ……ふ、フロイ、ントさ……」
「うん、ここにいるよ」
突き飛ばそうとしたラナの右腕は、その男の肩口にしがみつく形で硬直した。少しでも動けば握りつぶされる、二回もやれば身体が覚えていた。
「あとできちんと治療しよう。ああ泣かないで、大丈夫だから」
困り笑いをしてみせ、涙を拭う顔も仕草も声色も、そのままいつも見ているあの神父の姿だ。
耐えがたいのはその一点。頭をかき回して胸を抉るその決定的な違和感であった。吐き気を飲み込む彼女の手は情けなく震えている。いまや自由に動かせるのはその右腕一本だというのに。やっとのことでそこから引きはがしてのばした手は、相手の顔を押しのけようとする。
「おま、おまえ、じゃない」
「心外だ」
ふう、と大きく息をついて、男はそのなけなしの抵抗を笑う。
「なかなかいい出来だと思うんだけどな。僕は彼とそんなに違うかな?」
捕まれた右腕が硬直する。短く息をのむ。続く悲鳴のような呼吸音を気にもとめず、彼はその腕をゆっくりと握りしめる。手に力を込めていき、
「ラナくん!」
外からの声で止まる。
「案外早かったな兄弟。今そこを開けたらこいつの背中をへし折るぜ」
把手にかかった手は躊躇してとまったらしかった。
「探すのにも骨が折れた。あんたに向けて連絡用の回線開いてたことといい、IDを不定期に売っぱらって変えてるとこといい、ずいぶん用心深いガキだ」
言いながら思い出したように、男はラナの右腕をぐるりと背中側へねじる。肩が砕ける音を聞いて、薄い胴体が跳ね上がる。
「あっ……ぁ、ああッ……」
引きつった声が上がる。扉を蹴破らんばかりの勢いで室内へ脚を踏み入れたフロイントのほうへ、彼は無造作にラナをぶら下げてみせる。ねじれて妙に長くなった右腕一本で。勢い前のめりに神父の脚は止まった。手は銃にかかったまま。
浅く不揃いな呼吸のたび、ラナは痛みに体をよじってえづく。四肢がすべて砕かれていることをフロイントが知るのにはその一瞬で十分であった。
その男が窓を破って下へ逃げるのにも。
今はフロイントという男は、もともと一人ではない。名を得て自らを個と定めるまで、彼はそうして同じ姿、同じ能力、統制された大勢の中でいわば体の一部のように振る舞い、それに疑問を持つことはなかったはずだ。いわく「何者か」の啓示を受けて突如正義に目覚めるまでは。
正義とは何か。
男は脇に抱えた子どものほうへ視線を流す。細い手足はだらりと下がったまま、顔を見てみれば青ざめて目の焦点は合わない。呼吸は浅く不揃い。バイタルを確認してみたが、まあ死ぬことはあるまい。
正しきは与えられた仕事を違えずこなすことだ。
正と義は並ばない。なぜなら彼の兄弟は義のために正を棄てたからだ。
立ち並ぶ廃墟を抜けて、開けた視界を冷たい海風が吹き抜ける。港湾部の高い位置に備えられた、桟橋の下。戦争以来久しく使われていない旧港は、人知れず船をつけられるように整備されている。それも、濃い霧の中では一寸先も見渡せない。水を含んだ空気の中では、立っているだけでじっとりと体が重たくなる。
少し待てば、フロイントは彼を追ってくることだろう。この子どもを助けるために。
男の仕事は二つある。
ひとつはこの検体を持ち帰ること。
もうひとつは、フロイント・アジュバンスを始末すること。
ここで待っていれば、首尾良くどちらも達成できるという寸法だ。
ラナをそこに放り出そうとし、考えを改めるとあえて優しい動作で湿ったコンクリートの上に寝かせる。熱を持った肌に触れ、べたつく汗を親指が髪の際へ払う。額から頬からはりついた髪を撫でるようにしてかき上げる手で、ラナの顔を半分覆えることに気づいた。
うすらと、その目が開かれる。茫洋とした三白眼は、焦点を定めずに彼を見上げていた。
「……ラナくん! よかった、大丈夫?」
かすかに身じろいだ肩がこわばって、反射的に目をすがめる。かすれた声が「いたい」と消え入りそうな音をはき出す。
唯一折らなかった右腕が、ぶかぶかの袖を浅く持ち上げた。そのかすかな動作も、砕けた肩のために耐えがたい激痛を伴うはずだ。
男はそれに気がつくと、熱くなった手を自分の手のひらにのせてやり、その指先が手の腹から指先までを緩やかになぞるのを眺めていた。手の上の筋を撫でるように。ゆっくりとぎこちない動きで、中指は中指に、人差し指は薬指の上を、薬指が人差し指を、小指が親指を。くすぐったい動きをひとしきり眺めてから、彼は落ちかけた手をもう一度やんわり握り直す。
「どこ?」
「ああ、外でごめん。港だよ、今は使われていないところ。早く病院に連れて行ってあげたいけど、……逃げられちゃって」
浅い呼吸の下で「ドジやったな」と笑う、灰色の目が赤い色を交えて明滅する。視覚の調節か、あるいは地理の検索、そういったところだろう。
男の手の上を、ラナの細い指が大義そうに持ち上がってはとん、とん、と叩く。
「は……意外……だいじょぶ、みたい」
「そうは見えないな。じっとしてて、すぐ探して終わらせるから――」
「いいよ」
「なに?」
「まね、しなくて、いい」
途切れ途切れの言葉。消えそうな声が何を言っているのか理解しても、彼はフロイントの顔を崩さなかった。やんわりと握った右手ががたがた震えていた。
「うん。怖かったろう」
わかっている。
「同じ声や姿形だ、無理に信じてほしいとは言わないよ」
わかっている。
「僕が、あの偽物だって思ってるんだね?」
わかってるからやめてくれ。
すがるような目が何を言いたいのか、彼には手に取るようにわかる。必死に自分のほうへ引き戻そうとするその右手をつかんだまま。手に、ゆっくりと力を加えていく。
演技しなくても、偽物だとわかっているからしなくていい。違う。わかってるから。
「……しないで」
分厚い拳の内側から、鈍い音がこぼれる。
勢い這って逃げようとした体をくの字に折り曲げて、ラナは喉の奥に詰まった悲鳴を途切れ途切れにはき出した。
「大丈夫だよラナくん。僕が本物だからね」
砕けた足首を引きずって膝が持ち上がるのを、こともなく男の足が踏みつぶす。つたないハッキングの操作はそれで完全に乱れて役に立たなくなる。
「……ッ!」
声は上がらない。右手を握っていた手で、今し方砕いたほうの足をつかんで持ち上げると、背中が弓なりに反って喉を引きつらせる。
浅く、早く、呼吸のたびに弱々しく上肢が身じろぐのをかまわず持ち上げ、下にたたきつける。背骨の折れる音。
「ッ――は、――!」
「だから、余計なことはしないように」
折れた両腕を引きずるように、胸の上まで引き上げるのを眺めて、男は手を離す。ラナは胸を押さえたままであえいでは、その都度背中を突き抜ける激痛に涙をこぼした。
こんなに痛いのに、意識ばかりはっきりしているのだから人間の脳ってやつは度しがたい。にじんだ視界には、上半身を霧に覆われたカソックの裾が海風にはためく様子ばかりが映る。ほっとしていた。立ってしまえば、霧の中で相手の顔は見えなくなる。見えなければ、少しは、ましになる。
呼吸に激痛を伴うのは今にはじまったことではないが、それもこう度を過ぎてはいつ酸欠で意識が落ちるかわかったものではない。その切れ間が、今はラナにとって一番恐ろしく思える。何度も今のようなやりとりをされたら、わかっていても頭がおかしくなりそうだ。
「すぐにでも追いかけてくると思ったんだけど」
相変わらず、フロイントの声がその頭上から落ちてくる。
ラナが声に出して返事をできないことに気づくと、男は再びその傍らに膝を折る。顔がわかる位置。
「ラナくん。呼んでみたらどうだい、あの――」
フロイントさんの声がする。
二人の間で、空気が破裂した。
一瞬散らされた霧の向こうで、鋸のような歯をむき出しに嗤う神父の顔を見る。その顔が銃撃のほうへ向けられるのを。痛みに散らされる前に『誤差左五十度、対象移動なし』の文字を送る。直後、派手にエンジン音を立ててバイクがラナの足下すれすれを走った。衝突音。それと同時にやや乱暴に服を捕まれ、視界が回転する。
担ぎ上げられた衝撃に息も絶え絶えに身をよじる。ラナの前で、自分を轢きつぶそうとしたバイクを受け止めて引きずられ、持ち上げて海のほうへ放る影があった。
反転してこちらへ駆ける、男の背後に水しぶきがあがる。重たい衝撃は、フロイントが相手の拳を掌で受けて流したためだ。悪手だった。わきに抱えた相棒をかばう形で体をひねり、そいつの追撃を蹴り上げる。一瞬押し負けて下がった男がまた拳を握りこむ。
「大丈夫って言ったじゃないか!」
片や、フロイントは抱えたラナの様子をあらためて、悲鳴のような声を上げた。その後で大丈夫じゃなくなったんだからしょうがない。
相手の拳をいなした手でドラグノフを構える。
『俺は殺されない』とラナの送信する文字を読む目つきはいっそう険しい。
『邪魔になりそうだから置いて』
「そうしてやりたいのはやまやまなんだけど」
前方をにらむ。苦痛を強いるのもはばかられるが、万一拾われて盾にされればそれこそラナも不本意であろう。
霧の向こう側に、不気味な沈黙が降りていた。
* *
フロイントの預かり知らぬ話でもなかったが。
例の「吸血鬼」に襲われて亡くなった少年のIDは、つい最近までフロイントが使っていたものであった。妹の持っているのはラナが同じ時期に使っていたもの。ストリートでさえ、ある程度まともに職を求め、そこそこにまともな生活を送るためにはきちんと機能するIDが必要だ。
ラナはグラウコスの目をかいくぐるため常にいくつかのIDを使い分けていたし、不定期に売り払っては別のところからストックする、なんてことをしていた。フロイントの出自について話したあとでは、フロイントの分でも同じことをしている。その一環で。
彼女はそのわけありの兄妹に求められて、使わなくなったIDをひと組売ってやったのだ。
吸血鬼の事件を調べていた彼女はその被害者たちの共通点に気がついて、それから「吸血鬼」の目的をさとった。殺されているのは、彼女が定期的に売り払っていたフロイントのIDを何らかの形で流用していた者ばかり。
つまり「フロイント・アジュバンスを探している」のだと。
彼女は港から二三情報を送信してそのことを彼に伝え、それからそばにいる偽フロイントの指紋から各企業軍備プラントのデータベースを照会し、結果はやはりフロイントへ送りつけた。
「どこって。今ちょうどそっちに向かってる。大丈夫かい、まだ……」
『だいじょぶ、みたい』とかすれた声の返事に不安をあおられたが、彼女が無茶をするのもいつものことだ。四肢を砕けば相手もそれ以上の手出しはすまい、人質としての価値がなくなってしまうし、第一、こうして声を出して会話できるようなところに放置されているのだ。
と、思っていた。
冷たい着衣の下では折れた場所が腫れ上がり、熱が掌をじわじわと焼いている。
ラナの送りつけた情報に従い、「吸血鬼」のクライアントにあたりをつけて始末を済ませてきたのも、悪手だった。その動き自体はラナの想定していた通りだとしても。
今は、自分の背中すら支えられない状態でフロイントの腕の中にいる。逆の腕で猛攻をしのいでは引き金を引くたび、反動に歯を食いしばるラナを抱えて歯ぎしりする。足を止めることはできない。
『誘導』
ARにそう文字が浮かぶ。突きを受け流して退がるフロイントの視界に、続けて『前進』の文字。霧深く一寸先も見えないような有様では、その拳をかわすのがやっとである。無駄のない動きは容易に霧の中に隠れてしまう。
「何かあるのかい」
『落とす』
前を見る。真っ白な壁の向こうには海がある。最初の誘導も、あわよくばバイクでそいつを海に突き落とすためのものであった。
銃弾が尽きた。
隙を見逃さない、大ぶりの一撃は火の雨に中断される。舌打ちして下がる「吸血鬼」、上をちらと見上げて憎々しげに顔をゆがめた。リロードを終えたドラグノフの射線から隠れるように霧の中へ。『前進。距離百』霧の中にも揺らぐ影を、フロイントの目なら容易に追える。まっすぐに引き金を引く。空気が撓む。霧の中でうめき声が上がった。
『対象移動、左三十。距離五十』
バイクを受け止めて引きずった跡を踏んで走る。血を吐き捨て、破れた皮膚の下に蒼白の肌を露出させた男が、燃える瞳でフロイントの姿をとらえた。いましもじわじわとその表皮を張りのばし、デイブレイクの青い光が、傷口を縫いつけていく。
そこが、船着き場の際。
「掃射」
ラナの唇が動く。砕けた指が左の腕ごと持ち上がり、相手の足下から頭までをなぞるように指し示した。
踏み込んだ足をドローンによる斉射がとどめる。持ち上がった指先からひび割れるがごとくにデイブレイクの赤い光が駆け上る。稲妻でも落ちたかのような火の雨。叫び声に目をすがめる。
その赤い雨の中を。
霧ごと切り裂いて殴りかかる、ネクロソーマの拳は寸前でフロイントの銃弾にはじかれて形を失った。リロードの必要はない。このときに限っては、愛銃の弾が尽きることはない。ぐらついた足が、一歩、踏みとどまるのを見る。コンクリートを蹴る構えを。
「往生際が悪いぞ兄弟、塵は塵に――」
ラナをそこへ降ろし、フロイントはその腕を払い、流した手でつかむとひたとその眉間に銃口を当てた。
「灰は灰に還れ」
水の音と、銃声とが重なって赤くはじけた。
頭の分軽くなった体を海に蹴落として、赤くにじんだ波が薄く広がっていくばかりなのを見下ろすと、フロイントはようやく銃を下ろす。
「……ラナくん!」
勢い、反転して居候を抱え上げるころには、いつものおっとり顔がおろおろと目尻を下げているのだった。
* *
タフなのは結構なことだが、そのあとで何日も病院暮らしというのはいただけない。そんな小言が顔を見る度に飛んでくる。目下の悩みはそこではなく、それを言うときに、例外なくフロイントがしゅんと肩を落として悲しそうにしていることであった。どんなに反感を持っても、なんというかその顔を見るとラナは弱い。
「もうしませんって〜。あんなん卑怯ですよだいたい」
そうやって唇を尖らせるのが精いっぱい。
そう、卑怯だ、フロイントさんのクローンを持ってくるなんて。ラナも、だから、ことあるごとにそう答えるのだった。
はたと、それを聞く神父は、着替えをベッドにおいて手を止めた。
「そういえば、ラナくんはあんまり戸惑っていなかったね」
「そりゃそうですよ〜。指紋がちがうんだもん」
「指紋」
思わずオウム返しの彼の様子に気づくでもなく、ラナは身体を起こそうとして諦める。骨自体はすぐつなげられるといえ、痛みがなくなるわけではないのだ。
「まあ、混乱を収めるために指紋調べてやったとこはありますけど。あ、てかそう考えたらあの人案外抜けてましたねー」
「それはあいつが抜けてたんじゃなくて、君の神経が太いんだよ……」
何度目かの溜息で返す。誰が今まさに自分の手を握りつぶそうとする敵の掌をタッチパネルにして情報を検索したり送ってきたりすると思うのか。
フロイントはすでに晴れた空を残念そうに眺めているラナを見下ろして肩を落とす。持って帰るぶんをまとめて鞄につめこんでしまうと、足元においていた紙袋を持ち上げてみせた。
「さて、この間うっかり溶けちゃったアイスケーキなんだけど」
「ほんとう!? あ痛、あ、あああ」
勢い身体を起こしたラナは、そのままくの字に背中を折ってベッドの上に倒れてしまう。
「これは、ラナくんが起き上がれるようになるまでちゃんとここの冷蔵庫に入れとくから」
「あっ……あっフロイントさん、殺生な」
涙目の居候に笑顔で見せびらかした紙袋を病室の冷蔵庫に仕舞うと、「はやく元気になってね」と頭をなでた。反射的に目を閉じて体をすくませるラナから手をはなしたとき、彼の表情はまた少しやるせないものになる。
「吸血鬼は退治したって、報告しておいたよ」
ラナは、言葉もそこそこに笑みを返す。
次の瞬間、退出するフロイントが勢い良く戸口に額をぶつけたのは見ないふりをするのだった。
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