DogmaDrive


1.ジン

 声をかけられても、ジンはしばらく振り返らなかった。重要な取引の途中だったためだ。彼女を待たせていることを自覚しながら、ジンはあらためて、目の前のフェレットに指を四本立てて突きつけた。
 フェレットの親父は、上を向いた小さい耳の間にちょこんと折り紙みたいな白い帽子をおいている。湿った鼻の頭にシワを寄せてふさふさの腕を胸元で組み、目尻を困ったように下げていた。手元の非物理モニターをいじりながら、暖簾の向こうに目をやってから今日何度目かのため息をついた。
「ふたつで十分ですよ!」
「四つだ」
 にらみ合いから視線をそらすと、暖簾の向こうにはまだ見慣れた警察のジャケットがある。
「入ってきたらどうだ。食事を中断してまで話すことはないよ」
 薄い暖簾の布が、内側に向けて一度揺れた。ため息でもついたらしく、続いて舌打ちが聞こえる。彼女が入ってくるのを見ると、フェレットの親父は渋々用意していた箸をオリエのほうへ置いて妥協したようだった。
「同じものをひとつ」
 フェレットがうなずいて作業に戻るのを眺める。下を向いた頭の上で、小さい耳が細かく震えていた。
「話は食事のあとにしましょう」

 嘆かわしいことだ、一度自分のすくい上げた命が奪われるということは。こんな埃っぽいところにわざわざ住んでいるのは、救うべき生命がそこにあるからにほかならない。人間というのは、機械化していようが生体改造をしていようがとにかく簡単に死んでしまう。眼前の死体だってそうだ。
「カミサマ!」
 耳に飛び込んできた言葉に、神は(反射的ではあるが)心底嫌そうな顔を向けた。
 声の主は満足げにうなずいて、彼の隣からそれを覗き込んだ。肩上までで揃えられたまっすぐな黒髪が、横顔を隠す。
「まったく、死体を見るたびに深淵覗かれてちゃ仕事になりませんよ」
「その呼び方は嫌いだ」
「嫌いだから反応せざるを得ないってわけですね。結構なことです」
 切れ長の目をさらに細めて、男は抗議の視線を向ける。
「アニー・カストロ。三十歳ですね」
「僕のカルテではそうなってる」
「おっけー。照合に回しときます」
 二人の前にあるのは、女の死体だった。
 首があらぬほうへ折れていて、ちょうど隣の階段から落下したものだとわかる。最近の犯罪にありがちな臓器や四肢の盗難はされていない。以前治療したときは、家路を急ぐ彼の目の前に落ちてきたのだ。大型の車両にはねられたらしかった。神が彼女の傷をあらためている間に、車は走り去ってしまった。印象的な出会いだったので顔くらいはさすがに覚えていた。
 運が良いのか悪いのか、と目を覚ましたときには笑っていたが、さしもの彼女も治療費の話をすると真顔になっていた。
「金を払って治療の成果を踏み倒していくやつのほうが多いんだ。治療費は払ってやったんだから、あとのことに口出しするなとばかりにな。うんざりもする。彼女にいたっては治療費まで踏み倒していったな」
「ご愁傷さまです」
 なおもその死体をスキャンしていた神の手が止まる。
「忘れてました」
 神が睨むのと、オリエが顔をそらすのはだいたい同じタイミングだ。
 彼の見つけたのは、頬にぽつりとついた小さな傷だ。詳しくスキャンをすれば、それが脳と、個人情報識別用のデバイスを破壊していることがわかる。オリエが神に連絡を入れたのは、このためであった。
「身元がすっかりわからなくって。住所とか家族とか、話してませんでした?」
「同棲してるパートナーがいると言ってたが。恋人が戻らないとか問い合わせはないのか?」
「そんなん一件一件洗ったら何年経っても身元わかりませんよ」
 この遺体がアニー・カストロその人であることを確認し終えると、神は大義そうにその場に立ち上がった。
「帰ってもいいかな。調べなきゃいけないことがある」
「まあまあ。せっかく住所がわかったんだから付き合ってくださいよ。女を夜道で独り歩きはさせないでしょ」
「何代前の常識だ。君、僕よりよほど強いだろう、それに」
「医師がいるならそっちがいいでしょう。状況説明とか」
「ヒステリー起こした親族ほど近寄りたくないものはない」
「私もです」
 言い合う両隣を、人の波が流れて通り過ぎていく。サイボーグの手足に、痩身の男が力で敵う道理はないのである。彼女にこの手足を与えたことを後悔しながら、神が引きずられていった先は、外見だけ小綺麗なアパートであった。
 室内は、とかく大荒れだった。暗い室内に入ってすぐ、踵を返した神はオリエに襟首を掴まれた。
 ハリケーンでも来たようなひどい有様。服も荷物もありったけ散乱し、そこやここに山になって、放置された惣菜に虫が湧いていた。
 ひっくり返っていないのは隅のベッドくらいのものだ。こんなに狭いワンルームに。
「ここに人が二人住んでるって? 何度見たってそうは思えないな」
 改めて、神はオリエの手を払うとしかめつらしく室内を見回した。路地の向こうから届く灯りが、うっすらと服や汚物の山に投げかけられている。
「カミサマにはわかんないでしょうけど、標準的な労働者はこの面積に家族四人とかで住んでるんですよ」
 涼しい顔で家探しを始めるオリエを見て、神は口をへの字に曲げて不満を表現してみせた。こんな小さなアパートに監視カメラなど当然ない。足の踏み場もないほど散乱した衣類、靴、化粧品、どれも女ものだ。
「一人暮らしだったみたいだな」
「同性のパートナーじゃないですかね。服の趣味違うし」
 とはいえ、ざっと調べたくらいではわかることもそうない。管理人に聞けば、ここに住んでいたのはやはり女性の二人組で、一人は運び屋をしていたらしいという。念のため確認した貸し車庫には、仕事に使うであろう車が置き去りの体でさみしげに停められていた。
 帰り際、ふと神はオリエを向き直る。彼が思いつくまま出した言葉に、相手は思いっきり顔をしかめた。

***

 その仕事は、アニーにはいたく堪えたようだった。私が彼女のことを心配すれば、いっそう口を閉ざす人なのはよくわかっていた。危険な仕事だから、本当ならやめてほしいんだけど。「次は辞めるよ」というのは、もう彼女の口癖みたいだった。
 今回に限っては、帰ってきて早々私に抱きついて、ぐったりと肩に頭をあずけてきた。
「すっごい疲れた~。やっぱ研究者とかろくなもんじゃないわ」
「ご飯にする? もう寝ちゃう?」
「寝ちゃう~」
 喉でも鳴らしそうな甘えっぷりが、私は気に入っていた。アニーから見た私もそんなかんじなんだろうか。じゃれついてくる彼女を半ば引きずるみたいにベッドに連れていき、もつれ合うみたいに硬いマットに飛び込んだ。痛い、と軽く悲鳴を上げて笑い声に変わる。すっかり機嫌は直っていた。
 いくばくもしないうちに聞こえてきた寝息に、誘われるように眠りに落ちた。

***

2.マグダレーナ

 自分の身体ではないようだ、というのが、ここに来てからの印象であった。
 鏡を見ても変わりはなく、大した不調もなかった。最初のうちは。出ていこうと試みたことがあったが、入り組んだ建物で迷っている間に捕まった。
 数回は出入り口に近いところまで行けたようだが、それもすぐに見つかってしまう。
 遠くには、街の灯りが見えているのに。
「昔はね~。古い日本建築って、広々として素敵って思ってたけど」
 この部屋は、どうやら広々とした屋敷のほとんど中央に位置しているようだ。最奥ってことだ。いつも充満している木と干し草のようなにおい。
「ここを出たらもう見るのも嫌だと思うわ」
 広々とした和風木造建築は、どこを通っても隠れるのに難儀するし、見咎められればどこからでも人が出てくる。それこそ、どこからか湧いて出たみたいに。結局、彼女はそれですっかり出ていくのを諦めてしまった。出ていこうとさえしなければ、夜以外はどこにいるのも自由だ。
 髪をいじりながら、横目に相手を眺め、マグダレーナはため息をついた。
 なにか言いかけた世話役が口をつぐむ。彼らはだいたい三人組だ。太いのろまが一人。のっぽの口下手が一人。それからよく喋るチビが一人。誰か一人は、必ず彼女のそばにいる決まりらしいが、彼女のためになることをできた試しがない。壊滅的に不器用なのだ。
 自分の身体ではないようだ、と思う。
 違和感はひと月くらい前から。そう、それなりに長くこの軟禁生活を続けている。
 とにかく、やたらと身体が重たい。倦怠感というんだろうか。単純に自棄になっているだけかもしれない。
 なにか腹の中に……いや。心当たりはある。思い出したくもないだけで。
 今日は生憎の雨で、遠くのネオンさえ薄い壁の向こうみたいに見えた。進展もなく、自分の裁量では何もできない。彼女にとって、これ以上の屈辱があるだろうか。お姫様をやるにももうすっかり歳がいってる。
 ことさらに今日。朝からずっと雨が振っていて、雲は街の明かりを腹に受けて、やる気なく空を覆う。畳も空気も底冷えするみたいに冷たく、廊下は霧を吹いたようにしっとりと濡れていた。
 世話役の男がふと顔を上げる。天井から――そう見えただけで、違うところから侵入したんだろうが――スウが降ってきた。
「ただいま!」
「ここはあんたの家じゃない」
 抱きついて来ようとする腕を押しのけながら、マグダレーナは助けを求める視線で世話役を見る。彼は少し困ってから、手をひらひらさせて「あっちへ行け」のポーズを取った。唇を尖らせて四が離れると、少し遅れてサンが渡り廊下から顔を出した。
 いつも笑っているような顔の四と違っていつも眠たげな糸目、片目が隠れる長い前髪に、艶のある黒髪を緩やかに背中側で三つ編みにしている。四とは色違いの派手な衣装が、首をかしげる動きに合わせて揺れる。
「ああ。またマグダレーナを困らせて。ごめんね」
「仕事が終わるまで我慢したんだ!」
「マグダレーナはずっと我慢してるだろ」
 同じ顔がふたつ並んで諭したり諭されたりするさまは、いつも奇異なものに映った。
 普段は二人組で軽業をしているという。これだけ見た目がよかったら、さぞや人気があることだろう。今日は仕事からそのまま、衣装も変えずに来たとみえる。
「あいつに用があるなら、今日はずっと部屋にこもってるみたいよ」
「あんなヤツには用事ないよ」
「マグダレーナに会いにきたんだよ」
 はあ、と気のない返事のような、ため息のようなものを返す。この二人が来ると、必ずこのやり取りが挟まった。どの時点で懐かれたのか、そもそも自分の何がいいのかも、当の彼女にはわからない。
 絵に描いたような美少年なんだから、もっと近い歳のかわいい彼女なり彼氏なりを作ればいいのに。一度言ってみたら三がひどく傷ついたような顔をしていたからもう言わないが。
「今日は特にキツいの。あの野郎にあんたたちが頼み込んで、外出許可をもぎ取ってきたらデートしてやってもいいよ」
「本当!?」
 四は飛び起きて、すぐに駆け出した。一拍遅れて、三が腰を浮かせる。
「四! 待て!」
「無体な……」
「いいのよ。男にも子供にも興味ないんだから」
 彼女はそううそぶいて、布団にごろりと横になった。今日はそういう日だ。そういう日に限って。
 シラクスが奥から四を腰からぶら下げて歩いてくるのが見えた。四が彼にしがみついて駄々をこねているのだった。後ろをついてきた三は、マグダレーナと目が合うと、首を横に振って肩を落とした。彼女が同じように肩を落としてみせると、急いで玄関を目指すシラクスから四を引き剥がす。そのままマグダレーナのほうへ歩いてくると、三は滑るように彼女の肩口に腕を回して、燃えるような赤毛に口づけた。
「ボクたちが出してあげる。絶対だよ」
 耳元に話しかけられて蹴り上げようとした足から逃げ、ブーイングを飛ばす四の手を引いて笑いながら裏庭に降りていく。
 いっそう強く降り出した雨の向こうから、「後でね」と手を振る影が姿を消した。
 入れ替わりに、シラクスに連れられて渡り廊下を歩いてきたのは二人だ。
 金髪で、病的な目つきの痩せた男。それと、黒髪を肩上で切りそろえた女。マグダレーナのほうを横目に見て、前を歩く男に何事か言うと彼女一人だけがその部屋へ入ってくる。
「お邪魔します」
「どうも」
 突然の来客に戸惑っているのはマグダレーナだけである。隣を見ると、のっぽは女に「先生はお一人でもいいんですか?」と独り言のような声でつぶやいた。
「ええ。お話は先生たちだけでいいということだったんで」
「なるほど……」
「何?」
「ああ、すみません。オリエっていいます。シラクス先生の研究なさっている不妊治療用の多重排卵促進システムについて、うちの先生に共同研究のお誘いがあったらしいのでその話し合いに」
「ああ……そういう……」
 オリエの手が、ふらついたマグダレーナの肩を支える。
「大丈夫ですか? 顔色悪いみたいだけど」
「今日はずっとこうよ。気にしないで」
 マグダレーナが体を引くのにまかせて、オリエも手を離した。心配げな表情のまま、世話役の男を見上げ「お熱があるかもしれません。上着とか持ってきていただいても? 私は戸が開いてるところを閉めますから」
「全部やっておきます。看護師さんは彼女についてあげてください」
 外は生憎の嵐だ。
 のっぽが戸を閉めて出ていくと、二人の残された部屋は、強い風の音から紙一枚分隔てられた。それだけで、室内はしんと静まり返ったように感じられる。
 短い沈黙。
「うそつき」
 と先にそれを破ったのは、マグダレーナの声だった。愉快げなくすくす笑いが収まるのを待たず、オリエは「ちょうどよかったので」と神妙に返した。
「看護師なもんか。こんな怖い目つきの看護師いてたまるかよ」
「恐れ入ります。……目つき悪いのは生まれつきですけど」
 一拍置いて、マグダレーナは笑うのをやめた。相手が一向に笑わないことに気づいたのだった。
「何の用?」
「近頃、シラクス先生が女性を自宅へ連れてきたらしいと聞きまして」
「で?」
「あなたを最後に外で見た、と証言があるのは、先月の十五日です」
 そのくらいだったかな、と気のない返事をする彼女は、自分のストレージによこされた電子ファイルを見て、ぎくりと動きを止めた。
 女の写真である。
「彼女が亡くなったのもちょうどその日です」
「彼女のことを?」
「ご存知ですか?」
 勢い、前のめりに顔を近づけていたマグダレーナは、冷静さを崩さない相手を見てさすがに気まずくなった。体を引いて目をそらす。麻痺していた痛みが突然内側から胸を貫いたようだった。片手で顔を覆った彼女を、オリエは静かに見つめていた。
 なにか言おうとすれば、嗚咽がこぼれそうだ。
 マグダレーナは、深く息を吸って、そのままきつく口を結んだ。自由な時間はそう長くない。会話を続ける必要があった。
「恋人」
「わかりました。では、詳しい話は外で」
 言いさして、オリエは頭を下げるようなポーズを取る。驚いたマグダレーナが顔をあげると、三(あるいは四)が彼女の後ろ蹴りを顎で受けたところだった。
「四!」
「マグダレーナ、こっちだよ」
「くそ!」
 顎を押さえた三の声、四のいやに冷静な呼びかけ、オリエの悪態が同時に響く。すでに廊下を足音が近づいていた。
 三はオリエの追撃を器用に避けると、マグダレーナを担ぎ上げた四と並んで部屋を飛び出す。
「離して! 離せよ!」
 追ってきたオリエのほうに障子を蹴り倒し、飛ぶように――実際飛んだのかもしれない――軽やかに、少し走っただけでもう駐車場へ出てしまった。三がマグダレーナを強い雨から庇うように上着をかける。
「ちょっと濡れちゃうね」
「離してって言ってるでしょ!」
「それは聞けない」
 車のわきには、すでにシラクスの姿があった。

***

 小さいことほど大事にしよう、というのが私の信条だ。恋人と同棲を初めて何年目だとか、部屋の隅は毎日拭き掃除するとか、そういうの。つまり、今日は部屋をできるだけ明るくして、ちょっとだけ奮発した料理を用意してアニーの帰りを待っていた。
 同棲を初めてから、ちょうど三年目になる。
 アニーは面倒くさがりだ。ただ、私がしたいことを無下にするような人ではない。そういうところが好きで、十年も付き合っていて、三年も一緒に住んでいる。年毎に行うささやかなお祝いは、これからもこの雰囲気でいられるようにというちょっとした祈りなのだった。

 つんと肩をつつかれて飛び起きた。時計を見ると午前一時を回っている。
 ド深夜だ。
 文句を言おうとした私の唇を、アニーの人差し指がおさえた。
「ごめんね、連絡する余裕もなくってさ」
「う、ううん。めずらしいね」
 ちょっと眉尻をさげて、アニーは「うん」と返した。残念そうな表情に、こちらも毒気を抜かれてしまった。珍しい、私がこうしたがることを知っていて、必ずこの日は早めに帰ってくる人だから。
 向かいに腰掛けたアニーが、好物ばかりの食卓にはしゃぎ始めるのを見ると、それ以上はどうでもよくなってしまった。
「今日さあ、運び屋ってか引越し屋だったんだよ。肩と腰がしんどいよー」
「大変だったね。大きい家具も?」
「運んだ運んだ。顧客が自分で運ぶって言うけどジイさんなんだもん、見てらんないよ」
「ジイさんも、アニーが大きい荷物運ぶのは見てられなかったんじゃない?」
 なにせ、彼女はちょっと細身にすぎる。自覚はあるらしい肩をすくめてみせ、お客さんにいただいたらしいビールの缶をテーブルに載せた。
「おんなじこと言われたわ」
「でしょう?」
 押し殺した笑いを交わしながら、つけっぱなしにしていたテレビのモニターに視線をやる。ちょうど、バイオテックの権威の一人だという医師がなにか話しているところだった。
 不妊治療のための新たなアプローチとして、女性の体に手をいれることの是非について。真面目な討論の中心になっているのは、シラクスという医師だ。
「この人、この間アニーが届け物した相手じゃない?」
 数回の打ち合わせと、実際の仕事に数週間をかけた大仕事だった。あんなんじゃ、疲れ切ってふらふらで帰ってくるのも道理だ。
 返事がないことを訝って振り返ると、アニーは真っ青な顔でモニターを見つめていた。
「アニー?」
「あっ」
 声をかけてみると、ぎくりと体を跳ね上げて、ぎこちなく笑顔を返した。テレビを切って、「あの人そんな偉い人だったんだねえ」なんてこともなげに言うのだった。
 聞かれたくない。
 なにか尋ねてもそう答えるだろう。しょうがない、彼女も強がりなとこがあるから。いずれは話してくれる。私には心を許してくれてるはずだもの。

 それから、アニーが日をまたぐまで帰ってこない日は露骨に増えた。私も、そろそろ彼女を案じるだけではなく、対策を打つ必要があった。アニーが誰かに追われているようなら、私にも少しはできることがある。

***

3.ジン

 オリエと分かれた廊下へ向かうと、彼女もまた走って部屋を出てくるところであった。ちらりと見えた室内は荒れてひどい有様だ。
「誰か君たちの会話を聞いてたらしい。急ぐぞ」
「世話役っぽいやつは引き剥がしましたよ」
「じゃ他にいたんだろう」
 自分のセリフを先回りされたオリエが驚いている暇もなく、すぐに玄関へ向かって走り出す。思い当たるのはマグダレーナをかっさらっていった双子だ。カメラやドローンの類はないと思っていたが、道理で。
「どうしたんです? 今までと全然態度」
「話は車に乗ってからだ。十一、いや、十二人もの命がかかっている」
「はあ?」
 白いクラウンに飛び乗ると、彼女を待つのももどかしげに扉も閉まらないうちにアクセルを踏む。まだシラクスに追いつけるはずだ。
 今どき珍しいマニュアルのシフトレバーに手をかけ、「例の彼女については?」「恋人だそうです」行儀よく駐車場を出る神にイライラと身を乗り出しながらオリエが答える。
 そうだろうな、とアクセルを踏み込む。静まり返った郊外の住宅地は、街のギラついた光とは無縁のようだった。広い道は、規則正しく並んだ街灯に照らされていた。
 そわそわと肩を揺する彼女を横目に見て、
「見失った」
「でしょうよ」
 頭をかかえたオリエが、展開した非物理モニターをにらみつける。
「シラクス博士と連絡は?」
「連絡用の回線でどうにかなるのか?」
「逆探知します」
 それってそういう道具だっけ、と呑気な言葉を返すと、鋭く睨みつけられた。神は仕方なく通話用の回線をシラクスに向けて開き、連絡を試みる。
 「やあ、神先生。気が変わって手伝ってくれるのかい」
「先生。僕は自分の意見がまともであると確信していますから。マグダレーナとおっしゃいましたか。彼女はそのままにしておいたら死んでしまいます。
 作為的な多重排卵の促進は不妊治療のためのもののはずです」
 オリエの目が神に向けられる。眼前に送られてくる簡易マップは、中華街にちょうど入ったところを飛ばす光点の動きを追っていた。
 神は慣れた手付きでギアを上げ、前方の車の間を縫うように追い越していく。
「下手をすれば子どもたちも死ぬでしょう。僕は僕の名前にかけて、そういった事態は看過できない」
 雨に濡れたネオンの光が、飛ぶようにクラウンの両側を走り抜けていく。前を見ればまるで道が自分から開いていくようにも見えた。
 「君は若い。今の時代、人はそうそう死なない。子供もそうそう生まれない。知ってるか? スラムのほうじゃたくさん生まれて半数以上は死ぬんだそうだ。だが母親は強いから生き残る。都市部では子を持てない女性が多い。考えてもみろ。母が自ら望んだ子に命をすべて分け与えて死ぬことがそんなに悪いことか」
「人工的なそれは「ふざけんなクソ野郎!」
 言葉を通信の向こうから遮る大声に、神は顔をしかめた。
「……倫理はさておき、当人は嫌そうですね」
 「彼女にもいずれわかる。私を愛していないからな。
  素晴らしい女性だ。聖処女と呼ぶにふさわしい。異性を愛さないとはとりもなおさず彼女が自身の性における決定権を自身で握っているということだ。
  完全な母は神像にもなっているように多産で、しかも多くの子を育てるための乳房をそなえているんだ、神でない母であるところの聖女は産褥の床にて死すべきだ!」
「それが相容れないと再三申し上げてるんですよ。物理的に不可能です。母親だけでなく、育ちきれず他の子に潰されて何人が生きていられるか」
 ビルの群れに飛び込むと、車道にまであふれる人の波に道を阻まれて速度が落ちる。断固として進む意志を見せれば、通行人も渋々道をあけはするものの。
 しびれを切らしたオリエがダッシュボードを殴りつけた。
「もっと荒っぽくいけないんですか!?」
「荒っぽくいったら事故るだろう!」
「ばか!!」
 「誰か他にいたのか、おっ、と、気をつけろ!」
 なにやら甲高いブレーキの音。「しかし残念だ、私は実際死んだ女から生まれた君ならわかってくれるかと――」通信は打ち切ったが、オリエが探知した位置情報は健在である。その作業スペースには、更に窓が増えているようだった。何台もの車両のフロントガラスだけ切り取ってきたような景色が。そのうちのいくつかには、今追っているシラクスの車が映っている。
「無茶してるな」
「先生が無茶しないからでしょうが。急いで」
 無茶といっても、彼女がよくやる手ではあった。なんでもサイボーグになったのをいいことに、腕やら足やらにも電脳を走らせて、ハッキングや車両、ドローンの遠隔操作に使っているとか。そんな手足を付けた覚えはないと散々に言ったことは記憶に新しい。
 今回は片端から近くにあった無人タクシーとか個人所有の車両のAIをハックしてるんだろう。
 マップ上では、神の車はジリジリと標的に追いつきつつあった。
「バイパスに入られたら一気にスピードが上がるはずです。車もまばらになってますし、すぐ高速に入る。そっちへ追い込んでますから」
「だろうな」
「急いでって言ってんですよ!」
 言うなりナビに追加されたのは、そこらを走る車両すべての軌道と速度であった。あとは自分で計算してさばけということだ。
 赤信号をにらみつけると、仕方なく広い交差点に向けてアクセルを踏み込んだ。前を抜ける直進車の背後へ滑り込み、ジグザグに強行突破していく。横滑りする光の波と濡れた地面の光沢に、いよいよ激しく窓を殴る雨とクラクションの音。目をすがめてどうにか混雑を抜けた神の隣で、オリエはずっと前のめりに前を睨んでいた。
 今度はなにか人と話し合いをしているようなフィードの画面が追加されている。
「君、それ脳が焼き切れたりしないの?」 
「前見てください」
 軽く渋滞するバイパスを、脇に退く車の間を縫って走る。フロントは叩きつける雨のおかげで、すりガラスのようになっていた。これ以上踏み込めないくらいアクセルを踏みつけて、横に流れていく水滴を見ていると、滝を割って進んでいるような気までしてくる。これでオリエか神が運転をとちれば、二人で仲良く死の淵をさまよう羽目になるだろう。
 ようやく視界に入った標的との間に、大型のトラックが割り込んでくる。横殴りの風が神の頬をたたいた。
「速度を落とさないで」オリエは舌打ちして助手席の扉を開いた。
「なに、」するんだ、という声を聞かず、彼女は体を捻って天井に飛び乗り、そのまま跳躍した。トラックのほうへ。コンテナへ飛び乗ったのは相手も同じ、あるいは早かったようだ。
 滑るような低い蹴りは、とっさに身を翻したオリエを突き落とすことはできなかった。傍から見れば踊るような動きで。
 お互いに向き直ると、相手は――三つ編みをなびかせる笑い顔の少年だ――なにか罵声を飛ばして、コンテナを蹴る。オリエは力任せの拳を躱し、受け流すことは諦めた。一歩下がり、素直に追いすがる少年に笑いかけてすれ違う。横蹴りの左脚は、接触の瞬間だけ出力を増した。
「痛っ! ……た」
 腕で受けた少年が小さく悲鳴を上げた。砕けた腕を抱えてコンテナから投げ出されたのを見届けたと同時に、トラックの隣に神の車が並ぶ。もう少しで追い越せるか。前を向き直ろうとした彼女の足元で、その車体が大きく右へ逸れた。
「先生ッ!?」

***

 目を覚ますと、病院だった。
 ひどい痛みに頭を抱えているところに、医師からの説明は「大型車両にはねられて重体になった」というものだった。そういう記憶はなんとなくある。
 医師は病的な目つき——そう、数日寝ていないみたいに見えた。真っ白い肌と金の髪。どこかで見たような覚えがある。いや、知っている。なんだか手当たり次第死にそうな患者を蘇生させるためにあちこちの病院をまわり、自分の病院まで経営してるとかいうヤバい医者だ。
「眼の前ではね飛ばされるとはいい度胸だと思ったよ」
 嫌味なのかどうか知らないが、彼は淡々とそう語った。
「好きではねられたんじゃないと思いますけど」
 ちょっと不機嫌になったのに気づくと、医師はそれを鼻で笑って出ていった。なんて性格の悪いやつだろう。そう考えたけど、そうでなければこんな気違いじみた仕事はしないのかもしれない。今どき医師と研究者は同義語で、患者を体よく治験に使っている病院が多い中で、まともに患者を救うことしか考えていないわけで。
 アニーからの連絡履歴に気づいたのは、身体の痛みが取れたころだ。メッセージや音声の受信を病院側で制限していたらしかった。あの医者に詰め寄るよりも、まず連絡を取ることが先決だ。
 あたりまえだ。アニーの個人コードは書き換えていたし、私の個人識別コード書き換えもきちんと機能している。
 だとしたら——
「どこにいるの!?」
 連絡を撮ると、開口一番にそう叫ぶような声が飛んできた。
「家を知られた。ああ、ごめん。早く出ていこう、今まで全然あんたが返事してくれないから」
「落ち着いて。だいじょうぶ、私も急いで帰るから。準備していて」
 病院を飛び出したのは、そういう経緯だった。
 私がやったのは、個人識別コードを再度書き換えること。ストーカーが追跡に識別コードを追っているなら、自分のほうと間違えて混乱することを期待していた。家が見つかったらもう意味がないから。
 もう一つある。アニーのトラックをロックすること。キーコードは雑に自分のベッド横の端末(患者の状態を記録するためのものらしい)に突っ込んだ。
 少なくとも、自分になにかあったにしろアニーになにかあったにしろ、そのときはここにも調べが入るだろう。「アニー・カストロ」はここで神カズヒコの世話になったことがある。他の病院ならいざしらず、彼が自分の治療した相手が死んだり死にかけたりするのを放っておくとは思えない。ただの噂にすぎなかったとしたら、私も情報屋としては終わりってことだ。
「アニー!」
 一刻も早く。
 私がすべきことは決まっていた。

***

 
 スリップで稼いだ時間は一瞬だった。割れたアンプルでエアバッグを破裂させると、神は間一髪でハンドルの上に伏せた。振り向きざまに相手の腕を掴み、その手にある長い針をつかんだ。
「こいつが」
 相手が恐るべき腕力で引き戻そうとするのを利用し、へし折ってやる。
「僕の患者を殺した凶器だな」
「くそ、医者じゃないのか」
「医者だ。現に怒ってるだろう」
 ミラー越しに相手を見つつ、ポケットを探る。
 少年はオリエと入れ替わりに後部ドアをぶち破って入ってきたのだった。針を離すと、そのまま後ろから神の首をへし折りに腕を伸ばした彼ごと、シートを限界まで後ろへ引き倒した。なおも離れない腕に、細い指がかかる。
「邪魔を、するな」
 麻酔薬のアンプルを(当然だがこんな非常時以外のときはきちんと麻酔科医の指示なくこんなものを人に使ってはいけない)少年の腕に突き刺した。
 神の首に回された腕は――これは折るつもりの圧迫感だ――自棄気味に力いっぱい締め付けるのをやめない。数秒前から呼吸はできていないし、視界が若干赤みがかり、断続的に暗くなっている。
 ざあざあいってるのが雨なのか頭に集まる血流なのか判別できなくなり、頸椎に耐え難い痛みが走ったとき、不意に少年の腕が緩んだ。
 麻酔がきいたのか、オリエが引き剥がしたのかはわからなかった。咳き込む神の襟首をつかんで助手席に投げ入れると、オリエはあらん限りの大声で罵声を飛ばしながらエンジンをかけなおした。ガードレールに突き刺さった鼻面をバックで引き剥がしながら、神を怒鳴りつける。
「何されてんですか!」
 苛つきを隠しもせずマニュアル操作に手こずって、彼女の運転はこの終わりみたいに乱暴なものだった。
「も……痛、折れ、首が……」
「折れたって死にゃしないでしょうが」
 跳ね上がったボンネットは戻ってくるついでに引き剥がされたらしい。ようやくまともに見えるようになった神の視界に、ぐいぐい近づいてくるテールライトが眩しく映った。
 助手席の窓から出てきたものを見て、彼が銃口だと察するより早く体が大きく横へ振り回され、側頭部を窓に打ち付ける。銃声はタイヤの叫び声にかき消された。
「撃たれてる?」
「ご覧の通りです。先生は後ろの奴に注意しておいてくださいよ」
「彼はだいじょうぶだ」
「麻酔ですか?」
「そうだ。死んでない」
「そんな心配はあんたしかしてない」
 左右に振り回されながら、神は隣の車線で車の上を跳ねるものを眺めて、それから思わず後ろを振り返った。自分を殺そうとした刺客はそこで麻酔を食らってのびている。
 だとしたら――
 急ブレーキ。
 前方で突然相手の車がスリップした。止まりきれない車は流されるまま、回り込むように前に出て、逆走の形で黒い車と向かい合う。そのフロントガラスをちょうど叩き割って、運転手のチビが投げ出されるのが見えた。ハンドルを奪ってスリップさせたらしいマグダレーナは、驚きに目をむいて彼を見上げていた。
「これで、殺した後全身の骨を叩き折れば、事故死だ。事故死になるよね」
 四は彼女を抱き上げるように出してボンネットに下ろすと、片割れの持っていた針と同じものを袖口から手に滑らせた。砕けていないほうの腕を振りかざし。
「三の言った通りだ」
 後部座席のシートに背中を貼り付けているシラクスが刺されるよりも早く。
 神がマグダレーナを抱えて道路に転がり、オリエが車体に蹴りを入れて横転させた。

4.マグダレーナ

 あの不遜極まりない医者の言うことには、数ヶ月は病院で安静にしていろということだった。シラクスは檻に放り込めたが、双子のほうはどうやって抜けたのか、姿を消したという。そして何より(これは、神が一番強調したくてたまらなかったことのようだ)、人工子宮の用意が整ったので、十一人全部がそこに移せる大きさに育つまで。また、人工子宮へ胎児を移し替えたら、切開した傷の予後をみるために。
「堕ろすって言ってるでしょ」
「堕ろさないと言ってるんだ」
 まるで聞き分けのない患者を諭すような言いぶりだが、その実ダダを捏ねているのはあの医者だ、とマグダレーナは思っていた。警官に愚痴ったところいたく同情されたので、そう間違ってはいないはずだ。
 ともあれ、この病院ではあの医者の言葉が絶対だというし、どっちみち彼女に親としての責任は問わないというし、しょうがないので病室ですごしてもう三週間ばかりになる。
 世界にこんななんにもない部屋なんて存在するんだろうか。淡い色と白で統一された清潔な室内は、荒れたアパートと違っていつまでも落ち着かない。早くあの部屋に、帰りたいかと言われたら、きっとそんなことはない。オリエがわざわざアニーのことからマグダレーナの所在をシラクスの屋敷に限定したのは、なんのことはない。自宅のベッドにマグダレーナの血液とシラクスの体液が残っていたからだ。
 おおかたシラクスのやったことについては、あの世話役の三人――チビが四に殺されたから今は二人組か。彼らが細かく証言しているのだという。
 ふて寝で寝過ごすのも限界がきて起き上がる。腹部の違和感に顔をしかめていると、膝の上に愛車のキーが降ってきた。
「オリエが返しにきたよ」
 顔をあげると、神があの鬱陶しいしかめっ面で見下ろしていた。
「そりゃどうも。あいつの車にタックルした傷は直してくれた?」
「ピカピカだそうだよ」
「修理費も警察もち? ならラッキーだったかも」
 笑ってキーをいじる指先に視線を落とす。今日は、体調や気分に関するお決まりの質問が飛んでこないことには気づいていた。
 沈黙も、中にいれば満ちることがあるのだ。この医者といると、彼女はそんなふうに感じることがある。患者相手だからだろうか、必要なこと以外はほとんど喋らないのではないか。
「気分はだいじょうぶか?」
「毎日言ってるよ、変わらない」
 それから、だんまり。生きるか死ぬかといわんばかりの表情を見て、彼女のほうが声をかけようか迷ったくらいだった。
「マグダレーナというのは君が、シラクス先生に一方的に呼ばれていたと……」
 彼女は患者としての名前も全て、頑としてマグダレーナで通している。それが不満だとでも言いたいのだろうか。
「僕は君の名前を知ってるんだ」
「そりゃ知ってるでしょ。個人識別タグがあるんだから」
「ああ。そういうことじゃない。それもそうなんだが」
 腕組みをして、ベッドサイドの椅子に座った神は、再び数分間にわたって口をつぐんだあとで、彼女に視線を戻した。
「アニー・カストロの話を聞けるくらい、気分はおちついているかな」
 それを聞くなり、マグダレーナは自分の顔がこわばるのを感じた。
「無理なら別の時に話そう」
「いや、いいよ。聞かせて」

***

「僕の通信用回線に『殺される』『アニー』とだけメッセージが送られてきたことがあるんだ」
 神は、静かにそう切り出した。日付は、彼女が死んだちょうどその日。そして、マグダレーナがそこから連れ去られた日でもある。
 まさに、ベッドに押さえつけられているところに駆け込んできた彼女の姿を、マグダレーナはついさっきのように思い出していた。直後に四に首を折られて死んだのを。
「情けない話だ。気づいたときすぐに探しに探しに行ったが、もう部屋はもぬけの殻だった。オリエや情報屋を頼って見つけようとしたが、見つけたときには彼女は死体だった」
 「アニー」とあの患者、どちらかが個人識別コードを偽っていたことは明らかだった。個人識別コードの入れ替えを、恋人が了承していたかはさだかではない。ただ、ベッドに残っていた血液も体液も、どれも彼の患者だったアニーのものではなかった。
 次に出会ったとき、その死体が「アニー・カストロ」の識別コードを持っているかはわからなかった。前述の通り、それを収める部位は破壊されていたからだ。
 顔を伏せたまま、マグダレーナに向けられる目は、よほど素直に落ち込んでいるようだった。
「そんで、ずっと探し続けてたわけ」
「本業の傍ら」
「そこは素直に言うとこじゃないよ」
 失笑して、アニー・カストロは追い払うように手を振った。それ以降の話なんて、聞けたものではなかった。
「落ち込んでるみたいだから、とっとと仕事に戻ったら?」
 神は大真面目にうなずいて席を立つと、思い出したように入り口で彼女を振り返った。
「ティッシュとかタオルとか入用なら言ってくれ」
「気を遣えって言ってんのよ」

***

5.ジン

 退院と一緒に、マグダレーナはアパートを引き払うことにしたらしい。神が見送りに車庫を訪れると、新車同様にコーティングされた軽武装のトラックをひと撫でして、運転席を検分している後ろ姿があった。
「見送り? ご苦労さま」
「忘れ物だ」
 投げてよこしたのは軽い眠剤と痛み止めのセットだ。彼女は受け取って一瞬「げえっ」という顔をした後で手を振る。
「で、どこか行く宛てでも?」
「ないよそんなん」
「理解しかねるな。しばらくは警察の世話にでもなっていればいいのに」
「運び屋やってんのよ。マズいもの運んだ経歴が深掘りされたらあたしだって困るの」
 バックパック一つに収まってしまった荷物を助手席に放り投げ、ドアを閉じるとようやく彼を振り返った。
「行き先もそのうち決めるし、自分ひとり運ぶくらい、大した仕事じゃないよ」

「……だそうだ」
 予後の経過が良好だったし、患者の意向もあって早々に引き払ってもらった、と聞いたオリエはいたく不機嫌であった。他にも聞くべきことが山ほどあった、とまくし立てる彼女の背後に、運び屋としての犯罪行為の追求という文字がくっきりと浮いて見えた。
 残念ながら逃げ足の早いやつが生き残るのが世の常だし、そういうところでマグダレーナの嗅覚も才覚も確かだったというわけだ。今頃はとっくに個人識別コードにもフェイクを仕込んでいることだろう。
 一方の神は、犯罪者だろうが聖人だろうが死ななければあとはどうでもいい。そんなわけで、このやり取りについては日常茶飯事であった。
「何考えてんですか? ほんとに……ほんとにですよ。死ななきゃなんでもいいわけですか? わかってます、死ななきゃなんでもいいんですよね」
「自己完結されたら話すことないじゃないか」
 うるせえ! と喚いてオプションのビールジョッキをテーブルに叩きつける。
「そんなに機嫌悪くするなら、別に僕に絡んでこなくたっていいだろ」
「先生はぁ、どんだけ自分が引く手あまたかご存知ないようですけどねえ、あんたを中心に汚職とか犯罪とかわんさか出てくるんですよ。知ってます?」
「知らんが」
「知っとけよ! クソがよ!」
 もともとシスターをやっていたとは思えないような口の悪さである。
 飲酒に向かない体質だからやめておけというのに、飲酒に向く体に作り変えろなどとくだを巻く始末。
「だいたい埋め合わせみたいに連れてくるのが立ち食いの屋台ってのがどうかしてますよ」
「旨いじゃないか」
「バカ舌」
「食おうと思えば人も食える。生で」
 げーっと舌を出して、オリエは神の顔を見つめた。冗談で言うにはきついネタだった。
「ま、いいです。変死体の身元もわかったし、殺人の下手人は逃したけど大本は捕まえたし。あとは上に投げちゃいます」
 唇を尖らせて言うにことには、本来の業務は変死体の身元確認だけであったという。事件性が出たら全部押し付けられたというんだから、この運びで上がやることはほとんどなさそうだが。
「ベビーはどうするんです?」
「養育施設に預ける契約をしてる」
 嘘だ。
 神としては甚だ具合の悪いことだが、人工子宮へ移すために切開した子宮から取り出されたのは、十一の赤子の亡骸であった。まあ、彼女のような手合は強姦されて孕んだ子を産むつもりなんてなかったろうし。マグダレーナが何をしたにしても、結果が手元にある以上何を言ったって無駄だった。
「じゃ、ようやくこの話はおしまいですね」
 オリエは上気した頬を袖でぬぐい、フェレットの親父に支払いを済ます。思い出したようにポケットから豚鼻の真空パックを取り出し、これは親父に直接手渡した。
「ふたつで十分ですよぉ」
 言葉と裏腹に満悦顔のフェレットは、手渡された三つ入りのパックをいそいそと懐に仕舞う。今ならふわふわの頭を撫でても怒られないかもしれない(神は先程挑戦して失敗していた)。
「情報料にしちゃ安いくらいだ。受け取っといてよ」
 信じられないものを見るような神の視線は、やり取りの間も終わってからもガン無視されていた。