告別
私が殺した女性の話をしよう。
* *
「しょうちゃん」
と、昔と変わらぬ声が僕を迎えた。久々の里帰りだが、わざわざ母と一緒に迎えに来てくれたゆきの声だ。
肩の後ろまで伸ばした黒髪は、都会の女性のようにパーマをかけなくてもゆるゆると波打っている。結婚したと聞いたが、特段昔と変わらぬ様子に、人知れず胸をなで下ろしていた。
「ゆき」
呼んでみると、にっと口端をつり上げて笑う。大人びた外見がそれだけで一気に崩れてしまうのがおかしかった。
「背伸び似合わないね」
「なによそれは!」
大股にきびすを返した彼女の背中を追うように歩き出す。隣で母がくつくつと笑っていた。
「よかったわ、やっぱりあんたのこと呼んで」
「元気そう」
「空元気よ、決まってんでしょ」
声を潜める。母の横顔がすっと視界を滑って、気づいたら前のほうでゆきときゃっきゃと騒ぎながら歩いている。駅は空いていて、たびたび行き会う人は大きなキャリーを見てなんとはなし僕のほうへと視線を向けた。
そういえば、虚勢を張る子だったな。
なんでもないことを、そんなタイミングで思い出す。
発端は母からの電話だ。彼女の旦那が亡くなったから、帰ってこいというのだった。事故だったそうだ。
実家に戻ると、隣家に白黒の幕がぐるりとはってあるのを眺めていたましい気持ちになった。ゆきの夫は入り婿だったという。
「ごめん、葬式手伝いにきてやれなくて」
「いいよ~。休み取れなかったって? 別に呼び戻すこたないのにね、おばさん」
言いながら差し出された湯飲みを眺め、それからすぐに土産を持って台所へ歩いて行く背中を見送る。実家につくなり母に「これ今日の夕飯のおかずだから」と押しつけられ、さっさと出て行けとばかりに追い出されたのである。
いわく、父の介護を手伝ってもらって以降、たびたび夕飯のおかずを交換したり作ってやったりもらったり、そういうつきあいを続けているのだそうだ。あんたが帰らなかったから、と怒ってみせる母の小言から逃げるように、隣家を訊ねたのだった。
思いの外綺麗に片付いた室内を眺めて、拍子抜けしたことを白状しよう。葬式の後の片付けとか、そういうのの手伝いで呼ばれたものとばかり思っていたのだ。
予想に反して座敷はきれいに整頓され、低いテーブルに座布団が二つ。そこに座らされてそわそわと揺れる膝を拳で押さえ込む。正面には、新品のテレビが居心地悪そうに戸棚の上を占領していた。
まだきつく残る線香のにおいは、僕や彼女が動くそばから散っては戻ってくる。
「ありがとうね」
「母さんに言って。僕はなにかすることある?」
「ないよ」
「ないんだ……」
そりゃあないだろうけども。
おかしそうに口元をゆがませて、ゆきは戻ってくるなり僕の正面に腰を下ろした。
「まあ、せっかくだからここ二三日の苦労話とか聞いてよ。ほんと疲れたわ~」
細い目がおよいで下を向く。
我慢するときの癖だった。
特段なにも言わずに目をそらして、二の句を待っていると、洟をすする音がきこえた。ゆきの声はか細く、その間に途切れ途切れの愚痴を吐く。僕はそちらを見ずに簡単な相づちをうつ。
昔からため込んでは人の見ないところで泣く少女であった。そんなとき、慰めようとして顔を見ると怒るから、自然僕はこうして彼女の弱音を聞くことが多かった。後に聞けば、そんなやりとりは僕以外の相手にしたことはないらしく──いまもって、それは変わらないようだった。
旦那には弱音を吐いたりしたんだろうけど。それを今聞くのはさすがに野暮ってものだ。
ゆきは、人の気を知ってか知らないが、ずっと机上で僕の手を握りしめていた。
ゆきが落ち着くと、すっかり冷めたお茶をいれなおしてテーブルに置いた。次は、僕が台所を借りた。まあ、勝手知ったる幼なじみの家である。いくらか改築のあとがあるが、おおよそ覚えているのと変わらない。
座敷に戻ると、ストーブに火が入っていた。
ゆきが赤い目元をぬぐっているのを眺めて、音を立てないように座った。
「しょうちゃんさ、私のことフッたよね」
「なにが?」
話題がとんだ。
目をぱちくりさせてそちらを見ると、思い出の中のそれよりいくぶん大人びた横顔を直視してしまう。
「いや、思い出して。ちょっとだけ。人恋しかったんかな」
「それはどうも」
僕がまだ独身であることは、知っているふうだった。
「遅くなったな。こっちの話は明日しようか」
「うん」
茶を飲み干して、やや重たい足を持ち上げる。
玄関の前で、僕はばつの悪い顔をやはり彼女からそらしたままで、「怖かったんだよ」とだけ言った。
* *
引っ越したのは、高校を出てすぐのことだ。大学は山を二つ越えてずいぶん開拓の進んだ都会で、心底嫌そうに見送ってくれたゆきの顔を今でも覚えている。それからずっと実家に帰らなかった。家族とのやりとりは電話で、現地の会社に入って、介護の手伝いをできないまでも父が倒れたと聞いてからは仕送りを増やした。
明確に、僕はゆきに別れを告げなかった。
幼なじみのゆきの話をしよう。
小さい頃の彼女はだいたい三つ編みをしていて、それを解くとふわふわと癖のついたウェーブになった。ゆきはどうやらそれを結構気に入っているようだった。
忘れられない事件がある。
その長い髪が扇風機に巻き込まれて、ゆきが髪を切ったことがあるのだ。小学三年にして初めて見たショートカットは衝撃であった。ただ、すごく快活な彼女の印象に合ってる、そう思った。
帰り道で泣くゆきを見るまでは。
衝撃だった。長い髪を気に入ってる、というのは、僕が思っているよりずっと重たいことだったのだ。学校ではちっともそんな素振りはなかったくせに、玄関の前についたとたん、声を上げて泣いた。そのときの狼狽は、たぶん、未だに消化しきれていないもののひとつだ。
隣家で同い年ときたら、家族ぐるみで仲が良く。ゆきと僕とは、幼なじみというより姉妹みたいにして育った。
しょっちゅう家を行き来して、お互いあんまり他人の家というかんじがしなかった。ゆきの両親は共働きで帰りも遅かったので、しょっちゅうゆきを泊めていた。
自分が泊まりに行くことも少なくなかったが、まあ、中学入学を期になんとなくやらなくなった。ゆきはなんだか細くて小さく──先方は僕が大きくなったんだとゆずらなかったけど──なった。
部活だ受験だと忙しくなる時期だ。それと、友情だ恋だと色気づく時期。
不意に、ゆきを抱きしめたくなることが増えた。
泣くのはいつも僕の前だったし、弱さを人前で見せない頑固なところが、その気持ちを後押しした。たぶん、彼女にとって自分が特別である、という状況がそうさせたのだろう。努力して、ときどき疲れてかんしゃくを起こす彼女を、支えたいではなく一足飛びに抱きしめたいと感じたのは。
帰り道で短く告白をすると、細い指が僕の手を握り返した。逆の手が、肩にたらした三つ編みを手持ちぶさたに持ち上げたり離したりしていた。
何度目かのデートのときだ。
ゆきはばっさりと髪を切って、見たこともない女の子らしい服装で家を出てきた。なにか言いたげに、あるいは聞きたげにしてつま先でアスファルトを叩いているので、「髪は」とだけ言った。
彼女は僕が驚いているらしいと判るとご満悦で、「切った」と笑った。
「しょうちゃん、一回短くしたときすごい似合うって褒めてたでしょ。どう、今も似合う?」
「もちろん」
慌ててかわいい、と付け足すと、めかし込んだ服装も台無しのにま~っと緩みきった笑顔を向けられた。
機嫌良く歩く彼女の手を握って、そこはかとない不安にかられたことを、今も鮮明に思い出す。
ああ。
そのときは、ゆきの外見があんまり自分の好みのど真ん中だったから、どきどきしているんだと思っていた。
「しょうちゃん」と呼ばれて顔を見るたびに、彼女の服装や立ち居振る舞い、薄く乗る化粧さえ僕の好みのものに変わっていく。
顕著だったのは、学校でちょっとすれ違うついでに手渡されるメモ。放課後どこにいこうとか、夕飯ごちそうになりますとか、そういうの。今までだってそんなことはよくあったのに、まるで別の──あこがれの女の子にされるみたいに、どぎまぎして手が震えるようになった。
あこがれの女の子ってなんだ?
僕は、ゆきにあこがれて、恋をして、恋人になったんじゃないか。
今更なに言ってんだろう、とその考えを振り払う。クラスメートの女子がゆきについてやたらかわいくなったのなんのと茶化してくるのを払いのけることに腐心していた。
あんまり目立つのを嫌って、毎日一緒に帰ったりはしなかったが、ゆきの委員会活動が長引くようなら、心配して待ってて、一緒に帰るなんてことは間々ある。付き合う前から。
「待っててくれた? ごめん」
「いいよ、おつかれ」
照れくささを仏頂面でごまかして手を引こうとした、耳にざっと雨のふる音が飛び込んだ。
外を見ると、薄く開いたガラス戸の向こうは土砂降りだった。ひやりと湿った空気が流れこんでくる。
「傘ある?」
「ない」
「だよね」
二人してがっくりと肩を落とす。見れば時刻は夕方五時、思ったよりまだ早い時間だ。
三十分待って通り過ぎた夕立のあとを、大股に歩く彼女の背中について歩いた。しばらくそうしていると、はたとこちらを振り返ったゆきは「しまった」という顔で足を止める。追いついた僕に並んで足を踏み出す。
「早足? 気にするなよ」
「え、やだ、横がいいじゃん」
「横がいいの?」
「横がいい」
馬鹿みたいにオウム返しを二三周したあとで、ふっと吹き出した。笑いながら、揺れるうなじを見てまた目をそらす。
いくらか歩調を早めた僕の隣を、ゆきは気づかず元に戻った大股の早足で歩いた。
最近よそよそしいな、と言い出したのは唯一僕らの関係を知ってる親友だった。
僕がゆきに、である。そんなつもりなかったんだけど。
それを言われ続けて、さすがにうるさいので根負けした末に「別人に見える」と白状したのが、それから一週間後のことだ。ちょうど期末テストの時期だったから、あんまりそんな話で時間を取られたくなかったのだ。
「あー、かわいくなったよねえゆき」
「うん」
自分でもびっくりするほど険のある声だった。
「何が問題なの?」
「いや、その。なんていうんだろうな……」
今のゆきはかわいい。
無遠慮に大股で歩くことも(あんまり)なくて。
快活な性格によく似合うショートカットで。
たまに冒険して短めのスカートをはいてくる。
デートのときの薄い化粧で、びっくりするほど美人になる。
まるで、僕の好みの、別の女の子にどきどきするように、どきどきする。
とりとめない会話の最後に、相手のいらえは端的なものだった。
「あんたの好みに合わせて努力してんのよそれは」
ゆきって努力家だもんね、と続く言葉を、そこから先はほとんど覚えていない。ショックだった。たぶん、小学校のとき髪のことで泣くゆきの姿を見たときと同じくらい。
ゆきは僕のことが好きなんだ。
恐ろしいことに、それに気づいたのはそのときだ。
ゆきは僕のことが好きで、恋をしたから服装を変えて髪型を変えて、化粧をするようになったのだ。
当たり前じゃないか、付き合ってるんだから。
いっそう恐ろしかったのはそのときから、ゆきが泣いても抱きしめたい、というあのせつない衝動にかられなくなっている自分に気がついたことだった。
* *
握られていた手を、じっと眺めていた。
左手。彼女は指輪をしていたが、僕はそんなもの当然つけてない。
十年ぶりに戻った自室はびっくりするほど昔と同じで、ともすれば窓の向こうの自室からゆきが話しかけてくるんじゃないかとすら思った。
さすがに、そんなことはないみたいだが。
フッたわけじゃない。
自分が殺した幼なじみの死体が怖かったのだ。
ゆきの死体が、別の、僕の好きな誰かになるのがたまらなく恐ろしかったのだ。
* *
「ありがとね、来てくれて」
二日間の滞在のあとで、すっかり自然体になって私は幼なじみの見送りにきていた。両手で包んでいた手が名残惜しかったけど、意を決して、離す。
しょうちゃんは、ふっと口元を緩めて微笑した。
「ううん、よかったよ元気になって」
その顔を、──笑顔の形に目をすがめて、私はその顔を直視しなかった。
学生のときとすっかり変わってしまったその姿を。
高い位置にくくっていた髪は肩の上で切りそろえられて、唇には濃い口紅が乗っている。私のしょうちゃんは、ずっと男勝りな立ち居振る舞いを崩さなかったけど、目の前の彼女は、すっかり女性の外見だ。
よ、っと軽いかけ声といっしょにキャリーを持ち上げて、じゃあね、というのに手を振りかえした。
駅に来るまでに交わした言葉は少なくて、結局、私が出したっきり、フられた時の話もしなかった。
電車が行ってしまうと、私はふらふらとホームのベンチに座って、線路を眺めた。
しょうちゃん──祥子。
「好きだ」と言われたとき、私は「男の子みたいだね」、と茶化したのだ。しょうちゃんは、足を止めて、うなずいた。
「おかしい?」
手を握り返したあのとき、私は、しょうちゃんを男の子にしたんだ、と。
なめらかな女性の手になったあの手を握って泣いてる間、ただただ後悔してやまなかった。
私が殺した女性の、ことだ。
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