墓標
遠くへ残してきたひとの話をしようか。
男勝りの口調が抜けない妻が、枕辺にそんな言葉をもらす。男が妬けてしまうなと笑ってやると、彼女はやんわりと口元をほころばせて、遠くを見る目でそれを見下ろした。
男が彼女を抱かずにいる理由は、ひとえに深い愛情ばかりではない。
「どうして逢ったひとだったのか、そういえば聞いていなかったな?」
少しずつ少しずつ。こうして聞いていこう。
出し尽くせばいつか自分を見てくれるであろう、彼女の頬へ手を伸ばす。相手も、それを拒むことはしなかった。
「最初は私よりもほんの少し年上で──高い草むらで迷子になったときのことだよ」
蟲の声のうるさい夕べであった。
***
いつもの通り、社の掃除を終えて人心地着いたヨミは、掃除道具を投げ出してほうっと息をついた。明るい時間に始めたのに、すでに日は傾きかけて空気は黄色く、こんな時間ではもう邑に戻っても誰も遊ぶ暇はないな。そんなことを考えて膝を抱え、唇をとがらせていた。
「こら。掃除の道具を投げ出すとは何事か」
「ひゃ!?」
だしぬけに聞こえた声に肩を跳ね上げ、振り返ると、自分とあまり変わらぬ年頃の子供が腰に手を当てて頬を膨らましているのだった。つややかな黒髪はもったいなくも肩の上で切りそろえられて、頭上に大きな獣の耳がある。それとおそろいの色合いで、どうやら腰元からは尾が生えている。
いつもの通り。その耳はぴんとまっすぐに立てられてこちらを見下ろしていた。見下ろすといっても、その顔は長い前髪で半分くらい隠れてしまっているのだが。
「な、なんだよう。いつもびっくりさせるみたいにでてくんなよな」
「びっくりするそなたがかわいらしいゆえな」
ころころ笑う口元をふくふくした手で覆って、それから、彼女はちょこんとヨミの傍らに腰を下ろした。年かさのばあさまみたいな口調のわりに、時折見える仕草は外見相応に幼く感じられる。
少女、ウキメはこの社に祀られる神……の、嫁さんみたいなもの、なのだそうだ。ヨミは、人柱とかそういう難しい話はまだわからない。ゆえに、それ以上の説明を彼女はしなかった。幼い外見に親しみをおぼえ、なついてくるヨミをウキメはたいそうかわいがっていた。
その小さな体で行うには、三日に一度の社の掃除も大仕事である。山の中腹にあるこの社まで上ってくる仕事も含めれば、なかなかの重労働である。赤くなった頬をひたひたと掌で触れながら、
「雨でもふらしてやろか。すこしは冷えて気持ちが良かろう」
などと笑う。
「んん……ヨミ、水のほうがいい」
ヨミが自分の名前で自分のことを言うたび、いつもウキメは一瞬動きを止めた。ヨミの知るところではなかったが。
「そうかえ」
ゆったりとした動作で立ち去るウキメを見送って、ヨミはあらためて、山の斜面に投げ出した脚をぱたつかせながら、眼下にひろがる邑の風景を見下ろす。
祖父の代に、一度この社は燃えたのだそうだ。だから、こうやって立て直されたばかりで綺麗なまま。掃除にくるたびにこうして水を貰って帰ってくるのが知られたら、大人たちは血相を変えて怒るに違いないが。
ヨミは、なんやかやと文句を言いながらも、ここへ来るのが嫌いではなかった。
帰り道に、ちょっと違う道を歩いてみようとしたのはちょっとした冒険心というやつだった。冬場と比べてまだ日も長く、真夏の日は照りつけるようで熱かった。日陰に入りたかった、という事情もある。
自分より背の高い草が生えた道が続いていて、まるで壁の中に入っていくようで興奮したのだった。かさりかさりと掻き分けていくうち、楽しくなって両手で草の壁を引っかき回しながら小走りに進む。後悔するのは、不意に渡っていく風の音が遠くに聞こえて脚を止めたとき。
ぽつり、とヨミはそこに立ち尽くしていた。
気がついた頃には、どこから入ってきたのかも、どこへ抜ければいいのかも判らない。一歩進むたびにかさり、と草の音に気を取られて立ち止まる。
「……と、とうさま……」
かあさま、とか細い声が続く。どこへ向かって投げかけたら声が届くものか、検討もつかない。畑に仕事しているはずの大人たちの声もさっぱり聞こえないのだ。ただ、さわさわと風になでつけられる草の音ばかり。
少し走っては不安になって立ち止まり、また走って立ち止まる。不気味なのは、今なお日は高く、少し背の低い草の間にはまぶしいほどに光が降り注いでいることだ。
いよいよくしゃりと顔をゆがめ、泣き声が喉をついて出てくる。
「うきめ……」
「なにをしておる」
呆れた様子でその腕をつかむものがあった。
ひん、と情けない声を出してそちらを振り向いたヨミに、ウキメはその風景に似つかわしく曇りのない笑みで頭を撫でた。十にもなろうというのに、自分より小柄な女の子に撫でられている様のなんと情けないことか。
「泣くでない。おのこであろ」
しゃくり上げる合間に聞いた言葉に違和感を覚え、顔を上げるとその屈託のない笑顔にとかされて反論は沈む。そのときになって、ああ、ウキメは自分のことを男だと思っているのだ、とヨミは思ったのだ。そういえば、祖父も同じ名前であった。
どうしてだか、それを訂正しようとは思えず、どうしてだか──
その笑顔をずっと見ていたくてしょうがない気持ちになったのだった。
ウキメは、よく祖父の〝ヨミ〟の話をした。最初は、ヨミがねだったのだった。
「おれのじいちゃんって、どういうひとだったの」
ほんの出来心だ。誰も教えてくれないから。ところが、ウキメは嬉々として〝ヨミ〟の話をした。頬を上気させ、初めて会ったとき背の高い草の中で迷子になって泣きべそをかいていたこと。ヨミがそれをどんな苦い気持ちで聞いたか、普段は聡く彼女の気持ちを汲むウキメがそれにも気づかずに。
時折ヨミの向こう側を見て、頬を上気させて、笑う。
長い前髪のむこうに、赤い目がまぶしげにすがめられるのを。ヨミは言いようのない心持ちで眺めては立ち尽くした。「じいちゃんの話」をしてもらいたがったことを心底悔やんでは、何がそんなに悔しいのかわからなくて寝床にうずくまっていた。
やんちゃな少年で、やることなすこと馬鹿みたいにまっすぐで。そのくせ責任感は強くて、いつも胸を張っていて。
ウキメの前に立つたびに、ヨミの肌の上に、彼女の言葉がぺたぺたと張り付いて〝ヨミ〟を形作る。
そこにいないひとを再構築する。
ヨミを少年にしていく。
「まあ、いいか」
母の部屋に置き去りの鏡に映る少年を見て、なかば呆れた様子で、ヨミは肩を落とす。
まあ、いいさ。大好きなウキメが、それでよろこんでくれるんだから。家族や周りのものだって、おれが自分をおれと呼ぶことに嫌な顔はしなかったし。戦いによって得た邑ゆえ、邑長の長子が見た目にもたくましく壮健であることは素直に喜ばれていたようだった。たぶん。それは後にして思えば、家族なりの祈りの綱だったのだ。
「おまえは、あのヨミのこどものころにそっくりじゃ」
と、伸ばされた手を反射的にたたき落とした。
ぽかんとした顔が見上げていた。ヨミは自分の行動に戸惑いつつ、それから、自分の手を見下ろした。一瞬、まるで見知らぬ人の手に見えて、振り払うようにその手を下ろす。
「どうした……」
「なんでもないよ」
一瞬わき上がった泥のような感情を服の上から抑えつけて、ヨミはきびすを返した。
雨季が近い。重たく湿った空気の中で溺れるようにあえぎながら、走る。夕暮れどきの道は飛ぶようにすぎて、大人たちのざわめきを横目に邑の中を突っ切る。祖父の墓の前にうずくまったころには、空はとろとろと橙の雲を溶かして紫に変わろうとしていた。
「か、」
すがるようにして立ち上がり、なお高く積まれた石の盤石さに愕然とする。苔の表面を削って爪を立てる。長く長く縦の五本線が引かれる。
「かえしてよ」
泣き声だった。震える声に振り落とされるように涙がぼたぼたと足下を濡らす。いつもの気取った低音のかげもなく。殴ったところでその廟は小揺るぎもしない。
じいちゃんの話なんかしてもらわなければよかった。
それっきり、ヨミを見て、ヨミのことを褒めて、ヨミに笑いかけてくれるウキメはいなくなってしまったのだった。
***
火のにおいは、近頃とみに近くにあった。周囲の邑からは同盟の要請があり、自分もいよいよここらの人間を率いて戦うはめになるのだという予感は、火のにおいとともにどこを歩いても寄り添うようになった。
夜半に庭先の人影を見て飛び起きたのは、そんな折りだ。ヨミは寝床のかたわらにおいた剣を手に体を起こした。相手には自分が起きたことなどわかっているだろうが。月に照らされて畑は穂を波のように揺らしていた。その手前に、ちょこんと、先の世に人柱にされたという娘の姿があった。
姉のように慕って──それ以外の感情が無いといえば嘘になるか。そんなものは神に嫁いだ彼女からすれば迷惑なものにちがいないけど。柄にもなく胸がざわつくのだった。
「やあ。どうした、ウキメ」
「ヨミ」
蟲の声にもかき消されそうな声で、遠慮がちにその名を呼び合う。あるいはこのとき、お互いになにかいけないことをしているような気持ちだったのかもしれない。
どことなく、いつもと比べてぎこちない動きで隣に立つ。風の音をさらさらと聞きながら、しばらくどちらも口を閉ざしていた。並ぶ影を見て、いっそ兄妹どころか父娘のようだとすら思った。どちらともなく。
話を切り出したのは、娘のほうであった。
「大和なる国は慈悲を知らぬ」
「らしいな。ま、そのための盟約だ、妹もどこに嫁ぐか今結構真剣に悩んでる」
「そなたの妹」震える声で、ウキメは続ける。「皇の息子がどこぞで見て、惚れたのだそうじゃ」
「そりゃ土地神様のお告げかい」
やや間をおいて、その首が縦に振れるのを眺めた。邑の長としてやるべきことはその時点で決まってしまうわけだ。感情的にはどうであれ。
「まあ、しょうがないな」と、妹も言うだろう。感情的にどうであれ、邑のものを傷つけずにすむ方法があるならばそれが一番に決まっているのだ。心底申し訳なさそうに肩を縮こめているウキメに背を向けた。寝直そうと屋内へ向かう袖を後ろから引かれて、立ち止まる。
「ヨミ」
か細い声が何を求めているのか、ヨミはよく知っていた。
ゆったりとした動作で、少年はその娘へと振り返った。袖をつかんだ指を一本一本丁寧に剥がして、頬を包むように両手で撫で、膝をついて視線を合わせる。ゆったりとそのつややかな、長い黒髪に指を通し。蟲も風も音を止めた一瞬、
「姉さん」
穏やかな声でひとつ呼び、ヨミは体を離した。
妹が嫁ぐのを条件に和睦が成った翌日に、少年は燃やされる社の前に立ち尽くしていた。
やるべきことはその時点で決まってしまっていた。どの邑へ妹をやるか、どの邑と盟約を結ぶか。
幸いにして、彼は妹とよく似ていた。
***
祖父が成したことはふたつある。
ひとつは、そのとき求められた妹になりかわって皇の息子を殺し、周囲の邑ともどもこの邑を独立させたこと。
ひとつは、妹を周辺で最も力ある邑に嫁がせてその家と代々の姻戚関係を築いたこと。
遠い幼友達から、すでに使者を寄越されていた。
十四の歳を迎えたヨミは愕然と鏡に映る自分を見ていた。同じ年頃の少年に比べて細くしなやかな手足と、華奢な肩の線とを。朝の冴え冴えとした空気の中なのに、汗と震えが止まらなかった。
それでも、社を維持管理するのは彼女のつとめだ。
ふらつく脚でいつものように社へ向かう。ついたときには誰もいないのが常であった。あんなに広かった社も自分なりに要領をつかんでしまえばそう時間をかけずに掃除も終わらせてしまえる。こんなことに、一日もかけていた時期があるのだ、と不意になつかしさをおぼえた。
「雨がふるぞ」
背中からの言葉に応じるよりも早く、ざっと前方から走ってくる雨粒をみてきびすを返した。飛び込むように社の木戸の中へ入ったヨミを見て、奥からくすくす笑い声を漏らす。少し濡れてしまったヨミは、むっと頬を膨らませてそちらへ目をやった。
何をいうでもなく、その場にあぐらをかいたまま、雨の音に耳を傾ける。その肩口に寄り添う感触から、やや身を引くようにして。半端に開いたままの戸口から細く入ってくる光以外に明かりもない。上気したお互いの顔をはっきりと映すものも。
じっと、息を詰めるように、寄り添ってくる小さな肩を片腕で触れる。ヨミの膝を柔らかな手の甲が撫でて、やんわりと腿を上る。布越しにさらりと薄い腹をかすめ、胸にすがるように、着物をつかんでしなだれかかる。息をのんだ娘の口を、ウキメの唇がふさいだ。勢い倒されるまま、ヨミの背中で床が軋む。間の空気さえむさぼるように、時折離れてはまた重なる。髪を撫でるようにかき抱く手がヨミの頭の中をのったりとかき混ぜていく。
はだけたところから湿った冷たい空気に撫でられた。水の跳ねる音を聞きながら首元に熱く唇が触れる。胸元にすがっていた手が床に降りて、ずしりと胴体一面にウキメの体温がはりついた。間の衣擦れすらもどかしいような動きで、その手がヨミの腰を摩り、下肢へのび──
ぎくりと、指を強ばらせた。
慌てて体を起こそうとしたウキメの頭をやんわりと抱き寄せて、ヨミはしばらく真っ暗な天井を見つめた。
「知ってたな?」
静かな問いかけのあとで拘束を解くと、ゆったりと体を起こしてウキメが逃げるにまかせる。着物の乱れを整えて、浅く息をつくと、ヨミは土砂降りの中へ出て行った。
***
「私のじいさんは、こうやって敵の頭に懐剣を突き立てたそうだよ」
「寝物語にする話かよ」
枕辺にあぐらをかいた妻を見上げて溜息する。男は、遠い幼友達だったころから彼女を好きだったが、どうやら未だ彼女の心は別のところにあるらしい。
願わくば、死ぬまでに一度くらいはその肌に触れることを許されたいものだが。
あの日土砂降りの雨の中で再会した少女は、未だ肩を並べる戦友のまま。その薄い胸の内側に、まだ堅く閉ざして、何かを守り続けている。
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