モザイク


 恋人は絵が好きだった。
 趣味はお世辞にも良いといえず、狭い部屋にはいつもグロテスクで不気味な、暗い色合いの絵が所狭しと並べられていた。並べている。今も。
 私にはとても理解できない、何度かそう言っては「いいよ」と静かに微笑み返される。そんなことがあった。その趣味を否定しない、という選択に、相手は満足しているようだった。新しい絵を買ってはそれを私に見せて、釈然としない顔をするさまを見て面白がる。そういう人だった。
 否定はすまいと決めていたが、購入を控えないのならもう少し広い家に引っ越すべきだった。一度そう苦言を呈すと、さすがにちょっと苦笑いして、「ごめん」と言われた。それから、次の引っ越しの目標を決めて、仕事を探すことにしたのだった。
 ラジオがバカみたいに同じニュースをたれながしている。録音だからあたりまえだ。録音してまでこんなものを繰り返し聞いていてもしょうがない、わかってはいるけども。
 腰掛けたベッドは冷たく湿っている。スプリングは私のお尻の下で、一人分の重量を軽々と押し返して得意顔だ。暗い室内に、所狭しとかけられた絵の一枚一枚が私のことを見ているような気がする。今にも動き出しそうな生々しい絵。グロテスクで暗い色合い、それが壁も天井も一面を覆って――私がそうしたのだ――ふさがった窓の部分から糸みたいに光が射しているのを見て、どうやら昼間だとさとる。
 億劫だ。億劫だが買い出しに行かなくては。
 私にはとても理解できないが、あの人の好きだったものなのだ。

   ****

「ファンなんです」
 不意に声をかけてきたのは、長身の男だと思った。しかし、画家が目をあげてみれば、相手は男というには線が細いようにも見える。
「ファン、ですか」
 こんな暗い絵である。興味を持つ人からして少なくて、画家は道行く人の中でも絵を眺めて行く人の顔はだいたいおぼえていた。声をかけてきた自称ファンも、例にもれず知った顔だった。例にもれず、顔しか知らない誰かであった。
 興味を持ち、ときにしげしげと眺めていても、声をかけてくる手合など一握りにも満たない。
 ましてやファンだなんて。
 照れくさくて、一言「ありがとうございます」と返すのが精一杯だ。
 相手はそんな機微を知ってか知らずか、マスクの隙間から分厚い雲を吐き出して、マフラーを引き上げる。寒さで真っ赤になった頬を隠すように。
「絵をいただけますか。それと、それと……それも」
 指さす先を見て、画家はかすかに肩を緊張させ、それからすっと力を抜いた。二枚は同じシリーズのものだ。少し前まで、このシリーズを好んで買っていく上客がいたが、近頃めっきり顔を合わせない。ふいに、そのことを思い出したのだった。
 長身の客は、黙り込んだ画家を見つめて、首を傾げた。
「どうしたんですか?」
「あ、ああ。いいえ。その三枚ですね」
 画家は手早くそれを代金と引き換えて、去っていく後ろ姿をじっと眺め続けた。
 あの人は、また来てくれるだろうか。

   ****

「絵をいただけますか」
 いつものように、そこに立つ。
 画家は、心底から嬉しそうな目でこちらを見る。待ちに待った親友の来訪、そんなかんじだった。無邪気にもみえるその笑顔を見るたび、心底走る怖気を押し込めた。まだ出すべきではないものだから。
 並んだ絵を注意深く眺めて、今日は一枚だけ買うことにした。
 その画家の絵を買うときは、必ずそうしてひとつづきの連作を買っていくことにしていた。それを連作だとは知らないそぶりで。事実、それはきっと他の絵にまぎれて、他の人からはなにかのシリーズだなんてわからないだろう。だが、こうして相手はこちらの顔を覚える。
 たった一つ見つけた手がかりだ、絶対に逃すものか。同僚たちの心配もよそに、集めたモザイク画が一つの絵になるときがこちらから――あるいは相手から行動をしかけるタイミングだ。

   ****

 画家は、案の定数回目で声をかけてきた。アトリエに入ってみないか、というのだった。
 二つ返事でそこへ向かい、茶を出される前に刺した。背中を刺し、崩れ落ちて頭を庇う腕をめちゃくちゃに刺し、腹を踏んづけて顔を刺し、声を上げる口を刺し、まだうるさいので喉を刺し、逃げようとする足を刺し、とにかくいろいろたくさん刺した。どこを刺さなかったのか覚えてないくらい。
 それから、絵の資料にしてあったであろう写真をすべて回収して上着のポケットに押し込んだ。だめだだめだめだめだめ。これは全部こんなとこにあっていいものじゃない。あの人はこいつのものではない。あの人を描いた絵も全部。
 夕方だというのになんだか騒がしい通りを抜ける。やたらと人がぶつかってきてうっとうしい。絡まる人垣をくぐり抜けて、大股に家を目指した。あの人の集めていた絵と、あの人のいる家に。
 
 私は絵を抱いたままベッドに飛び込んだ。電話がなり続けている。これもいつから無視してるんだろう。それでも出る気にはならない。訪ねてもこない人間の言葉にどれだけの慰みを得られるだろう。そんなことじゃない。悲しみは憎しみでしか贖えない。私がそう決めたのだから。
 鉄とカビのにおい。かさかさした肌触りのシーツを手探りに引き寄せ、中身ごと抱きしめる。仕事から帰ったら、ベッドの上で恋人はなんかすごいことになっていた。今でも鮮明に思い出せる。その様子によく似た色合い、よく似た構図のモザイク画を売っている絵描きを見たときの衝撃も。
 頭が痛くなるような電話のコールと、ドアを叩く音をBGMに、疲れ切っていた私は案外すんなりと眠ってしまった。

   ****

 絵に否定的な反応を示す恋人の反応をかわいい、なんてのんきに思っていた。もちろん、人の趣味を否定するような人じゃないのだが。聞かれないから、というと怒るだろうか、自分の恋人が隠し事してるなんて。謝らなきゃいけないな。これが一段落したら、優しい色合いの明るい絵とか買って。
 この捜査が終わったら。
 絵が好きだ。
 絵が好きだからこそ、この事件は自分が解決したいのだ。せっかく昇進ついでに捜査権限ももらえたことだし。自分でこさえた死体を満足いくまで描き続けている画家なんてとても放っておけない。家へ招き、同僚の到着を待って取り押さえる。今日はそんな手はずだ。
 うまくいく。そしたら、ちゃんとした絵を飾れる、もう少し広い部屋を借りて、それから