小春節


 一週間がかりの仕事から帰ってみると、いつも使う車に家の中、新品ってほどではないが妙に明るい色になっている気がして、不思議な気持ちで足を止めた。おかえりなさい、と走ってくる妻を玄関で抱き留めて、ベルはふたたび家の中を見回す。
 天井と壁の色は出ていく前に比べてやはりワントーンほど明るく見える。
「何かあったっけ? 今日」
 自分としたことが、もしかしてなにか大事な催しを仕事で忘れていたんじゃなかろうか。ふいにそんな思いが頭をよぎり、柄にもなく心臓が早鐘をうつ。ミサはそんな夫をきょとと見上げて、それからくすくす笑って離れた。
「ちがうの、ほら、年が変わったでしょう。心機一転、大掃除をしたのです」
「一人で?」
「そ。一人で。天井まで。すごいでしょ」
 胸を張る妻がそれはもうかわいいやら愛しいやら、今すぐにでも抱きしめて寝室に直行したいところを押しとどまって、彼は「すごいね」と笑い返した。
「言ってくれれば、俺も手伝ったのに」
「忙しいでしょ、また仕事仲間が捕まっちゃって」
 後半には多少棘があった。なだめる意味合いで肩に手を置くと、それっきり黙って踵を返す。管理会社の目を盗んで武器を横流ししていた同僚がこの度めでたく国軍に捕まって、ベルは彼の穴を埋める一週間の連勤を課されたのであった。その二日前には帰れると連絡を入れてぬか喜びさせたのだから、ミサの対応は優しいほう。
 お詫びに買ってきたカップケーキの紙袋を後ろ手に持ったまま、ほっと息をつく。出すタイミングを逸したそれをそっと、綺麗に拭かれたテーブルに乗せてダイニングを眺める。出しっぱなしの脚立を見つけて頬をゆるめ、コーヒーメーカーの相手をしているミサに見つからないよう壁際にもどす。もしかしたら、まだ掃除の途中だったのかもしれない。テーブルの上には、よく見れば作りかけの切り絵みたいなものが乗っている。
「猪?」
 取り上げると、キッチンカウンターの向こうから「窓か壁に貼れないかなと思って」と声を弾ませてミサが笑う。
「窓に? かわいいだろうね」
「でしょ?」
「けどかわいすぎて冷やかされそうだ。壁がいいな」
「えー。じゃあ窓!」
 いうと思った、と肩を落とすベルの前にコーヒーカップを置いて、隣に座ったミサの身体がソファの上にはねる。夫の体重だけ沈んだ座面に従って、腕に寄り掛かる。
「遅くなったけど、俺が手伝うことある?」
「もうありません!」
「じゃ、休みの間は俺が家事をしようか」
「外食がいい」
「毎日?」
「毎日デートしたい」
「今からしようか」
 目を丸くして見上げるミサの髪を撫で、頬を覆うように撫でて肩を押し、ソファの上に倒す。されるがままにしていた彼女の手が、そのだんになってやんわりベルの胸に置かれた。
「会社にシャワールームってあった?」
「……ない」
 心底連勤を恨むのはこういう瞬間であった。

   ***

 ベルが目を開けると、なにやらがさごそとバギーの中で音がする。廃ガレージの中だから、ユゥには好きにさせて仮眠をとっていたが、とっさに銃を取る癖は抜けない。身体を起こすと、別にミュータントもゾンビも侵入してはいない様子。ただ、ユゥだけが後部タイヤのあたりに屈みこんで熱心になにかしているのが見えた。
 黙って様子を見ていると、ホイールを磨き終えたぼろきれを持ったまま、大げさにため息をつく。まさしく一仕事終えたといった風情だ。ベルが起きて覗き込んでいるのに気が付くと、満面の笑みで「おはようパパ!」とその首に飛びついた。
 背中に腕を回して座席の上に抱き上げ、くすんでいた車両がいつもより明瞭に光を反射することに気づく。指さすと、娘はちょっと胸を張ってみせた。
「おおそうじしたの! 前はわたしのお部屋だったけど、いまはこの車だけだから、ちょっとがんばったらピカピカになると思ったの!」
 言った通り、バギーは隅から隅まですっかり磨かれて、新品と言わぬまでも買った当初の風情を取り戻したようだ。銃器の手入れまでされているのだから大したもの。二三日前に銃の手入れを教えろと迫ってきたのはこういうわけであった。
 おおよそ世間の父親がするように微笑んで頭をなでてやると、彼女はすっかり満足した様子でベルの膝の上で舟をこぎ始めた。
 どこかで見た景色をまるで他人事に眺める。すやすやと寝息を立てはじめたユゥを毛布で包んで座席に寝かせ、ガレージの外へ出る。ちらつく雪の向こうにうすぼんやりとゆらめく日の光を見て、目をすがめる。
 あの男は天体からおおよその方角や時刻、季節を読む方法をしっかりと彼の娘に教えていたらしい。
 今も昔も、ベルは季節になどてんで興味がなく。
 おそらくそれは後悔すべきことであったろう。心動かぬ死者でなければ。いまなおひそかに――
 こんな朝には、崩れ落ちて動かなくなってしまいたくなるのだった。