まだしられない

永い後日談のネクロニカ/Bremen4


 末の妹がパーティー会場を抜け出すのを見たのは夜もふけ宴もたけなわというころであった。見ればパーティー会場にひしめいていた人の数もだいぶ減っている。会話に夢中だと案外気がつかないものだ。
 食卓はデザートまでほとんど食べ尽くされていて、食事を作り、あるいは持ち寄ったであろう面々は食器を引きながら満足げにしている。新市長、ゾンビさんはといえば、ホストの席ですでに寝こけているのだからしまらない。そういうところが親近感を抱かせて、あるいは好ましい素質ではあるのかもしれない。

「……遅いな」
「どうしました?」
 コーベルのつぶやきに、ソフィアがちらと視線をやる。
「いや、メイが出て行くのが見えたんだけど、あれから三十分くらい戻ってきてないんだよ」
「ム、いけませんね。メイさんはおひとりで?」
「ああ。ちょっと探しに行ってくる」
「私も行きましょうか」
「ま、大したことじゃないさ。あんまり見つからなければまた戻ってくるよ」
 いつもの通りひょうひょうとした受け答えに、狼の少女は少し間をあけて、うなずいた。ここで危険ということもそうあるまい。それに……。
 自分で考えておいてなんだ、頬に赤みが差すのも今ならば酒のせいですまされよう。ぐっと手元の杯をあおり。
「少し、独占しすぎましたしね」
 などと、新妻には聞こえないような声でひっそりとつぶやくのだった。

 建物の中にはいないと見て外へ出ると、夜風がするりと肋骨の隙間を走り抜けていった。それともうひとつ。
 真冬のぴんと張りつめた空気をふるわす音の波。
 分厚い雲の裂け目から月がさえざえと映す、建造中の建物の骨組みが針細工のように空へ影絵を作っていた。
 その間を走りぬけるように、落ち着きのない鈴を転がすような声、そちらへ向けて足をはこぶ。
 建造中の区域からすこし入り組んだ路地をぬけ、建材置き場の角を抜けて仕事中のリフトバイスとすれ違い、まばらな街灯の下を抜ける。夜の散歩としゃれ込んだ先に短いトンネルがあった。声はその中で響いて、コーベルのあしもとまで転がり落ちてくる。
 まだ幾分調子外れだが、ずいぶんと緩急の付け方が上手になった。なにせ旅のはじめの頃は、あの声をしてレイダーたちのバイクを転がしていたのだ。
 その旋律には聞き覚えがあった。
 メイにいわく「まだしらないうた」。あの歌だ。海とともにやってきて、カナリとアルエットが歌ったあの歌。よく聴けば、あの旋律だった。
 彼が名前を呼ぶよりも、相手が気づいて歌うのをやめるほうが幾分早い。
「あ」
「あっ……ああー!」
「あ、ちょっと、メイ!」
 メイはといえば。下からかーっと赤くなったかと思うと身を翻した。手首を間一髪つかんで引き留めたコーベルを見上げてなんとも珍しい笑いかたをしている。照れかくしというか照れているというか。
「き、きいてー、ましたか」
「そりゃもうばっちりと」
「れんしゅうちゅう、だったのにー」
「あ、それはうん、ごめん」
 むっと唇をとがらせている末の妹、彼の困り顔を見上げるとふっと短く息をつく。
「コーベルさんならー、しょーがないです」
「なんだいそれ」
 笑い混じりに、どうやら許してくれたらしいとわかるとコーベルはほっと肩を落とした。
「メイが一人で出て行くからじゃないか。長いこと戻ってこないし」
「そ、そんなにー、じかん、たってましたか」
 そろそろ一時間ばかりになる、と言えば先とは一変して肩を落とす様子がおかしい。ごめんなさいー、と下を向くと、大きなリボンで顔がすっかり隠れてしまう。
 狭いトンネルの中。
 見回したコーベルの口から不意に「なつかしいな」という言葉が転がり出る。
「さいしょに起きたときがー、こういうせまーい、ところでしたねえ」
「もしかして、それでここにいたのかい」
「えへへ、それはー、ぐうぜんですよ」
 しんと静寂が降りる。
 遠くから近くから響く機械の駆動音。その合間になにか言いさして、じっとメイの丸い目がコーベルを見上げた。
 何かを待つ、あるいは言いたいことをまとめる間、いつも相手をこうしてじっと見ているのが常であった。彼は気づくだろうか、、おそらく気づかないというのが、今までの経験からくる判断であった。
「わたしはー、コーベルさんの、いもうとでしょうか」
 オーバーオールを掴んだ手をゆっくりと剥がして、少年のほっそりした手が握りなおす。
「もちろん。ほら、戻ろう。そろそろみんな心配する」
 笑いかえしたコーベルの顔を見上げて苦笑し、メイはその手をにぎりかえした。たまらない。きっと通じないから言いたいことを引っ込めてしまうこの性分が、今はあまりにも、あまりにも。 「たたかいが、おわったのでー、となりをあるけますね!」
「ああ。背中側じゃ、メイの顔みえないもんね」
 つないだ手を大げさに振り回しながら歩く。
 今日見たことはひみつですよ、と真剣な顔で言い含めるメイに心なしうれしそうな笑みが応える。
 今はまだ満足していよう。
 前へ延びる影を眺めて、彼女は自分の胸に言い含める。
 今はまだ。