雨のクオリア
インセイン/Halo,wORld
夢を見る。降り止まない雨の夢。
ただ雨の音を聞きながら、夕暮れの薄暗い室内で彼女と会話をする夢。
夜が追い上げてくる。垂れ込めた雲の隙間を縫って空を群青に染める。しとど降る雨が薄い白で上塗りする。
窓の外の景色に時折視線を投げかけながら。
ただ、その薄暗い室内で静かに彼女の頭を抱きしめていた。まるで年下の少女みたいにふるえる背中を、なだめるようになでながら。
雨の音を聞いていた。
久々の雨であった。
窓を伝う水滴にゆがむ景色は、いつも見る町をほんの少し不気味に見せる。IHPへいくのには車で十五分もかからないはずだが、今日に限ってはやたらと混雑している。隣でカエデが舌打ちして、短くクラクションをならした。
いつもは高い位置でひとまとめにしている緑の髪は、今日は背中にむかって流されている。服装もそれに合わせて、いつもよりずっとおとなしい。なんでも姉と久々に食事をするということで。
双子のように似ている、というのは、彼女にとって決してほめ言葉にはならないらしい。
かたや、ロイドはIHPでの定期カウンセリングである。ヨウコのほうでも事情は承知しているようで、カエデにいわく「また妹が恥ずかしいことしてねえか気になるんだろうよ」ということだった。いつもより少し入り口に近いところで、車が止まる。
「じゃ、いい子にしてろよ」
「はい。お気をつけて」
どっちが見送りだか、と笑って、カエデの手が助手席を降りるロイドの頭をなでた。
* *
雨のおかげで、カフェの席はがらがらだった。四人用の席に向かい合って、ヨウコは近況を語る。会社の経営について話す顔がどこか遠慮がちに見えるのは、ロイドの事情を知ったためだろうか。
退屈な時間だ。
姉なりに妹の身を慮っているのだとわかってはいても、この手の長話にはうんざりする。
そんな妹の顔に気づいてか、ヨウコは首をかしげて困り笑いする。
「気にしすぎってわかってるわ。カエデはIHPの職員だったんだから非合法に製造されたヒューマノイドへの正しい接し方やほかの対処法だって、私たちなんかよりよほど心得てる。でも、うちの会社にもそういうのとても気にする人がいて」
つまらない。
さすがに手を振って話を遮り、カエデはどっかと背もたれのほうへ体重を移動させる。
「わかってるよ姉さん、ロイドはロイドだし、いまさらスギサキの代わりになんかしない」
「けど……」
「『一度それをやろうとした前科があるから』?
アタシは気楽なもんだが、こういう事情の身内を持つと社長は大変だよな」
いやな顔をしているのだろうな。ヨウコの唇がきゅっと一文字に引き結ばれるのを他人事に眺める。雰囲気も顔も服の好みも全く同じだが、彼女のように濃い色の口紅はここ数年ずっとつけていない。
服装もヨウコと会うときは必ず彼女の選ばないものを選ぶし、なんなら髪だって切ってしまおうか未だに悩んでいる。といっても、スギサキの存在しない今、そんなことをしたところで誰の気を引くわけでもない。
会話がとぎれている間に、手元のコーヒーはからになってしまった。なにも無いようなら帰るよ、と鞄を取りあげるカエデに向かって、ヨウコはあわてた様子で身を乗り出した。
「今はどうしてるの?」
「IHPの施設でカウンセリング中。正しい扱い方は心得てるからね」
「そう」
なんだかほっとした、とばかりに笑み。
いくばくもせず、ぱっ、と、その笑みがまったく意味居合いの違う明るいものになった。
「ふふ、辛気くさいのはここでうちやめにしましょ。新刊読んだのよ」
「はあ!?」
「ほんとカエデったら、調子の善し悪しすぐ作風に出るんだから――」
「ま、待て待て待て、待っ!」
一転身を乗り出したカエデの肩を押し返しながらにやにや顔のヨウコ、まだ残っていたらしいコーヒーをすすりながら「ここ外よ」と顔の前で人差し指をたてて見せる。
いやとかでもとか頭を抱える妹を眺めながら楽しそうについ先月出したばかりの小説の感想を述べる。顔を覆う指の間からヨウコの顔をちらとのぞいて、カエデは人知れずほっと息をつく。
彼女のこんな笑顔を見るのも久方ぶりだ。
スギサキのしたことに胸を痛めてふさぎ込んでいた姉、同様にどこに持って行きようもない鬱屈した気分を晴らすために小説を書き始めた妹、一緒に出かけようなんて言い出すようになったのはロイドが来てからだ。悪いことばかりではなかった。
七年にわたってよどんでいた時間が、ゆるやかに流れはじめているのを感じる。
先方もおそらく同じことを考えているのだろうけど。
とにもかくにも今はその年下男子に振り回される独身女性のドタバタ系ラブコメについて語るのを是非ともやめていただきたい、娘が喜んで読んでるなんて情報はいらない。カエデは熱の引かない頬を押さえてテーブルに突っ伏したまま切実にそう思った。
* *
開放的な窓からは町の様子が一望できる。景観を大事にしているためこの地区で五階建てをこえる高いビルはここ、IHP本社をのぞくと数件しかない。
暖色系で統一されたその部屋には円柱を半ばからガラス張りの水槽に代えたものがいくつか、壁際には観葉植物の鉢がある。ソファや棚、テーブルの上にはだいたい大きなぬいぐるみがでんと座っていて、カウンセリング室というよりリラクゼーションルームに近い印象。
カウンセリングといっても、あてがわれた職員と他愛もない会話をしたり、家庭教師とするような勉強をしてみたりと内容は雑多だ。見覚えがあるようでない、建物の中。ロイドが壁をじっと眺めているのに気がつくと、正面で世間話に興じていたミナカイもそちらに目を向けた。
視線の先には熱帯魚の泳ぐ水槽、その向こうにはつたないクレヨン画が貼られている。
「あれかい? あれは近頃保護した子が描いたんだよ、どうだ大したもんだろ」
「あれって、どんな人が描いたんです?」
「ああ。そうだなあ――、お前とちょっと違うかもだが、やっぱ彼女も愛玩用ヒューマノイドとして非合法に造られたんだ。まだ七つだ」
「そんなに小さな子が?」
「ロイド君だって似たようなモンだろう」
苦笑する。それから、ぽんと手を打ち合わせ職員を呼び止める。短いやりとりの後カウンセリング室から出て行った彼が、小さな女の子を連れてくるのにそう長い時間はかからなかった。
「やあイーファ。今までなにをしてたんだい」
「おえかき」
「そう。ちょうどよかった。こっちのお兄ちゃんがイーファの絵をほめてたんだよ」
「えっ」
「あっ」
突然話題をふられてたじろぐロイドのほうへ、少女の顔が向いた。目と会わせたように真っ黒の髪が、肩の上で揺れる。
「その、壁に飾ってあったから」
そういえば自分より幼い子供を相手に話をしたりしたことはなかった。彼女はロイドの言葉に目を輝かせ、壁の絵とミナカイ局長を見比べて満足げに笑った。
「誰を描いたの?」
どうやら会話を続けることを期待しているらしい、ミナカイのほうをちらと見てから、ロイドはイーファに椅子を引いてやる。細い手を背もたれにひっかけてそれによじ登った彼女はにこにこしながら「おじいちゃん」と答えた。
改めて絵を見る。
言われてみれば笑顔の老人に見えるかもしれない。一面の青色を背景に、楽しそうに笑っているイーファと老人。
彼女のおじいちゃんは優しい人で、週末にはよく一緒におでかけをしているとか、寝る前に必ず一緒に本を読むので読み書きができる。そういうことを自慢げに語った。迎えにきた老人に手を引かれて彼女が出て行った後で、ようやくミナカイが口を開いた。
「あの子を迎えにきたおじいちゃん、コノエさんっていうんだが、奥さんを亡くした男やもめなんだ」
「はあ」
「イーファだけど、彼女はレンファという女の子が素体になっている。不治の病を患っていた彼女は近く死んでしまうはずだった。両親は幼い娘を失いたくないがために、未来オリエンタルヒューマンテクノロジーの下請けをやっていた会社に依頼をした。内容はわかるね?」
「娘の記憶と人格もろもろをコピーして娘そっくりのヒューマノイドを造ってほしい、でしょうか」
「その通り。どうなったと思う?」
少年は眉をひそめる。自分が目を覚まして数日間のカエデの様子を無意識に思い出していた。局長にいわく。
結果は悲惨なものであった。
記憶も人格も娘そのもの、健康体のはずなのにどうしてだかわずかな「ずれ」を感じる。そしてそれは日に日に大きくなり彼女を「レンファ」とは違う別の人間に変えていく。当然のことだ、ヒューマノイドはクローンを造る技術ではない。ヒューマノイドとしての自我に素体の人格を乗せることでより「人間らしい」ヒューマノイドを製造することはできる。それは、素体本人にはなりえない。
そのことに留意していなかった両親は、イーファを虐待した。
暴力にくわえお前が娘を殺したのだという人格および自我の否定、見かねた近所の人間が通報し、ことがIHPの管轄であると判明した。
それで、今はふさわしい保護者のもとカウンセリングを受けつつ平和に暮らしているのだという。
「そして、彼女は自分の意志で大好きなおじいちゃんの絵をああやって描くまでになったのさ」
「それが、その」
「いやいや。ただの世間話だよ」
言いながら手元の端末をいじくって、出した画面をロイドのほうへ向ける。
いわく「聲なき声を聴け」。
巷にいまだ流通する非合法ヒューマノイドはもともと一人の人間であり、彼の意志を無にしてはいけない。遺族のもとで元のように生活し、「もとの自分」を取り戻す手助けこそが彼らには必要である、という旨をつらつらと書きつづった記事。
「よけいなお世話ですね」
「こういう連中から彼女みたいな子を守るのも今後の課題になってくんのかなーって話よ」
「それをどうして僕に?」
「お前は賢いからね。ま、ほかのヒューマノイドもそうだけど、自衛できそうな手合いには順次こういうのあるよって伝えてんのさ。
カエデも近々またIHPの仕事復帰してくれる気になってるようだしね」
「ああ、そういう……どうも」
「いいえ。面倒な奴の相手もまじめにしなきゃいけないから生きづらいよねえ社会って」
* *
意識してみれば。
IHPの活動、未来オリエンタルヒューマンテクノロジー社の事件から社会問題の一部として一般に広く認識された非合法ヒューマノイドについての問題提起やそれについての冊子、SNSのグループは多く目についた。そら恐ろしいのは、それらが意識して見なければ問題にならないほど日常に浸透しているという事実だ。ロイドがそうした話題に興味を持つことにカエデは良い顔をしないが、それは彼女のほうでも同じような問題について調べているからであろう。近頃は執筆作業の合間にミナカイ局長と電話している姿もよく見る。
コノエ家の話は前ふりの意味もあったようで、近頃はよくカエデと二人でイーファの家を訪ねるようになった。カエデにいわく「復帰するって言ったそばからミナカイのおっさん仕事よこしやがったんだよ。ちったぁ遠慮しろってんだよな」である。
要するにボディガードだ。コノエ氏は年金暮らしの老人で、身を守るすべをなんら持っていない。そういうわけで個人的な付き合いの体を取って周囲に目を光らせておけ、ということだった。
もとが非合法のヒューマノイドといえ、今は一個人として生きる人間であるということを一般に受け入れさせるのはそんなに難しいことだろうか。とはいえ現実問題として、彼らには人権というものが存在しない。
コノエ氏の庇護下で健やかに暮らしているイーファにしても、カエデに恋人の扱いを受けているロイドにしても。
「お兄ちゃん、どうしたの」
イーファの声で我にかえる。ロイドが見下ろすと首を傾げている彼女と目が合った。
「なんでもないよ」
「おでこにしわがよってたよ、ぎゅーって」
「そう? 気をつけなきゃ」
苦笑したところに、チャイムの音。ロイドが立つより早くイーファが跳ね起きて玄関へ走る。飛びつくようにノブを回してコノエ氏を迎え入れる。ちょうど、ロイドのポケットで端末がふるえた。
「おじいちゃん!」
「お帰りなさい。なにか淹れましょうか」
買い物の荷物を受け取りながらコノエ氏の肩口に視線をやり、目をすがめる。
「カエデさんはご一緒では?」
「ああ、うん、忘れ物を取りに戻るってさっきそこの角で降ろしてくれたんだよ」
バッグを受け取ると老人の背を支えて室内へ招き入れ、その向こうに続く石畳、門柱の向こうを注視しつつ、
「そうでしたか」
ゆっくりと戸を閉めた。
とちったな、という独語は幸いにして誰も届かなかったようだ。
薄暗い室内であった。ありがちもありがち、芸のないやつらだ、というのが第一の感想だ。
コノエ氏を車から降ろしてロイドの携帯端末にショートメールを送信、Uターンのち急発進。広い道だからできたことである。そのままゆっくり後をついてきた車に正面衝突をかます直前に運転席から飛び出したが相手側はこちらの見積もりよりいささか人数が多かった。
おかげさまで少しはひるむかと思ったカエデの思惑は見事に空振り、後部座席から飛び出してきた二人をのしている間に助手席から麻酔銃の類で撃たれたとみえる。右肩を中心にまだ感覚が戻らないが、まあ殺されなかっただけましともいう。ものは考えようだ。
義足ははずそうと苦戦した跡がみえるが、結局あきらめてワイヤーロープでぐるぐる巻きに縛り付けてあった。馬鹿め、日常生活のほか趣味で戦闘にも耐えるようになっている特殊義肢がそう簡単にはずせてたまるものか。
見回せば周囲には高々とコンテナが積まれ、その向こうに人の気配がある。息を潜めるように小声の応酬。片方は女の声だ。
「人違いだなんて、どうして……」
「今のオーナーかと思ったんですが。ああ、でも彼女、どうやら俺たちのよく知ってる奴で――」
「場合によってはIHPと直に交渉できますよ」
聞き耳を立てて拾えた限りでは、どうやらロイドはうまく二人を避難させたらしい。ひとまずそちらは安心だ。
迷路のようにあちらこちらとうまいこと見張りの目をごまかして出られないかと思案もしたが、やりすごすべき人数がわからない。麻痺がとけてから目に付く相手を片端からのしていくほうが楽だ。
さてここがどこの倉庫かは、まあロイドが割り出すとして。
彼が来るより早く自分でも動けるようになっておかなくては。
ロイドはまだ子供が、わずかに残るスギサキ――大人の男だった人格は彼にそれ以上の動きをさせようとすることだろう。あの子は弱い、弱いあの子に傷をつけていいのは自分だけなのだ。
* *
「尾行。すぐ戻る。避難すること」
手短に、内容はそれきりであった。すぐさまミナカイに連絡をいれて迎えにきてもらい、今はコノエ、イーファとともにIHPの本社ビル内である。
カウンセリングルームで絵を描いてはコノエに見せびらかす少女を横目に携帯端末を確認していたロイド、扉の開く音を聞いてすぐさま顔をあげた。
「どうですか」
「いやー。なんにもわかんないね。いやわかったことはわかったんだけどさ」
ロイドの端末の画面には光点がひとつ。カエデの携帯端末に入っているGPSだが、あろうことか海のど真ん中に投げ捨てられて役に立たない。
局長はイーファのほうへちらと目を向け、それから声を潜めた。
「この写真だ。これがコノエさん家のポストに入ってたんだと。わかる?」
差し出された写真には、抜けるような青い空が写っている。外を見る。曇りかけの空。じきに雨が降るな、という局長のつぶやきを聞きながら、写真を持って窓から見える範囲に目を凝らす。
「俺も一通り同じことやってみたんだけどだめだ。同じ景色を探そうにもどこかしら山かビルが写りこむはずなんだ」
「そうみたいですね」
「心配だと思うけどもう少し待機しててくれな」
「自宅でかまいませんか」
「いいけど。なんで?」
「夕食の仕込みをしておきたいので」
はあ、と素っ頓狂な声を上げたミナカイ、一拍おいて、声を上げて笑った。
「お前ほんと強かだな。大丈夫だよ、なんも悩むことはないさ」
「そうですかね」
「ああ、自分で思ってる以上にロイド君だよ」
帰り支度をしている少年の隣に、イーファが走り寄る。
「もう帰っちゃうの?」
「お家でするお仕事があるんだ。またね」
「うん……あー!」
ソファに熾きっぱなしの写真を見ると、彼女は目を丸くしてロイドを見上げた。
「お兄ちゃんもここ行くの? わたしもすき!」
例の青空の写真を指さし。孫娘のはしゃぎように気づいたコノエ氏が椅子を立ってその傍らへ歩いてくる。イーファの頭上からのぞき込むようにして写真を眺めると、「お空の博物館だね」と表情を和めた。
「お空の博物館?」
ざん、と一瞬、声がさえぎられた。窓の外をたたきつけるような大粒の雨が降り出す。
そちらに目をやり、
「イーファが好きでよくつれていくんだ。しかしこれはよく撮れてるねえ、ポストカードじゃなくて撮影用の区画で撮られたやつみたいだけど」
ロイドの目が、さっと壁に飾られた絵を見る。それから、イーファの頭をひとなでした。
「あれはおじいちゃんとお空の博物館にいる絵なの?」
おかっぱ頭が跳ねるように、大きくうなずいた。雨雲がかかって暗い室内が、一段明るく華やぐような満面の笑みで。
「うん!」
* *
整頓された家中に今や喪中のような静けさはない。カエデの書斎は辞書や資料用の書籍でいつも散らかっていて、いくらかロイドの私物が増えた。数年ぶりに新しい服なんか買ったよ、とはにかんで笑うカエデの顔を見て言いしれぬ懐かしさに胸が痛んだ。
髪をまとめ直し、少しだけ動きやすい服に着替える。ロイドのクローゼットにはカエデの趣味に走ったものと実用性の高いシンプルな衣類がだいたい半分半分でかかっている。
終話ボタンを押した携帯端末をポケットにしまって冷蔵庫を確認する。
足取りはあくまで軽いものだった、まるで大したことないように、まずは帰りに買うもののリストをこしらえた。カエデは決して弱い女ではないから、そう、ロイド以外の相手には。
だから余裕ぶって迎えにいこう。口径の小さな旧式の銃と財布を一緒くたに上着の内側につっこんで。教えてもらったお空の美術館は港の近くにある。港へ向かう大きな道路を挟んで東に、大学病院。それと向かい合うような立地だ。
雨の音はいよいよ激しく家中を走り回っていた。
* *
うまいこと同時にやるのがミソだ。これが失敗すると状況はより悪化することだろう。後ろ手に縛られた手でどうにか義足に内蔵したチタンブレードを引っ張り出した。
小さな音は、外のひどい雨の音にうまいことかき消えたようだが、関節をはずしたりワイヤーロープを切断する音をごまかすには少しボリュームが足りない。
暗い室内。たっぷり十秒使って深呼吸、一拍後、手首と足首を同時にひねる。ばん、とワイヤーロープのはじける高い音に紛れて、左手でひねった右手首が鈍い擦過音をたてた。
「何の音?」
足音。麻酔銃の銃口を見るやコンテナの陰に駆け込み、壁にたたきつけて右手首の関節をはめ直す。追ってきた男に左足を叩きつけるように回し蹴りで昏倒させ、逆方向からの手を掴んで投げるついでに前のめりに、床に転がった麻酔銃をとる。
「やりィ!」
待って、と必死そうな声を無視し、倉庫の見張りを銃身で加減なしにぶん殴り、扉を蹴りあける。
突如開ける視界。それまでの暗さと対照的にいやに明るい。青。一面の青。
目を丸くして、立ちくらみに似た感覚が思わず足を留める。一瞬の隙をついて、膝裏に叩きつけるような衝撃。しまった、と振り返るより早く二発目は的確に関節部を打ち抜いて義肢の機動力を奪う。その場に転倒したカエデに飛びかかるようにして押さえつける見張りの額から血が落ちる。
「やっぱり壊すくらいしとくべきだったんだ! 奥さん!」
「でも、」
「さっさとロープと麻酔もってこい!」
「離せ、あーもう! どこ触ってやがる!」
横っ面を殴られたお返しとばかりにアッパーで殴りつける腕をつかんで床に押しつける。相手の目つきにただならぬものを感じたカエデの背筋に怖気が走る。左足を跳ね上げようと試みるが重たくて持ち上がる気配がない。
叩きつけるような雨音、頭上に広がる青空と空気の乖離に頭の処理が追いつかない。
腹をくくる間も与えず、銃声。首をすくめたカエデの頭上で悲鳴があがる。腕と背中にかかっていた重圧がなくなったかと思うと、隣に倒れ込んだ男の肩をえぐるように二発目が命中する。白い床に赤い色が散った。
「カエデさん」
よく聞き慣れた声だ。
「動かないで」
乾いた銃声が数発、先にカエデが蹴りあけた扉の前でもう一人悶絶しているのを涼しい顔で眺めていたロイド、はたと自分の手元を見て目を見開いた。あわてた様子で上着を探り、それからよるべない表情で銃を降ろしたのを幸いと奥に隠れていたもう一人が飛びかかると、その懐でもう一つ銃声、くぐもったうめき声をあげて床にうずくまってむせび泣くのを横目に、扉の奥を注視する。がたがたふるえる女性一人ぽつねんと残されているのを確かめると、ロイドはすぐさまカエデの傍らに膝を折った。
「だいじょうぶですか。のんびりしすぎましたね、ごめんなさい」
「いや、アタシがとちったんだ。それにしてもお前これ……」
「はい?」
深い赤の目が気まずそうに周囲の地獄絵図を見渡す。雨の音を背景に。
突き抜けるような青空の下、両肩を撃ち抜かれて這いずる者、物置の扉の前に血を流す左膝を抱えて倒れている者、えぐれたわき腹を両腕で押さえて痙攣する者。一周してほっとしたふうなロイドの笑顔を見ると一気にどうでもよくなる。
「夕飯の仕込みはすんでるんですよ。あとはサラダとデザート用に少し買い物を済ませて――、あ、車は僕が運転できるので」
「あ、そう……いいけどさ、ここは」
「イーファのご両親についてミナカイ局長へ調査をお願いしました。ここの後かたづけもしてくださることでしょう」
「ま、待って、イーファのこと知っているの? 今家にいないみたいなの……」
呼び止める声を無視してカエデを助け起こし、立ち去ろうとするロイドに追い縋ろうとして立ち止まる足音。床の惨状にひるんだのかもしれない。
「ね、ねえ……!」
「ロイド?」
「なにか?」
「いや、後で聞く」
「ねえ、私の子をかえして」
ちらと肩越しに見た女性の顔立ちにはイーファの面影が濃く残る。彼女もああいう美しい女性になるのだろう。
「返してください、IHPの、要職の方なんでしょう、私、あの後ほんとうに後悔したの。あの子はどうあれ私の子であることに代わりなかったのに、あんなひどいことを……」
「勝手なこと言うよなあ」
呆れかえったカエデのつぶやきは向こうまではっきりと届いたらしい。
「勝手ですって。あなただってその子、もとはあなたの恋人だって聞きました。愛玩用のセクサロイドだって。あなたみたいに不純な目的でヒューマノイドにしたんじゃない、一人娘を病気から助けたかったんです。親心なんかわからないでしょう、その子だっていいように使われてかわいそうよ、自分の人生を歩ませてもらえないんだもの!」
「てめえ、なにを!」
「カエデさん」
どうどう、となだめるように肩をたたき、殴りにいこうとした彼女がバランスを崩すのをどうにか支えなおす。ホール入り口まで暴れるカエデを半ば引きずるようにして進む。
扉までつくと、うんざりした様子でロイドの足が止まる。腫れたカエデの頬を痛ましげに見てから、数歩またこちらへ歩いてきていた女性へ目を向ける。
「イーファはここが好きなのだそうです。僕はあの写真を彼女に見せて、同じ景色がここで見られると聞きました」
女の頬にぱっと赤みがさした。
「そうでしょう。ここはレンファの好きだった場所なんです。雨の日も晴れた空が見たいって、よく病院からつれてきていたの。
覚えててくれたんだわ、家族の大事な思い出だもの」
ちょうどホールを出てすぐの廊下にベンチがある。カエデをそこに座らせ、ロイドは大股に女性のほうへ歩き、目の前で止まった。肩をこわばらせてあとずさるのを気にもとめず折り畳んだ画用紙を差し出して「さしあげます」と笑った。
* *
遅れてきたIHPの職員たちにあとを任せて帰宅し、ミナカイ局長からカエデに文句混じりの電話がかかってきたのはその翌日のことである。
イーファを保護して半年ほど後に、両親、妻のほうがもう子供を作れない体だと判明した。そこからすでにイーファを返してほしいという要求をされてはいた、という。もちろん応じなかったから今回の事態に発展したのだろうが、虐待の前科がある以上こちら側が慎重になるのは当たり前のことだ。
それで、妻のほうが独断でSNSに同志をつのった。よそ行きに脚色された悲劇に乗っかって、非合法ヒューマノイドのドナーにされた人の遺族が幾人か、その中に未来オリエンタルヒューマンテクノロジー社の旧職員も混ざっていた。つまるところ、カエデが拉致されたことに限ればそちらの私怨もあったということだ。
で、まあ文句のほうだが要約すれば「やりすぎ」の一言につきる。やったのはロイドだと反論すれば、「お前が怒らせるからだろ」と頭を抱える姿が目に浮かぶような声色。
「はあ、アタシは怒らせた覚えないけど」
「……まあいいけど、ロイド君のほうにも言っといて、ああいう酷なことしないように」
終話を押して携帯端末を伏せると、カエデは背もたれごしにぐっと顔を逸らして掃除する同居人を眺めた。
「酷なことすんなよってさ、なにしたの」
「イーファからのプレゼントを差し上げただけですよ」
「プレゼントねえ」
「ええ。イーファが今ちゃんと自分の人生を生きてるってわかるものを」
椅子を軋ませてぐるりと回転、体ごと相手を向き直ったカエデは頬杖をついた。ロイドがちょうど拭き掃除している棚の二段目に、昨日大活躍した旧型の小さな銃がある。
レーザー銃も、その隣に。
「そっちを使ったのもたいがい怒られたよ」
「そうでしたか。すみません。レーザーだとすぐ死んでしまうと思って」
さらりと恐ろしいことを口にするのを苦笑いで聞き流し、席を立つ。書斎の掃除は任せて、今日は義足の調整に近所の医者まで出かけなくてはならない。
「カエデさん」
「はいはい」
「僕は、ちゃんとロイドなんだそうですよ」
「なんだよそれ」
びっこを引いて書斎を出がけに、肩越しのにやけ顔がロイドを見る。
「そんなん今更気にしてたのかよ?」
「どうでしょうね。あの日目を開けた瞬間から、僕の目に映る世界はすべて僕のものです」
局長に再三いわれていることですが、と付け足すと、そうだろうよとひらひら手を振って出て行く後ろ姿。名残を残して視界から流れて消える緑の髪を目で追う。
雨はあがって久しい。窓の外からまぶしく日がさしているのに気づいて、カーテンを閉める。
記憶は上書きされるものだ。実際のところあの絵がある種の救いになったことは間違いない。あれきり、スギサキカオルの記憶がフラッシュバックする頻度もだいぶ減ったのだから。
* *
こんにちは、日々新たに生まれる世界。
僕はもう雨が怖くない。
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