盈盈牽牛異譚


 こんな話がある。天帝には機織りのうまい勤勉な娘、織女がいたが、働き者で知られる牛飼いの男と結婚した。ところが、結婚したら二人はすっかり仕事をやめてしまった。怒った天帝は二人を天の川の東岸と西岸へ引き離し、年に一度だけ会うことを許した。
「それが、おもしろい話のネタですか」
 作家はスピーカーホンに設定した電話を傍らに置いてなお休みなく手帳にペンを走らせる。スピーカーから聞こえる声は「まさか! 前置きというやつさ」と笑い混じりに言うのだった。
 電話越しの会話の相手は先頃ちょっとした縁で知り合った探偵である。根っからの快楽主義らしく、知り合いに人気の作家がいるのは悪い気分ではないなどと愉快な理由で時折思い出したようにこうして連絡をよこすのだった。
「七夕伝説ですね。よく知られる童話の形だ」
「似たような話はわりと世界各地にあるそうだね。エウリュディケを冥界から連れ戻そうとしたオルフェウスの話もことによればこれの類型として数えられるらしい。それで本題だ。
 近頃ストーカーにつけ回されているという相談をうけたのさ」
「ストーカーですか」
「ああ。被害者はさる老舗の呉服店の娘さんだ。川縁に店を構えているんだが、店番をしている間ずっと川向こうから見知らぬ男がじっとこちらを見ているとね。むろん見ているだけでは大した事件ではない、警察だって取り合ってはくれまい。だってゴミを漁られたり声をかけられたり、あまつさえつけ回されたりしてるわけじゃないからね」
 道理である。上月は浦日の相づちがあろうとなかろうと勝手に続きをしゃべり続ける。顔をつきあわせていれば相手の反応を伺うのだろうが、電話越しでその楽しみは味わえないとわかっているからだろう。
「つけ回されているといっても前述の通りそのストーカー、ひねもすその娘さんを見ているだけなんだよ。そのうえ僕がそこにいくとね、そんな人間はどこにも見あたらないんだよ。ただ長らく改修中の看板が下がったビルがあるばかりでね。それも一階部分は廃墟同然、ブティックだった面影を残して今じゃ誰も立ち入らない」
「では、ストーカーはお嬢さんの妄想というやつでしょうか」
「どっこい、ここからが君の好きそうな話になる。
 つまり、彼女は隔世遺伝というのかな、亡き祖母の若い頃の姿とうり二つなんだ」
「なるほど?」
「それとなく聞き込みを続けているうちに常連の一人が教えてくれたんだけどね、近頃ずうっと、呉服屋のじいさんが孫娘の後ろで目をかっぴらいてどこか遠くを見ているってね、気味悪いと評判だったと。まあ孫娘のほうは気づいていないからこれは客同士の噂話にとどまる程度だ。お嬢さんは愛されているよね」
「川向こうにあるビルの一階がブティックの跡だとおっしゃいましたね」
「ああ」
「では見つめていたのでしょう」
「ご名答。いややっぱり本を読む手合いはいいね。話をするのにも退屈しない」
「ほんとうに主題にしたかったのは古詩十九首のほうですね」
 返答はないが、おそらく相手は大仰にうなずいたことだろう。
 河漢清且浅(河漢は清くかつ浅し)
 相去復幾許(相い去ること復た幾許ぞ)
 盈盈一水間(盈盈たる一水の間あり)
 脈脈不得語(脈脈として語るを得ず)
 逢えぬ日の続く織女の嘆きを中心に七夕伝説を歌ったものである。河向こうの夫を想って涙ながらに機を織りただ言葉も交わせず見つめ合う。
 呉服屋の先代は、ブティックの「姿見の向こうから」「在りし日の妻」を見つめて逢瀬をしていたわけである。
 むろんそんな結論を依頼人が喜ぶわけもないので、上月はその廃墟に立ち入って、道に面した姿見をブルーシートで覆うことで手を打った。ちょうど七夕の日であったという。
「それで、どうなったんです?」
「オチを考えるのは作家の役目だろう。おもしろいのを思いついたらそちらから教えてくれたまえよ。ああ、新刊でもかまわないけどね」
 これは一本取られた、では次の本が出たときにでも答え合わせをお願いしましょう。その日の電話はそんな軽口で終わった。

 上月は終話のパネルをスライドさせて、ぐるりと周囲を見回す。ひとまず外へ電話はつながると確認できた。これで、いざということになってもあの霊能刑事あたりに連絡を取れるということだ。
「とはいってもこれはいささか想定外だな」
 腕組み。触るまで自分の体の場所すらわからないような闇の中。しかしあの作家、話している間気がつかなかったんだろうか、ひらひらと周囲にひらめく白い手を他人事に眺めながら。

 七夕とはほかでもない、今夜のことだ。