女神は不在
今日はいい日和だ。縁側によその猫が我が物顔で眠っているのを横目に、自室がわりのプレハブを目指す。
自室がわり。とはいっても、もう読まなくなった本やがらくたを整理しておいておく物置に近い。3分の1くらいは妹のものだ。結は軽い手ごたえで戸を開き、中へ上がる。時折、無性にそこで過ごしたいと思うのだ。
休日のたびに、彼はちょくちょくそうしてプレハブの中で過ごす。
時折、ひどい喪失感をおぼえることがある。彼自身にはなんのおぼえもなく、ただ、そのことを「思い出す」たびに安堵と後悔と、そういういいようもない感情の波があふれてくる。なにか大切なものを取りこぼしたような気がするし、やはり気のせいなのかもしれず。
その違和感を払拭するためにいろいろ今までにも努力してきたものだ。その積み重ねがこの、プレハブの中のものだ。
数えきれないほどの本を読み散らかし、またなにか手になじむものがあればいいと楽器やスポーツに手を出した。資産家の親の金にあかせてあちこちつまみ食いをした知識は多岐にわたり、蛇崩結は院における当代の秀才であった。
時折感じる、空を掴むような感覚。空をつかむような。
だから、今は天文学と気象学を行ったり来たりしている。安直だが少なくとも無駄にはならない。やりたいことは多ければ多いほどいい。なにもせずにただ見苦しく日々を消費するよりは。
プレハブの奥から小さいころに買ってもらった望遠鏡を見つけ出したのは三日前のこと。今日はそれを手入れして一日をすごすことにした。星は。
いい。掴むことはできないまでも、目の前まで引き寄せることができる。
結に巣食う喪失感は、言葉にすれば恋に似ている。
それに追われてあたらしいものを学ぶとき。それを追っている間。それが喪失を埋めるものでないことに気が付いたときの虚無感。
読み散らかすように哲学を、心理学を、数学を、物理学を、科学を、古典を、メディアを、天文学を、宗教を、外国語を、経済を、積み上げるたび近づいたような気がしては錯覚と気づいて手放すこの空しさを、妹だけがまるで知っているみたいにさみしげな眼で見ていることがある。
その妹の提案であった。朝食の席で、向かいから身を乗り出すようにして。
「ね、山にいかない?」
「山? なんでまた」
妹──蛇崩優はそのいらえを聞くなりむっと頬を膨らませ、兄に抗議の目を向ける。
「なんだよ」
「だってお兄ちゃん、いつもはこういうの敏感じゃない」
言いつつ、新聞を取り出す。火星がいつもより近くに見える周期、そういえばそんなのもあったななんて受け流し、夜山へ向かう提案を受け入れた。
そもそも今朝に限って、朝刊を読んでいなかった。
「今日は」
ふっと、首を巡らせて縁側から庭に目を向ける。広い庭の片隅にプレハブが見えた。
「他に用事がなかったか?」
「?」
妹は小首をかしげて、彼の視線を追い、何か合点したような顔つきで「ないよ」と答えた。
いやに優しい声であった。
隣家には仲の良い双子の娘がいる。近頃高校を卒業したのだとか。笑うと猫に似ているあの二人、苗字が鍋島だというからまたおかしい。化け猫の話を教えてやると「ほんとに化け猫なのかもしれませんよ〜」なんて身もふたもないことを言ったりする。
優が夜の散歩に誘いに行ったが、あいにく家族で出かける用事があるのだそうだ。ふざけた妹のほうが、「妹さんとのデート邪魔できないですよー、ね、結兄さん!」とあの猫みたいな笑顔を向けるのを、落ち着かない気持ちで受け流し。
「君たちはどこに?」
「出る! って評判の廃病院に!」
「やめなさい」
「えーっ、結兄さんだから話したのにー!」
どこまでが本気だか、姉妹で腕を組んできゃっきゃと騒ぎながら去っていく。
望遠鏡を担ぎなおし、暮れた夜の道に踏み出した。
小さなころは月食のたびに騒いで望遠鏡を担ぎ出したものだ。他愛もない思い出話をしながら、妹の手からプラスチックのカップを受け取る。じわりと手のひらに染みる熱。水筒にれてきたのは紅茶だったらしい。
「ませてる」
「いいでしょ、小学校の遠足じゃないんだから」
「それもそうだ」
ひとしきり観測を終えた休憩に、妹は持ってきた菓子類を鞄から出して結の手に渡す。その実星が見たかったわけではなくて、こうして外で飲み食いしたかっただけなのではないか。
そんな疑念も口には出さずに上を向く。たいてい、妹の思い付きはそんなものなのだ。
胸を刺す喪失感に眉を寄せる。
蛇崩結には、資産家で、人並みかそれ以上に甘やかしてくれる両親がある。気の利く妹がある。大きな家や恵まれた家庭環境のもと、近所との関係も悪くない。信頼できる友人も多く、将来に特別不安もない。恋人も、たぶん、選べる程度には顔も頭も悪くない。
両手にあまるほどいろんなものを持っている。
「お兄ちゃん?」
「あ、あぁ。どうした」
「なんだじゃないよ。今朝から、ぼーっとしてるよ?」
「そうかな」
空気が冷えて来た。夏のはじめとはいえ、夜はそこそこに寒くなる。結が片づけを始めると、妹もそれにならった。
「ねえお兄ちゃん」
「ああ」
「同じものを見ようとしてるんだね」
優の言葉の意味を理解するよりも前に、じわりと視界がにじんで落ちた。
目をしばたたかせ、袖でぬぐって、荷物を背負いなおす。
「誰と」
「うーん、運命? とか?」
「子どもっぽいこと言うよな」
「私まだ子どもだもん」
今年を過ぎたら高校に上がる妹は、つんと顔をそらして言い捨てると、すぐ気を取り直して結のほうへ手をさしだした。
「帰ろ」
「……。あぁ。帰ろう」
握り返した手の感触がなにかに重なる。
運命とはいいえて妙だった。結は肩を落として、優の手を握りなおした。
今まで一心に探してきたものはそれだ。これからもこうして両手にあまる幸福を抱えたまま、一心にそれを見つめ続けて探すのだろう。
星はいい。触ることはできなくても見つけることはできるのだから。
だから──
ここに存在しない恋の行方を、運命と呼ぼう。
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