なんでもない逃避の話


「逃げましょうか」
 ふいにそんなことをのたまう恋人をぎょっとするでもなく、結は一瞬足を止め、見下ろした。彼女はといえばそれを知らずか、濃い緑のブレザーを脇に抱えて、一歩先に行ってしまう。
「どこに行こうか?」
 年頃の少女とはかくあるものか、分かってる風に聞き返すと三歩先で振り返って困り顔で笑う。真意を掴んでいないことなんかお見通しとばかりであった。

 鍋島美弥子は、面倒な女だ。
 なお面倒なのは、それを自覚し、年上の恋人の手に余らない程度に自制できることだ。今回のような思いつき以外、であれば。
 どこへ行こうか、と聞き返されて、だから、彼女は返答に困ってしまう。考えてなかったから。笑顔を向けて誤魔化し、それから、また考えを変えて「沖縄」と返した。
「沖縄がいいです、海路で」
「海路」
 わざわざ指定したのがおかしかったのか、結はふっと口元に手を当てて笑う。
「今から?」
「もちろん、今から」
 それは大事だな、言いつつ手持ちを確認し――通帳が荷物に入っているのを見ると、美弥子の手を引いてきびすを返した。
 何か言いさした彼女がだまってついてくるのを横目に、港の方向へ歩く。赤く染まりがけの空の下、美弥子と同じ制服の中学生に家路をたどる小学生とすれ違う。学校の前を通る。
 運動部の雑多な掛け声が頭上をすり抜けていくのを見上げ、こころなしか美弥子の手が結の手を強く握りしめる。港はここからそんなに遠くない。とはいえ歩けば一時間はかかる距離だ。グラウンドの前をつっきって、あぜ道を歩く。まだ青い穂の上を、蜻蛉がせわしく飛び回っていた。
 蜻蛉をどうやって捕まえるか、なんて話をしたのは何年ぶりになるだろうか、子供の頃じいさんに聞いたきりだ。結の言葉通りに蜻蛉に指を近づけた美弥子、羽を掴んだものの暴れられて思わず逃してしまって唇を尖らせた。
 西側からせり上がってくる橙色に向かってゆったりと歩を進めながら。
 港についたのは全体、空が薄紫になった頃だ。
 フェリー乗り場はしんとしていて、むしろ駐車場に二台だけ停まっている軽自動車がなんだか場違いに感じられる。風になぶられる前髪を抑えて、美弥子はほっと息をついたようだった。

 満月だったんですねえ、と笑う声につられて顔を出す。水面をいやに明るく照らす月影に、結は目を眇めた。
「みぃ、寒くないか?」
「ええ、ぜんぜん」
 抱えていたブレザーをきっちり着込んで、いつも高い位置でまとめている髪の毛も解いた。肩の上で奔放に跳ね回る髪の毛を気にする様子もなく、手すりに背中をあずけてその場に座り込んだ。
 乗客は二人だけであった。

 十六になったら。
 高校に行かず、ないしは高校に通いつつ、たぶん、この人と結婚するのだ、しよう。
 美弥子はただ今中学生三年生で、それはつまり、その未来はもうそんなに未来じゃないということだ。
 それが時折ひどく恐ろしく思える。突然逃げたくなるほどに。
 愛してくれる親と、たくさんの理解ある友人と、可愛い服と、普通に生活できる環境と、学年でそこそこの順位をキープできる頭と、年上の恋人。美弥子はたくさんのものを持っている。
 例えばただ中学生でなくなるというだけで。
ただ恋人から夫婦になるだけで、その一切合切を喪ってしまうんじゃないか、変化を恐れて足が竦む、漠然とした恐怖が。
「無くなるわけでは、ないのですけど」
波をかき分ける音に紛れて流れていく自分の呟きを見送った。

「将来になんの不安もないのですけど――」
「でも今不安なんだろ」
 独り言に返事があったことにか、返事の内容になのか、ぎょっと美弥子は彼を見上げた。
「今、ですか?」
 緑の陰が網のように結の顔にかかっていた。
 暑いな、と手で仰ぐ。森の中であった。
 変にばくばくしている胸を抑えて、美弥子はぐるりと周囲を見回した。驚いていた。
 何に、驚いたんだか――
 足を止める。
「むすぶにいさんは、なんでこんなところにきたんです?」
「みぃが沖縄って言ったんじゃないか」
 笑いながら答える結を、まん丸くした目で軽く十分は見つめただろうか、昨日からずっとあった動悸がじわじわと引いていくのをさとると、勢い、彼に飛びついた。
 土に足を滑らせ、慌てて踏みとどまった結の胸に顔を押し付けて、そうでした、と言うのが精一杯だった。
「明日はどこまで逃げる?」
「あ。はは、えっと、帰ります」
 顔を上げた美弥子が耳まで真っ赤にして返すのはまあ想定されていたようで、結の手は彼女の頭をひと撫でして、あっけなく離れた。