リンネ
あの、あのね、うちきてほしいの。
絞り出すような声でシャツの裾を掴んできたのは、一言も話したことないクラスメイトだった。いつも髪は(多分あれでも整えてるんだけど)ぼさぼさで、見るからに洗濯されてない服着てて、話ししても言葉が飛び飛びのよくわかんない子。落合まな、という名前だった。愛って書くらしいけど、発音はなんかひらがなっぽい、まな。
まあ、わたしもあんまクラスに溶け込んでるわけじゃない。人のこと言えた義理じゃないんだけど。また、そんなだから、わたしを狙い撃ちしてきたんだろう。
「落合さん」
「あ、うん!」
うん、じゃない。
今のでもうわたしは家に行くことになっちゃったな、となんとなく直感する。すっごく嬉しそうなその表情で。
しょうがない、遠巻きにこっちを見てた友達には先に帰ってもらうことにした。
「……いいよ。どうしたの」
「んーん。どうも。えとね」
しどろもどろだ。彼女はなんだか言いづらそうに視線を落として、つま先をしきりにぐりぐり床に押し付けている。言うこと思いつかないのかな。
「おかあさんが、今日うちいるから」
今日、親いないから、っていうセリフはよく漫画とかで見るけど。逆じゃないか。言いかけたのをぐっとこらえて、まあいいか、と流すことにした。
へたに苛ついたら、姉さんに苛ついてるって気づかれてしまうから。
「いいよ。お土産買ってく?」
「ん」
ほっとしたあ、と言わんばかりの笑みがわたしを見上げていた。うん、落合さんは、わたしより頭ひとつぶんくらいちっちゃかった。わたしが大きいんじゃなくて、彼女が小さいんだ。なんか……。
ふいに、ちょっとかなしくなった。
落合さん、顔はかわいい。色白で、目はパッチリしてて。
きっと、髪の毛整えて、洗濯したきれいな服着せたらモテるんだろう。
なんか、その、ギャップみたいなのがちょっとだけ、かなしい。
落合さんの家は、ちょっといいマンションの一室だった。エレベータとかついてる、十階の角。そういえば、たぶん担任以外はだれもこの子がこんなとこ住んでるなんて知らないんだろうな。
中学校の校区なんだからあたりまえだけど、拍子抜けするくらい近くにあった。
彼女がちょっと重めのドアを、小さい体をいっぱいに使って一生懸命に開いてどうぞの合図をするので、なし崩しに中へ入る。
「おじゃまします」
おそるおそる。実際、わたしは体を縮こめて入ったと思う。友達でもなんでもない子の家。しかも親がいるという。「はあい」と明るい返事が聞こえたのは、すぐ後だ。軽い足音と一緒に、落合さんにそっくりのきれいな女の人が走ってきて、にこっと笑った。
「あら、こんにちは。まなのお友達? はじめてだわ、まなが友達をつれてくるなんて!」
「え、はあ……」
「まなもおかえり。あがって。あ、ゆなは居ないほうがいいのかな? ちょっと散らかってるけどゆっくりしてってね」
ゆな……って、お母さんの名前だろうか。控えめなピンクのネイルがにゅっと前を横切って、靴箱の上にあった人形を抱えあげて歩いていく。
容量を得ないまま靴をぬいで上がる合間に、後ろを見ると、落合さんは真っ青な顔で足元に視線を落としていた。ドアをしめるのも忘れて。
「落合さん?」
「う、うん。あの、どうぞ」
「どうぞじゃなくて。あがろうよ」
「うん」
思ったより普通の家――と思ったのは、玄関廊下だけだった。
リビングは一面の人形、ぬいぐるみ、それこそ家具の上から天井ぎわまで埋め尽くすほど。対面式キッチンのカウンターにまで大小さまざまのぬいぐるみでいっぱいなのだった。
「えっと……」
「あ、そこのソファでいいよ。まなの隣にどうぞ。あ、炭酸しかない。サイダー好き?」
「え、はい」
カウンターの奥から聞こえる声にしたがってソファに行くと、ソファにはさっきお母さんが持っていった人形が座っている。
なんか気味悪くなってその隣を避けて、斜め向かいに座ると、落合さんはわたしの隣に肩身の狭そうな格好で座る。
氷の音が涼しげに響く。
落合さんのお母さんは、テーブルの横に立つときょとんとわたしたちを見つめた。
「まなの隣でいいのに~。遠慮しいなのね」
なんてかわいらしい笑顔を浮かべて、あの人形とわたしの前にサイダーのコップを置いて「ゆな、向こうの部屋にいるね。なにかあったら呼んでちょうだい」と、踵を返して行ってしまった。扉が閉まる音を聞くまで、わたしは息を潜めて目の前に置かれたサイダーを眺めていた。外気でガラスの表面が汗をかいて、コルクのコースターに染みていくのを。
まな、と呼ばれたあの人形を見なくてすむように。
「ご、ごめんね」
隣で、落合さんの消え入りそうな声が聞こえた。
わたしは、なんにも言わずに首をふって、出されたサイダーをあおった。喉を刺すような冷たさが通りすぎていく。
「おともだち、つれてきたら、お母さん」
ぐすっと洟をすする音がまじる。
うちも最近似た感じだから、何を言いたいのかなんとなくわかった。
「お母さん、まなのこと、見えるかとおもって」
「落合さんのお母さん、ずっとお人形のこと落合さんと思ってるの?」
「うん。うまれてずっとだって」
「いままでどうしてたの?」
「おじいちゃんと、おばあちゃんが、ときどききてた」
「そっか」
落合さんが泣き止むのを待って、買ってきたお菓子を適当に分けて食べながら、なんでもない話をした。友達でもなければ、相手もあんまり人と喋ったことないからよくわからない相槌をかえす。そんなたどたどしいやりとりを、まるで親に気づかれちゃいけない内緒話みたいに、声を潜めて続けた。
不意に、時計の音が耳についた。
気づいたら、ここにきて一時間が過ぎていた。
「あ、六時」
「遅くなっちゃった、ごめんね」
「ううん」
よそよそしい雰囲気に、どちらともなくちょっと笑ってしまう。
落合さんも笑顔であることに、少なからずほっとしていた。ああやってずっと泣かれてたらって思ったらたまらないから。
「……あのね」
「うん?」
「まな、今日、まなのこと殺しちゃおうって思うの」
うんと声を潜めて、まるで一大決心みたいに、落合さんはわたしを見上げた。わたしの目はその肩越しに、座らされたままの人形を見る。
それは、まぎれもなく落合まなの人生最大の、一大決心なのだった。
「うん、がんばってね」
心の底から、そう言ったと思う。
彼女は花の咲くような笑顔でうなずいて、わたしを玄関まで送ってくれた。
「鍋島さん」
ドアを閉めかかった向こうから、
「ありがと」
と、言うのだった。
* *
結論から言えば。
落合まなは、その日のうちに階段からころげ落ちて死んだ。
階段から落ちただけなのに、五体はバラバラになっていたんだそう。あんまりひどい死体だったから、まずバラバラにされて、それを階段の上からぶちまけたものだとみんな思ったんだそうだ。
でも、彼女がバラバラになったとしたら、まさにその場でバラバラにされた、そうとしか思えない状態であると後にわかった。現場検証とかいろいろで。これは、新聞とかテレビであとから知ったことだ。落合ゆなというのがちょっと名のしれた舞台女優だってことも。何度か流産したとか、赤ちゃん殺したことがあるとかそういう噂があることも。
わたしは――
今日もその事件について面白おかしく話すワイドショーから逃げるみたいにテレビを消した。
五体バラバラになった人形が目の前にぶちまけられるみたいな幻覚を振り払って、イライラと椅子を蹴飛ばした。
「お母さん、今日遅いね」
あえて口に出してみると、食卓にのせた手の甲を、凍りつくようなつめたい感触が覆った。
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