年の瀬猫怪談


 外はあいにくの雨で。
 大晦日だってのに幸先が悪いといったらない。ゴミ袋のにおいを気にしながら、冷たい雨粒をフロントガラスがはじくのを眺める。人通りが少ないのだけが救いというのか。それにしたって大掃除のことを考えるとげんなりだ。
 そんな薄暗く曇った景色の中に。
 ブレーキ。
 見知った影を見つけた。猫背をさらにきゅっと縮こめてずぶ濡れの、小柄な影。忙しいし無視するかと思った手前、大げさにくしゃみなんかしてるのを見てとうとう放っておけなくなる。
「鍋島、なにしてんの?」
「んにゃ」
 ぶるっと頭を振って水を払う仕草が猫のそれ。こいつは化け猫かなんかじゃないのかと、結構本気で思ったものだ。名字も鍋島だし。
 一拍遅れて「あっ、先輩じゃないすかー!」なんて明るい笑顔を向けてくる。
「なんか、迷子になったら雨に降られちゃいまして」
「ちょっと降られたような濡れ方じゃないぞ。隣乗れ、タオルあるから使って」
「いいんすか? 悪いでしょ邪魔しちゃあ」
「いいから」
 やったあ、と間延びした喜び方でもって助手席に乗り込む鍋島に、ボストンから汚れてないタオルを何枚か渡してやる。シートと身体の間にもいくらか敷いて、頭をがしがし拭く合間にまたくしゃみする後輩を横目に、アクセルを踏む。
「先輩、家このへんなんですか?」
「いや。今日はちょっと実家に帰ろうと思ってさ」
「へー。奥さんとこです? てか久しぶりっすね、高校以来? じゃないっすか?」
 赤信号を見る。スクランブルの交差点は、色とりどりの傘がくすんだ情報の洪水。こんな大雨の中も歩いてる奴が多いのが年末の忙しさ。これでいつもより人通りは少ないんだもんな。
「何しに迷子になったんだ?」
「あー。なんだっけ。気がついたら知らないとこよくいるんですよね」
 などと勝手に俺の車のナビをいじくって、住所を入れて見せる。なんと、向かってるほうとは正反対だ。
「嘘だろ」
「あ、ほんとですねウケる」
「ウケるな、ガソリン無駄にするとこだぞ」
 横で笑う鍋島にしたたかげんこつを落として黙らせ、適当なコンビニの駐車場でUターンである。世話の焼ける奴だ。
 カーステレオから流れる紅白の出場者ラインナップやらそれにともなう雑談だとかを聞き流しながら。うとうとと舟をこいでいた鍋島が、うっすらと目を開けた。カーナビが細い道ばかり通らせるようになったころだ。
 電波が悪いのか、音声がざらついて耳障りなものに変わる。
「……あ、先輩」
「どうした」
『ここ、寒、い』
 妙な声だった。鍋島の声じゃない?
 ふとエアコンを見る。息が白い。ああ、冷房にしてたんだった。
「悪いな、ちょっと生ゴミ乗せてて」
「でもこれ、奥さんも寒いでしょ」
 茫洋とした目が、バックミラーのほうへ泳いでいるのに気づいて、急ブレーキを踏んだ。
 寒いっていったのは鍋島じゃない。
『ど、……こナの。aけて……さむuい』
 勢いカーステレオを切る。身を乗り出した俺の手は後輩の襟首をつかんでいた。
「先輩?」
 安全な場所で殺すのはやめた。
「お前、また俺に見えないもの見てるな?」
 がつんと窓にたたきつけた頭が鈍く音を立て、車体を揺らす。細い首を、へし折らんばかりに締め付ける。
「……ッ?」
「あやめは自殺したってな。知ってるか? 知ってるよな? お前鍋島じゃないんだろ? あやめだろ? 鍋島に俺が結婚したことなんか言ってないもんな、俺が不幸になったのを確認しにわざわざ来たんだろおいなんとか言えよあやめ」
「せ……」
 喉を押しつぶす指に、細い鍋島の手がすがる。手を引っかかれたりするとまずいんだっけ、消毒用の道具を用意しなくちゃいけない。
 とうとう声を上げられなくなった口が、ぱくぱく何かを訴えようとする。赤くなった顔から血の気が引いていく合間に、震える手が後部座席のほうを指さしている。見ない振りをする。ずっとだ。こいつを隣に乗せる前から、俺は後ろだけは絶対に見なかった。誰も乗っているはずないんだから。
 誰も。
 ぱたりと、重く湿った上着の上に、その手が落ちた。
「……おい」
「ねえ、ここどこなの。出してよ」
 後部座席のほうから、がさがさとうるさく袋を掻き分ける音が聞こえてくる。

   ***

「元気そうでなによりです」
 呆れた様子で眼鏡をかけ直す芦屋に、鍋島はあの猫のような笑みを返した。身振りもつけてはぐらかしたいところではあったが、あいにく腕も足もうまく動かないときた。
「やー。さんざんな年末でしたねお互いに!」
「だいたい今回は君のせいですよ」
「えー。へへ、その節はお世話になりました」
 発端は年末の自損事故だ。大破した車の中には、若い男と、黒いゴミ袋に詰められていたであろうその妻。ばらばらの五体は車中に散乱してちょっとした地獄絵図だったという。
 それと鍋島。
 鍋島さえいなければ、彼が慌ててその捜査に加わってやることもなかったろう。本人にいわく、「迷子になったところ、高校の先輩が自宅へ送ってくれるというので乗り込んだ」ということだが、これじゃどうみても殺人と死体遺棄の共犯――それも不名誉きわまりないことに、不倫とか浮気とかそういう類いの――である。
「フォロー大変だったっしょ? そこはほんとに申し訳ないです」
「そう思うならもう少し自衛してください。僕が呆れてるのは、そうやってゆきずりの霊にひょいひょい身体を渡すところですよ」
「好きで乗っ取られてるんじゃありませんー」
 むくれた様子で顔を背ける。
 それから、思い出したように下腹部のあたりに手をあてた。
「だって、先輩……おぼえててくれたんです、あたしのこと」