学校の階段


 踊り場の隅に向かって膝を抱えて座っている男子生徒がいる。
 月森灯からそんな話を聞いたのはちょうど夏にさしかかろうかという時期であった。
 大学の階段の踊り場で、隅に向かって膝を抱えて座っている男子生徒がいる。なんでも、格好は別段ふつうらしい。ただ、そうして座っているだけ。しばらくはみんな気味悪がって噂をしていたが、半年も連続で見るとだれも気にとめなくなってくる。
 そんなわけで、どうして今更そんな話題が出たかと言えば。
「月森サン、それ誰っすか?」
 貸していた本を返しにきた鍋島が玄関から自室の隅を指さしたからであった。

 ほたるは視線をよるべなくさまよわせて、さんかげつくらいまえ、と、遠慮がちな声で応えた。「それ」がこの部屋に居着いた時期である。ただ部屋の隅を見て膝を抱えているだけで、家主やほたるに危害を加えるそぶりはないという。
「さ、三ヶ月も……?」
「心当たりないんすか?」
「まったく……あ、いやちょっとまってくださいよ」
 その姿勢に対する心当たりが、前述の話題だ。
 踊り場の隅に向かって膝を抱えて座っている男子生徒がいる。
 半年ほど前から見かけられるようになり、実際に月森も見たが、まあ大学っていろんな人間が集まるもので、そんな奇行に走る者もまあまれにはいるだろう。そんなふうに納得していつのまにか意識もしなくなっていた。
「同じ格好……? っすかね?」
 しばらくあごに手を当ててそれをのぞき込んでいた鍋島、不意に手を胸の前で打ち合わせて月森を振り返った。
「月森サン、それどこの階段か教えてくださいよ! 俺なら同じ格好かどうかわかりますよー!」
「いいっすけど……見てどうするんすか?」
「え? どーもしないっすけど。部屋のやつは有害そうなら芦屋サンに頼むのがいいですよ」
 そういえば建前上おもしろそう、で首を突っ込む人間であった。ここ最近八代がらみの騒ぎがないのですっかり忘れていたようだ。
 月森ははねるような足取りで玄関を出る小柄な背中を眺めてちょっと肩をおとした。
「そーいえば、月森サン、死んだ人とか見えないんすよね」
 鍵をかける音を聞きながら、思い出したような問いかけ。なにを今更とばかりにうなずく月森を見上げ、鍋島は一瞬うすらさむいものが肌を駆け上がるのを感じて知らず自分の腕を押さえた。鳥肌が立っていた。

 はたしてそいつはそこに居た。
 月森が以前見たときと同じように膝を抱えて踊り場の隅を見つめて微動だにしない。
「――」
「今日もいましたね、って鍋島さん?」
「ちょ」
「えっ?」
 彼の肩越しに彼を見るや、鍋島はすぐさま身を翻して廊下にそなえつけの水道まで走った。
 吐いた。
 昨晩夕飯をとっていないのが幸いして大したものは出てこなかった。
「ど、どうしたんすか、大丈夫ですか?」
「か……確認したいんすけど」
「ええ」
「アレ、月森サンにも、ほかの人にも見えてたんすよね?」
「あ、まあ噂になるくらいですし」
「半年前から、ずっと?」
 青ざめた顔が、やっとのことで月森を見上げた。
 夏にさしかかろうという時期にはあんまりな厚着の下で、小さな手はがたがた震えていた。

 結論から言えば、それは死体であった。
 死因は急性アルコール中毒で、亡くなったのはおおよそ半年前。年明けにあったサークルの飲み会で倒れた彼をサークルのメンバーがああして座らせてそれっきり。酔っていたのだ。まさか死んでしまうなんて思わなかったし、まさか半年ずっとあそこに「放置されたまま」になってるなんて誰が思っただろう。噂になるころにはサークルメンバーは怖がってだれ一人その階段を通ろうとしなかった。
 誰も。
 彼らのほかにはその男子生徒が死んでいることすら知らなかった。
「だって、自分が通るときたまたまそこに座ってるだけだと思ってたから」
 生徒たちの言い分は概してこのようなものであった。
 月森もまたそのうちの一人だ。
「無関心って怖いっすね」
 パトカーと救急車と野次馬の間をどうにかこうにか抜け出して開口一番、そう言ってうなだれた鍋島の顔色は、未だに血の気がない。
「なんか違うものでも見えたんすか?」
「なんにも」
「それやばいんすか?」
「やばいっすよ。たぶんすごいやばいっすよ。芦屋サンに連絡いれといたほうがいいっす」
「殺人事件的な?」
「違いますよー、やだな月森サン」
 あきれと焦りとが混ざったような困り顔が月森を見上げ。

「なんで月森サンの部屋で”見える”んすか、おかしいでしょ」